京都御苑 


京都御所(写真1)


歴史観光

 延暦13年(794年)、桓武天皇が築いた「平安京」の内裏(皇居)が、幾度かの移設・焼失を経て、元弘元年(1331年)に《現在の地》が「御所」と定められた。明治2年(1969年)に、首都が東京へと遷都。旧御所の周囲にあった公家屋敷を撤去して、明治16年(1883年)に整備が始まり、大正4年(1915年)の大正大礼の際に、今の「京都御苑」が誕生した。
 現在では、散策やスポーツ等、京都市民の憩いの場として開放されており、京の三大祭である「葵祭(5月15日)」「時代祭(10月22日)」のスタート地点となっている他、普段は非公開の「京都御所」も、毎年春・秋の二回、無料で一般公開されている。


必殺シリーズでの撮影

 「京都御所」そのものが《必殺シリーズの撮影》に使われている例はないが……「新・必殺からくり人」#13/京都、「必殺まっしぐら!」#2/相手は京の欲ボケ貴族…では、ストーリー的に関係。
 SP「闇討人」においては、御所の改修工事に伴う陰謀がテーマになっているのと同時に、京都御所を表現するのに最も有名な構図−「建礼門(南大門)と紫宸殿」が、主水が京に着いた直後の場面とEDクレジットの二回、京のイメージ映像として使われた。


京都御所・建礼門(1)

▲ 「京都御所・建礼門」(二景) ▼

京都御所・建礼門(2)


▼ 「京都御所・建春門」 ▼

京都御所・建春門


来島又兵衛・戦死の場


▲ 「蛤御門の変/来島又兵衛・戦死の地 ▲

 文久3年(1863年)、長州藩が朝廷から追放された「禁門の大政変」では、新選組の名を与えられる前の《壬生浪士組》が、警備役として蛤御門へ出動。元治元年(1864年)には、勢力回復を目論んだ長州軍が、京都御苑の蛤御門付近で、幕府&薩摩藩の連合軍と激突!新選組も大挙出動した、この戦いは、後に「蛤御門の変」と呼ばれる事となる。
 激戦の最中、長州軍の指揮官・来島又兵衛は、京都御所の西南角に立つ「樹齢300年の椋の木」の側で、会津兵に狙撃されて戦死した。大河ドラマ「八重の桜」では、主人公である八重の兄・覚馬が放った鉄砲で、討ち死にしたと言う《物語》となっている。その後、長州軍は壊滅し、長州一の英傑と謳われた久坂玄瑞も自刃した。来島・久坂共に、京都市東山区の霊山護国神社に眠っている。
 尚。この画像の右端に写っているのは、「大文字・五山の送り火」の火床。

▼ 「京都御所・蛤御門」(二景) ▼


蛤御門(1)蛤御門(1)



 旧・閑院宮邸跡 


北町奉行所(1)


▲ 「旧・閑院宮跡(北町奉行所)」(三景) ▼


北町奉行所(2)北町奉行所(3)


歴史必殺シリーズでの撮影

 京都御苑の南西に位置する「閑院宮邸」は、宝永7年(1710年)に《宮家の創設》と共に建てられた。東京遷都の後、明治16年(1883年)に「宮内省京都支庁」となり、戦後に厚生省(現在の「環境省」)の「京都御苑管理事務所」となった。
 「仕置人」〜「仕留人」においては、主水の職場である「北町奉行所」として使用。「助け人」最終話&「仕事屋」第1話では「北町奉行所」。「からくり人」でも南北両町奉行所として使われている。

 「京都御苑」について、より詳しい情報を知りたい方は、
「京都御所 京都御苑散策記」のサイトへ。【所在地:京都市上京区京都御苑(地下鉄:丸太町駅・今出川駅すぐ)】

【参考ホームページ】「時代劇の風景」 



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