自宅で出家する

在宅出家の仕方

 

 出家してなぜ自宅に居るのかと、疑問に思う方がいるかもしれません。それには、『出家』の目的と同じにすると答えることができます。『出家』という意味は、避けるべきものをすべて避けるという意味で、つまり苦である種類の生活や行動を避け、苦に向かうことは何でも厳格に避けます。心の中を「自宅に居る」「寺にいる」としません。実際には家にいますが、心では、家にいるとか寺にいるとか考える必要はなく、心を正しい品行の意味にふさわしくする、つまりあらゆるレベルの避けるべきものを避けるだけです。

 もう一つの『梵行』、つまり「素晴らしい振る舞い」という意味である梵行という言葉を考えても、「家で」「寺で」と場所を限定していないので、行動できれば行動します。たとえば家で八戒、あるいは十戒を遵守することもできます。梵行とは、精いっぱいの品行、あるいは長期間続けている厳格な品行という意味で、生涯続けることもできます。簡単に言えば、家で梵行である品行をすることができます。

 次に、出家できない人、あるいは比丘尼として出家できない女性の中には、残念がってひがむ人がいます。あるいは他の理由で出家できない人もいますが、残念に思う必要も、ひがむ必要もありません。できる限り最善、最高のタンマの行動をするよう努力すれば、それが家で出家することであり、「在宅出家」と言います。

 良く聞いてください。出家とは避けるべきものを避けることであり、梵行とは、どんな些細なことでも厳格に、本気で教えの項目である正しい行ないをするという意味です。生涯継続して素晴らしい行動ができれば、「梵行」と呼ぶことができます。今みなさんが仏教のどんな実践規則を行動規範にしても、お寺や森の中で出家している人たちと同じ結果が生じます。

その上、家での出家は、お寺や森で無意味な出家をしている人たちより、善くできる場合もあります。以上の理由により、場所の問題はそれほど厳格に重要ではなく、厳格に重要なのは、むしろ「品行」にあります。家で出家するにはどうするか、みなさん良く聞いてください。

 

家で出家する時の実践原則

 自宅での出家は、本質であるタンマ、あるいは明確で不動の本物の仏教の教えに依存しなければなりません。次に実践原則にするタンマを選びますが、たとえば八支正道(八正道)のようなものは選びません。それはお寺でもどこでも良い一般の教えなので、もっと高い、もっと緻密な種類、つまり「五力」というタンマ集を使います。良く憶えてください。

 五力とは「信仰心・精進・サティ・サマーディ・智慧」で、一つ一つを力(インドリア)と言います。インドリアとは「重要」、「重要なもの」、「重要な教え」という意味で、五項目すべてが一般の実践の中にあり、サマーディをするにもバーヴァナー(増やすこと。生じさせること)をするにも、五項すべてがあるようにしなければなりません。良く聞いてください。どの項目のタンマを実践するにも、この五力すべてが揃っているように実践しなければなりません。

 

1.信仰心 : 滅苦の道具であるタンマを信じる。

初めの項目は、「サッダー」で、信仰心という意味です。家で出家するにも、タンマに信仰心が最高になければなりません。何を信じるのでしょうか。何を信じるのかと問えば、滅苦を可能にする道具であるタンマを信じます。一般に良く知られているのは、戒・サマーディ・智慧、あるいは苦を滅すタンマである八支正道で、みなさんは勉強しました。これらのタンマは本当に滅苦ができると、あるいはこれらのタンマは本当の拠り所であり、とりあえず信じることができる、と見えたので信じます。

 そしてもう一度信じるのは、このタンマを実践できると、このタンマを実践するにふさわしい正しさが自分にあると、自分自身を信じます。これがもう一つの信仰です。合わせて二つ、「これで滅苦ができる」という実践行動への信仰と、「自分には十分滅苦をする美徳がある」という信仰心です。

 このような信仰心があれば、家にいること、家で出家することは、威力を生じさせ、力を、内面の力を生じさせます。こういう言葉を使います。タンマ、つまり一般の教えである戒・サマーディ・智慧を実践する威力や力が生じますです。たとえば家で戒を遵守するには、確かな信仰心のある人の戒にしなければならないので、戒は滅苦の道具になると信じ、そして自分は戒を遵守できると信じます。そうすれば信仰心のある人になり、そして最高の梵行をする人のように、実践に誠実さと強さと厳しさがあります。

 次にその信仰心あるべき進行に任せれば、毎日その信仰心の力が、本当に品行をさせ、そしてその信仰心から生じた力は非常に多く、精いっぱい正しい行動をさせます。

 今人は、口だけの信仰心、「信仰」「信仰」と言う表面的な信仰しかなく、述べたような本物の、本当の信仰心ではありません。つまりブッダ、タンマ、僧も本当には信じてなく、そして、自分はこれらの教えで正しい行動ができると、自分自身も信じていません。

やり直してしまい、綺麗に拭ってしまい、家に居ても、二つの信仰心があるようにします。つまりこれから実践するタンマを、本当に滅苦ができると信じ、そして自分を信じ、これらのタンマを実践できると、自分自身を信じます。二つの力を合わせれば完璧な信仰心になり、家に居ても、家で「出家をしている状態」になります。

 

2.精進 : 努力と勇敢さがあること。

 二項目は精進です。精進とは努力、あるいは勇敢で、努力と勇敢を足して合わせたものを精進と言います。その前に教えに対する信仰心と、自分への信頼があるので、精進は最高になります。信仰の力が基礎になり、世俗のことも世俗を超えたことも、するべきことすべてを勇敢に努力します。

 しなければならないことをまとめて要点だけ言えば、四つあります。つまり勇敢に防ぐ努力をすること、勇敢に捨てる努力をすること、勇敢に創造する努力をすること、そして勇敢に維持する努力をすること。この四つは、人間のあらゆる問題の「防止、捨てる、創造、維持」に応用できます。

(1)防ぐとは、生じるべきでないことが生じないように防ぐことで、たとえば敵などは、敵ができないように防がなければなりません。煩悩は何よりも凶悪な敵なので、大敵のように、正しく防止して生じさせません。

(2)生じたものを捨てます。望ましくないものが生じてしまったら、それを捨てることに勇敢で、強い努力をします。

(3)創造とは、まだないものを創ることで、善・美徳・徳・正直など、自分にまだない、あるべきものすべてを実践できるという自分への信仰心と、そのものへの信仰心で創造しなければなりません。述べたような信仰心は、自分にまだないものを作ることができます。自分にまだない善や徳を自分の中に生じさせることを、創造と言います。

(4)創造した分だけ維持しなければならないので、維持、あるいはますます発展成長させます。最後の義務は維持で、お金を手に入れたら、それを正しく維持し、正しく使い、正しく所有しなければならないのと同じです。

 みなさんは家に居て、家で出家していますが、自分の中に悪や不善を生じさせないことに関して、最高に勇敢で勤勉であり、十分防止でき、うっかりして不善や罪が生じてしまったら、完全に捨ててしまい、そしてまだ生じていない善や徳を創造し、生じさせることができたら、ますます発展するよう維持します。これを、「家に居て精進する」と言います。

 ほとんどの人は本当にすることに興味がありません。つまり成り行き任せです。しかしみなさんが、出家して家に居る出家者になりたいと望むなら、出家者として特別の決意が必要です。家でにいても、防止すること、捨てること、創造すること、維持することに正しさを生じさせる、注意深さがなければなりません。

 

3.サティ : いつでもサティを使う

 次はサティです。サティと呼ばれるものは特別なタンマで、どんな場合でも常に使わなければならない、必要不可欠で重要なタンマです。どこでも、どんな場合にも使わなければならないタンマはサティと、良く憶えておいてください。すべての物事はサティの管理でしなければならず、サティがなければ何もできません。

 立ち上がって歩くにも、サティがなければ転んでふらふら立ち上がるだけです。ご飯を食べるにもサティがなければ、ご飯を鼻に入れてしまい、あるいはサティがなければ、煩悩で貪るように食べます。何でも家ですることすべて、何か考えてみてください。

 水を汲んだり薪を割ったり、釜や甕を洗うなどの粗雑な仕事でも、サティと言われる感覚でしなければなりません。煩悩の話なら、更に注意深くしなければなりません。だから、「触の度にサティがある」という高いレベルの教えがあります。

 触と言うものについては何十回も話しているので、みなさん理解していると思いますが、もう一度まとめれば、外部にある形・声・香・味・触・考えが触れるものである、目・耳・鼻・舌・体・心があり、感覚の対象があると言います。感覚の対象は、目は形と、耳は声と、鼻は臭いと、舌は味と、皮膚は接触と対で、これは身体、形の物です。

 最後の対は名のもの、つまり法界(心の概念)と呼ぶ心の考えに反応する心です。心はこの法界と対なので、いつでも出会わなければならず、そうすれば考えられます。過去のことをたくさん記憶できる記憶に依存して、これらのものが考える対象になれば心に触れます。これを触の対象と言います。

 目は触れる物である形があり、耳は触れる物である声があり、鼻は触れる物である臭いがあり、舌は触れる物である味があり、皮膚・体には触れるものである接触があり、心には触れる物である法界があります。

 自分の体にあるもの、あるいは本当の自分の体なのに人は知りません。初めにこれについて良く考えてみてください。本当の自分の体の一部なのに、人は、どうなっているのか、どんな存在なのかを知らず、考えません。

 本当のタンマであるタンマを勉強するなら、この六組の対を明確に知らなければなりません。何もかもこの六対によって作られるので、この六対に関わるすべてを知ります。あるいはすべて世界が現れるのは、目・耳・鼻・舌・体・心があるからで、目・耳・鼻・舌・体・心がなければ何もなく、世界も、何も存在しません。

 いろんな物を存在させる、自分の中にあるものを知ってください。いろんな話になるのはこの六つがあるからです。この六つに正しく対処すれば善くなり、間違って対処すれば、これ以上凶悪なものはないほど凶悪になるので、非常に重要です。

 だからみなさんに強く勧め、懇願します。自分にある、あるいは自分そのものであるこの六組を良く知り、これらが働く時にサティをもってください。目が形を見た時にサティがあり、耳が声を聞いた時サティがあり、鼻が匂いを嗅いだ時サティがあり、舌が味わう時サティがあり、皮膚が何かに接触した時にサティがあり、そして心に考えが生じた時にサティがあり、それはどうか、続いてどんな作用があるかを明らかに知ります。これも知っておくべきです。

 たとえば初めの対、つまり目と形は、目と形が触れ合うと目の識が生じ、これを目の識と言います。「目」と「形」が触れ合って目による「識」が生じ、同じ働きの中に三つが揃うことを「触」と言います。目と形が触れ合うことだけではありません。それは大雑把すぎる言い方です。ブッダの言葉で明解に言えば、内処入(根)と外処入(境)と、そしてその処入から生じた識の三つがなければなりません。

今述べたように、目が形を見て形に触れると、目で見ること、つまり眼識が生じ、目と形と眼識の三つになります。眼識は目を通じて形と触れる働きがあり、これをチャッカサンパッサ(目触)と言います。同じように目・耳・鼻・舌などの触は三種類あり、触と呼ばれる感じる働きをしています。

 触があれば、たとえば目の「触」があれば「受」、つまり満足や不満やどちらでもないなどと感じる三種類の受が生じ、「目の触から生じる受」と言います。受が生じるとそれに止まらず、引き続き他のものを生じさせ、その触の時愚かなら、つまり目の触がある時サティがなければ、あるいは何の智慧もなければ、愚かな触になり、管理するサティのない愚かな受になるので、その後考えを生じさせます。

つまりその触に喜びがあれば満足や喜びが生じ、その触に不満な時は怒りや憎しみが生じ、あるいはその触が満足か不満かを表さない時、その受が満足か不満かはっきりとしない時は、心配や痴が生じて、知りたくても知ることができなくなります。ここで貪・瞋・痴が生じ、満足して受け入れれば貪りが生じ、不満で受け入れれば瞋りが生じ、満足でも不満でもなければ痴が生じ、貪・瞋・痴が生じれば火が点いてしまいます。

 次に欲望と呼ばれるものが生じ、欲しくなります。満足な受が生じた時は貪りが生じ、手に入れるため、所有するため、もっと集めるために欲望が生じ、その感情が満足できないものなら怒りが生じ、殺したい、攻撃したい、あるいは少なくても怒りの形の突き離したい欲望が生じ、どちらでもなければ、そこで堂々巡りをして、痴の状態になります。

 このように貪・瞋・痴が生じ、それは火であり、心の中が火事なります。しかし触の時にサティがあれば、こういうのは生じないで、別のものが生じ、これは何か、どうすべきか、これはすべきか、これはすべきでないかが分かり、すべきことができます。喜びや不満や怒りや憎しみに夢中にならないので、火は生じず、苦は生じません。触の刺激がある時、本当のサティの威力で火が生じないように防ぐからです。

 欲しいという欲望が生じると、取が生じます。つまり欲しいという気持ちが、欲しがっている人を作ります。それは感覚にすぎず、自分ではありません。欲しがる人がいれば、苦になる話が生まれる最高点に達し、自分があるので重く感じ、そして自分がある時は自分のものがあります。

 このように自分が生まれた時は、感覚の中に自分が生まれ、本物でも何でもなく、「自分」という感覚にすぎません。自分が生まれると、外部のものも内部のものも、何もかも自分のものにし、生・老・病・死を自分のものと執着します。それがどんなに重く、どんなに苦しく、どんなに焦燥するでしょうか。そして外部のもの、財産や物、妻子や夫なども自分のものと執着し、それはどんなに重いでしょうか。だから四方が重く、どっちを向いても重いです。触がある時間違い、そしてこのように苦が生じるからです。

 触の時にサティがあれば、つまり勉強して良く訓練したサティと智慧があれば、目に何かが触れた時に間に合うようにサティが駆けつけるので、賢い触になります。つまりサティによる触で、迷って煩悩を生じさせず、反対にどうすべきかを知って、するべきことをし、何らかの利益を生じさせ、害を生じさせません。サティがなければ煩悩を生じさせるので、害が生じます。このようになります。目・耳・鼻・舌・体・心の六つは、このように苦を生じさせます。

 これは苦の話の自然の科学です。仏教の教えの苦の話は、自然の科学です。仏教では、幸・不幸(という感覚)は、触の時に正しくするか誤ってするかによって生じると、こう言っています。精霊や神様、運勢、どこかの星か何かによって生じるのではありません。だからブッダは、過去のカンマの結果には関係ないと言っています。今ここの正しい行動、誤った行動、つまり触によって生じます。私たちにはサティのある触があります。だから触を管理するためにサティがなければなりません。

 サティにはいつでも智慧があり、サティには智慧が含まれていなければなりません。サティは思い出すことができ、本当の真実はどうかを思い出すことができます。それは智慧で、根(感覚器官。内処入)に触がある時、サティが智慧を運んでくるのが間に合うので、根はどうするべきか分かり、苦が生じないようにするので、愛も生じず、怒りも生じず、嫌悪も生じず、恐れも生じず、嫉妬も生じず、妬みも生じず、未練も生じず、耐えなければならない苦の基盤であるいろんなものが生じません。これを「サティがある」と言います。

 在宅出家でも、このようにサティがあればどうか、考えてみてください。このようにサティのある「在宅出家」は、弁えもなく、サティがあるとはどういうことかさえ知らずに、お寺で出家している大勢の人より、ずっと善いです。「家でも出家できる」、「今述べたような完璧なサティがあれば、素晴らしい出家生活になる」と、興味を持ってください。

 私には、触あるいは刺激がある時はサティがなければならないという教えがあります。目・耳・鼻・舌・体を通じて何かがぶつかって来た時は、サティがなければなりません。サティがあれば「明による触」「智慧による触」と言い、目を開けて何かを見ても失敗することはなく、苦は生じません。これを「毎日知性で世界に触れる」と言います。毎日毎日世界、つまり接触して来るすべてのものに、いつでもサティや智慧で触れれば、苦は生じません。

 家で出家して、このような在宅出家になれば、仏教の教えでの最高の修行になります。

 「触の時に間違えば愚かな触、無明の触になり、そして苦が生じる。真実のままに知っている明による触なら、明による触と言い、苦は生じない」と憶えてください。だから愚かさによる触が無いようにし、愚かさでどんな感情(心が感じる対象)も受け入れないで、サティで、智慧でその感情を感じ、受け入れ、そして日常的に訓練してください。

 話すことはできるし、簡単ですが、実際にする段になると簡単ではなく、おろそかになったり、あるいはできません。初めは、何度も何度も苦があり、そして段々できるようになります。そうすれば上手くゆき、できるようになります。だから、自分が好きなことを練習するのと同じように、最善の練習をしなければなりません。

プロの芸術家やスポーツ選手は、考えられないほど練習をします。たとえばタックロー(蹴鞠のようなスポーツ)のくぐり抜けなどは、大変な練習をしなければなりません。これも同じで、私たちも、触の度にサティがあるように、考えられないほど非常に練習をし、そして、もし挫折して失敗したら恥で、自分らしくないと自分自身に恥じます。

サティのない人、サティに欠ける人は迂闊なので、結果として苦が生じます。私たちは苦のために生まれたのではないのに、なぜ苦のために生まれたようなことになったのかと、不注意から苦が生じる度に深く反省すれば、間もなく迂闊でなくなり、迂闊さが減り、最後にはなくなります。

 譬えば、歩いていて側溝に落ちるようなもので、きちんと歩かないから、良く見ないから側溝に落ちます。側溝に落ちると痛いばかりでなく、恥ずかしいです。誰かに見られたら恥ずかしいです。側溝に落ちると痛いし、とても恥ずかしいと良く注意すれば注意深くなり、二度と落ちなくなります。これが触と言われるものに、最高に良いサティがあることです。このように決意し、迂闊にならないように強く願い、そしてそれは苦であり、恥であると恐れなければなりません。

 今、私たちは何も感じず、恐れも恐れず、恥も恥じないので、恥がたくさんあり、内面で苦になります。誰も知りませんが、誰も知らなくても内部では苦になります。だから外に表れて他人に知られて笑われることよりも、サティがないこともっとを恐れ恥じてください。

 タンマがある人は、非常に恐れと恥が身についていて、内面のタンマの慙(悪や罪を恥じること)があり愧(悪や罪を恐れること)がなければなりません。こういうのは外面のものよりずっと利益があります。外面のこと、みんなに分かることという意味ですが、これは誰も知らないことほど重要ではなく、自分だけしか知らないことは、非常に重要で、非常に害があり、認めることができないものです。

 どうぞサティがあることに興味を持ってください。そうすればあらゆる苦を逃れることができ、苦を作らず、苦が生じないように防衛できます。精霊や天人に苦情を言う必要はありません。それは愚かさを上塗りすることです。苦を生じるのを放置するのは一つの愚かさで、そして精霊や天人に文句を言うのは、二つ三つの愚かさを重ねることです。それがどれほど恥ずかしいか、考えてみてください。

 幸、不幸が生じるのは、因果律と呼ばれる触の時に正しくするか、間違ってするか、によります。パーリ経典でこれについてつぎのように語られていることを考えなくてはいけません。

 「幸不幸(という感覚)は神様が作るのではありません。幸不幸は古いカンマによって生じるのでもありません。そして幸不幸の原因がないのではなく、原因があります。原因は、因果律に対して正しく行動したか誤って行動したかです。因果律に対して誤って行動すれば苦が生じ、間違わなければ苦は生じません。因果律に対して間違って行動するのは、何かが触れてきた時で、触がある時は、因果律に対して正しい振る舞いをしなければならない最も重要な時です。そうすれば苦は生じません」。

 サティをこのようにできれば、家で出家するのは、どこのお寺で出家するよりも善いです。こう言うと、怪訝に感じるかもしれません。それに危険があるかもしれません。しかし、家で出家してこのようにできるなら、このようにしないほとんどのお寺で出家するより、ずっと善いと反論させていただきます。このようにしない出家は、どこに住んでいても寝言の出家です。

 

4. 定(サマーディ)。感情である涅槃を目指す。

 次はサマーディがあることです。心に銘記してください。1は信仰心、2は精進、3はサティ、4はサマーディです。

 サマーディとは何でしょうか。ブッダは、「偉大なサマーディ(サマーディ)は、涅槃を感情とする一境心」と、最高に良く、完璧に定義しました。「涅槃を感情(意識する対象)にする一境心(エカッガターチッタ)」というのは何か、感覚として分からず、意味が分からなくて混乱する人もいます。

一境心とは、一つの頂点しかない心で、涅槃を感情とする一境心とは、一つを目指し、一つだけの頂点がある心です。エッガとは「尖端が一つ」という意味で、エカッガターチッタは、尖端が一つの心。つまり一つのものを目指します。これをエカッガターチッタ、一境心と言います。

そしてこの心は涅槃だけを目指し、他のものを目指さないので、「涅槃を感情とする」と言います。感情として涅槃を目指す一境心が、サマーディと呼ばれるものの要旨です。どんなサマーディも、何種類何十種類、多種多様なサマーディも、要旨は、心の感情として、唯一の感情として涅槃を目指します。

 ごく簡単に言えば、いつでも涅槃を望むことが感情(心が捉えているもの)であることです。それなりに涅槃を知って、常に涅槃を望むことが、涅槃を感情とする一境心です。家でもできます。苦の最中にいる時は、尚更するべきです。どんな苦がある時も涅槃を目指し、つまり滅苦を感情にします。一般に、私たちは涅槃のために生きていると知っているので、心は感情として涅槃だけを目指し、集中します。これがサマーディの意味です。

 人がしているサマーディには、いろんな種類、いろんなレベルがあって、細かく分かれていますが、すべてを集約すれば、涅槃を目指すことを感情にします。たとえばサティが長い息、短い息を意識することは、そのように意識して心をサマーディにしますが、その先には感情として涅槃を望んでいます。

 つまり最後には、最終目標としては、完璧な滅苦のためにサマーディをします。サマーディをし、ヴィパッサナーをして無常・苦・無我を見、それから倦怠が生じて欲望が緩んで解脱するので、感情として涅槃あります。この意味は最高に良いので、「サマーディと呼ばれるものは涅槃を感情とした一境心である」と言います。

 どうぞみなさん、心の中をこのような状態で維持してください。つまり涅槃が目的で、涅槃が目標です。何としてもそこへ、早く到達しなければなりません。早ければ早いほど良いです。これが利益のあるサマーディです。本当の意味のサマーディには利益があります。つまり涅槃を目指すことを感情にします。家で生活して何でもしてください。しかし大きな意味を忘れず、最終目的として涅槃があることを忘れません。私たちがすることすべてをまとめれば、最終目的、つまり涅槃に行き尽きます。

 稲作をしているなら、米を作って食べて、そして生活して、そして涅槃を明らかにします。果樹作りでも、生活するお金を得るのは生きるため、涅槃を明らかにするためです。商売や、あるいはどんな職業でも、サムロー(三輪自転車)の漕ぎ手で一日中汗を浴びていても、「私は苦がまったくない状態を現すために苦を脱すことができる」と望むことで、涅槃が感情である一境心を持つことができます。

涅槃と呼ばれるものは、穏やかな暮らしです。まったく苦がない、穏やかで静かな暮らしを涅槃と言い、私たちの目的はそこにあります。たとえ低い仕事をしていても、道路清掃やサムロー漕ぎ、舟の船頭などをしていても、将来涅槃に出合う目標を感情にすることができます。

 座って乞食をしている人でも、「今俺は乞食をしなければならないから乞食をして凌いでいる。何とか切り抜けたら、その後は、常に注意深く配慮するサティがある実践をし、そして最終目的である涅槃がある」と、このようにできるという話で終わりにします。普通の庶民だけではありません。乞食をしていてもサマーディがある機会、希望はあります。

 「サマーディ」「サマーディ」と言いますが、意味は一境心、つまり一つだけの心。一つだけで、確固としていて、目的である涅槃があります。だから在家の人は誰でも、涅槃を目標とし、最終目的にすれば、意味として十分なサマーディと言います。

 サティは心をサマーディにする道具で、述べたようなサティがあれば、心をサマーディにし、何かの真実を思い出した瞬間に感じることができます。これをサティがあると言います。思い出すことができ、その気持ちを長く維持することをサティサンパッチャンヤ(常自覚。理性)と言い、サティとサンパッチャンヤが手を組みます。サティは思い出すことができることで、サンパッチャンヤは自覚することです。

つまり気付いたことを維持して、ずっとあるようにします。たとえばサティが何らかの正しさにハッと気づいたら、それを維持するのがサンパッチャンヤで、サティとサンパッチャンヤはこのように同時に働かなければなりません。だから私たちに常自覚があれば、何も失敗せず、何をしても正しくなり、するべきことの善い結果を受け取ります。

 サマーディがあるとは、心が安定して動じないことを意味し、その時煩悩の妨害はありません。その時の心は素早く考え、あるいは心の義務に敏捷です。サマーディ、「サマーディをする」というのは、座って身体を丸太のように固くするという意味ではなく、すべての面のすべてのことを、目的が一つになるよう、エカッガターと言う一つだけの感情になるように訓練するという意味です。そうすれば心に煩悩が無く、強固になります。

心が強固なのは、光と力を一つに集中させるからで、だから心の義務に迅速になります。心に考える義務があれば、サマーディである心は考えることに敏速で、サマーディでない心は、愚図愚図のろのろして考えられません。あるいは敏速ではありません。サマーディとは、一点に強力な力があるという意味で、妨害する煩悩がなく、思考する義務に敏捷です。

何かを考えるにも、するにも、決断するにも、サマーディですれば良くできます。だから考えなければならない、決断しなければならない、他人に命じなければならない義務のある人は、何でもサマーディのある心でしなければなりません。

 何かをしようとする時、いつでも心が一つの感情に密着しているよう、引き寄せるサティがあるサマーディになるように訓練しなければなりません。つまりする前からサティがあり、している時サティがあり、そしてし終わった時もサティがあれば、失敗のしようがありません。考えてみてください。失敗する余地はなく、あるのは最高の正しさだけです。

 みなさんが家で出家をしているなら、サマーディの訓練する機会を探し、一日に非常にたくさん、デタラメにしていることを、どうぞサマーディでするように変えてください。そして仕事をしている時も、サマーディである心でサマーディをすることができます。

 田を耕している農夫で、水牛の後ろを歩いているなら、耕している所に、絶えず鋭く土を掘り返している所に、どうぞ心を置いてください。そうすれば田を耕すことが、サマーディをすることになります。果樹の仕事で、スコップで土を切り取り、土を掘り上げているなら、土を掬うスコップにサマーディがあるようにしてください。

 家でもいいです。他の仕事も価値があります。しかし今私は、最低の仕事を見本にします。みなさんが家の掃除をしなければならず、床を掃くなら、その掃いている時、どうぞ土についている箒の先に心を意識してください。難しくありません。心が箒の先にあり、どんどん掃きながら、いつでも心はそこにあります。これは上等なサマーディです。

 あるいは皿を洗うなら、どうぞ皿を洗っている指先に心を置いてください。普通皿洗いは指で洗うので、皿を洗い終わるまで、皿を撫でている指先、触っている指先に心を意識してください。釜を洗うのも中華鍋を洗うのも同じで、何かで釜や中華鍋を擦る時、擦っているものに心を置き、釜や中華鍋に集中している時、そこに心があります。森の中で座ってサマーディをしている人と同じサマーディがそこにあり、家でサマーディをしています。

 薪割りをするなら、薪割りは斧にサマーディがあり、薪が斧と接触する時、姿勢にもよりますが、木を裂く斧の所に心があります。

 次にすべての立ち居振る舞いをする時、床に、足のどこかが触れて立っている時、そこに心を意識します。歩く時も同じで、足を着いて上げて、着いて上げて、心は足の裏にあり、座る時はどこにも心を決めず床に正しく座り、床に触れているお尻に心を意識します。それもサマーディです。

 しかし彼らにはいろんな方法があり、たとえば呼吸を意識したり、腹の膨らみを意識したり、何でもあります。しかしそれは、普通の行動にあります。

 これが「在宅出家」の話です。分かりますか。家で出家していますが、戒・サマーディ・智慧のタンマの品行をする機会に溢れています。すべての立ち居振る舞いや仕事の中に、サマーディのあるサティがあります。田を耕す仕事なら、耕している鋤の先にサマーディと心があり、舟を漕いでいるなら、水に当たっている櫂の先に心がある、これが本当のサマーディです。他のすべての意味、すべての種類の利益に有益に使えるサマーディです。

 

5.智慧 : 知るべき真実を知る

 最後は「智慧」です。1は信があり、2は精進があり、3はサティがあり、4はサマーディがあり、5は智慧があります。智慧とは知るべきこと、知るべき真実、滅苦ができる真実を知る知識という意味です。

 その真実を、いつでも知っていてください。絶えずサティがあり、サティが思い出し、サンパチャンヤが意識しておき、そうすればいつでも智慧で周到に暮らせます。心に「俺、俺のもの」の類の考えを生じさせるほど、変化させないでください。俺という言葉はかなり下品ですが、『「自分」「自分のもの」という意味の考えは誤りであり、非常に苦を生じさせる誤った考えであり、誤った知識なので誤りと言う』という知識が必要です。

 智慧は正しいことを知り尽さなければなりません。知るべきことを何でも知り、知るべきことを何でも知ることができます。しかし「俺、俺のもの」、「自分、自分のもの」という類のものは知らないで、繊細で緻密で非常に奥深いもの、つまり心の面を繊細で上品にすることを知らなければなりません。触の話でお話したように、考えは作られるので、みなさんは「俺、俺のもの」という意味がある考えや知識を生じさせてはいけません。

 どうするべきかを知ることができる知識で働きます。良く聞いてください。仕事をする時、オフィスでもどこでも、「何をどうすべきか」を知る知性で働いてください。そして俺、俺のもの、俺のためにする、俺が手に入れる、俺がどうする、という種類の考えを生じさせないよう注意して、仕事の結果を急ぐ気持ちを生じさせないでください。間違いで、危険なだけです。どうするか、正しくするにはどうするか、という正しい知識だけにしてください。

そして、そうすることだけに興味を持ちます。これを非常に智慧のある仕事と言います。苦を生じさせる失敗も、失望も、欲望煩悩も生じません。だから「原因と縁で経過する」という、因果律の正しい知識があり、そして「必ずそうなり、他にはなりようがない」という、十分なタタター(真如)の知識で働きます。仕事の結果を期待すること、その結果で食べて楽しく使うことを結果にしないでください。それは、「俺、俺のもの」の種類の考え、あるいは感覚なので、必ず苦になります。

 これについてパーリ経典(ブッダの言葉である経)にとても良い例えがあるので、時々話しています。雌鶏はね、卵を温める時、しっかり温めるだけで、ヒヨコが生まれることを考えません。雌鶏は、自然のやり方で正しく卵を抱き、土を引っ掻いたり、卵を抱いたり、向きを変えたり、温めたり冷ましたり。そうすれば雌鶏が「生まれなさい、生まれなさい」と期待しなくても、ヒヨコは自然に生まれてきます。ヒヨコが生まれるのを期待して、「生まれなさい。生まれなさい」と念じている雌鶏がいたら、どうにもならないバカな雌鶏です。

人も同じです。「俺、俺のもの」である期待の考えをせず、その行動に関わる知性で正しく働いてください。結果が出るよう、手に入るよう、儲けがあるよう、こうなれ、ああなれというのは、「俺、俺のもの」の話なので苦しいだけで、そうできなくて、仕事が駄目になることもあります。

 今私たちは、間違って教えていることがあり、希望しすぎます。実際、期待しすぎて仕事中に心に割り込んでくれば、散漫になって良くできません。良く正しくできません。どうするべきか分かる知性を、できるだけ沢山残さなければなりません。ああいう結果がほしい、こういう結果にしたいという期待を、考えの中に生じさせれば、不安定になります。どうするか、これはどうするかという安定したサマーディがあるようにしてください。それを智慧で生きると言います。

「自分、自分のもの」という考えや感覚のない心があり、「俺、俺のもの」という感覚や考えがなければ空の心なので、どのように考えることもできます。それをどう良くするかということも考えられます。しかし、俺のため、俺のもの、俺のものにする、俺が手に入れる、という考えが割り込んではいけません。そういう考えが生じれば暗くなり、憂鬱になり、熱くなり、苦になります。これを最高に善く働くことの秘訣、あるいは仏教教団員だけの技術と言います。

 今みなさんは家で出家します。家で出家するには、どうぞ智慧で仕事をし、智慧で生活をし、人間に生まれたことの最高に善い結果を受け取ってください。人間に生まれたら、最高に善いものを受け取らなければなりません。このようにすればそうできます。智慧の行動でし、煩悩欲望でしないでください。自分のため、自分のもののために、あれを手に入れたいと期待する必要はありません。

自然の法則で正しくすれば、自然に結果が出、期待ですれば情緒不安定になります。簡単な例では、宝くじを買っても期待して精神病にならないで、買ったら買うだけにし、時が来たら当たっているか外れたかを調べます。しかしこういうのが好きじゃない人がいて、買ってくるとバカになって期待し、座って期待し、寝ても期待し、最後には本当に神経症になります。

 みなさんは、智慧で仕事や生活をしてください。不注意にならないで、智慧で智慧を塗ります。つまりいつでも正しい考えで、仕事をする時は、これからする仕事に関わる智慧で働き、働いている時は、している仕事に関する智慧があり、仕事が終わって結果を得る時も、結果を受け取ることの智慧があり、煩悩欲望で仕事の結果を受け取らないで、智慧で受け取ってください。このようです。このようにすれば、自然にこうなります。夢中になって理性を失うことはありません。

あるいは、食べるため使うため、維持するために仕事の結果を受け取るにも、知性でして、知性で受け取り、心を苦しめてはいけません。仕事の結果を食べたり使ったりする時も、知性でします。間違わないでください。他人に分けてやる時、布施をする時は知性ですれば、働く前も働いている時も、仕事の結果を受け取る時も、結果を使う時も、食べる時も、布施をする時でも何でも智慧ですれば、煩悩欲望で息苦しくならない、智慧で生活する在家という意味です。

 

本当に家で出家できれば、得るべき結果がある

 家で出家をしていて、そして家で阿羅漢になり、阿羅漢になったら全部止めます。出家する必要も何の必要もありません。阿羅漢になったら出家を止め、出家という言葉の意味は終わります。出家、あるいは梵行は必要ありません。

 しかし今はまだ阿羅漢ではないので、全身全霊出家者になって、家で生活してください。特に女性は、女性が出家できないことを気にする必要はありません。男性のように出家する機会がなくても、同じように、あるいは同じだけ家で出家できます。彼らは思い切り出家し、九日間出家しても、何の結果が得られるでしょうか。

 私は、「今言ったように出家なさい」と主張させていただきます。家にいて、信仰心と精進とサティとサマーディと智慧があります。家で出家して五項目のタンマを満たします。もう一度復習すると、先ず「信仰心」があり、自分が拠り所にするもの、つまり実践あるいは教えに確信があり、そして自分にできると信じます。自分にもでき、不可能ではありません。自分にできるので信仰でするに任せます。

 同時に「精進」、つまり勇敢、努力があり、奮闘し、することに楽しさがあり、満足し、幸福を感じます。結果が出る時まで待たなくても、している時に満足があり、幸福です。お金を使わずに幸福になれます。

 次に「サティ」があり、考えや思慮や行動で失敗しないように、注意深く防止し、特に目・耳・鼻・舌・体・心で触がある時です。

 「サマーディ(定)」があるとは、常時感情である涅槃に非常に安定した心があり、いつでも、一呼吸ごとに、一境心と呼ばれる涅槃を目指します。いつでも涅槃を目指し、何でもその心を維持しながらすれば、いろんなサマーディの手法の違いがあっても、どれも感情である涅槃があります。つまりどれもすべて、苦からの解脱を感情にします。

 そして最後は、智慧で生活し、しなければならないこと、あるいはするべきことを正しく明確に知り、すべてを台無しにしてしまう「俺、俺のもの」のための煩悩欲望を介入させません。これを、「どんな仕事も空の心でする」と言います。『どんな仕事も空っぽの心でし、仕事の結果はすべて空にやり、空の食べ物を僧が食うように食い、それ自体ハナから死んでいる』。初めから終わりまで自分がなく、自分のものがなければ、苦はなく、問題もありません。心は智慧によって純潔で、そして穏やかな幸福です。これが家で出家することです。

 賛同する人は試してみてください。あちこち探して寺や森で出家するのは、愚かさになることもあり、家で出家するより大変なこともあるので、注意してください。本当に決意し、本当に注意深ければ、お寺や森で出家するより、家で出家する方が善い結果になることもあります。お寺や森でする出家は、一般にデタラメで、得るべき十分な利益が得られないからです。

 さて今日は、家で出家するという、かなり変わった話をしたということです。避けるべきものをすべて避け、家で暮し、そして行なうべき義務を、最善を尽くして行ない、自分自身の務めに対して、力の限り智慧の限り最善を尽くし、そして義務を行なうことに幸福があり、煩悩に報いるためにあれこれ結果を期待する、煩悩欲望はありません。家で出家する話はこれだけです。

 全員還俗させて家で暮らさせる、という意味ではありません。家に居ても残念に思うことも、ひがむ必要もない、という意味で、家で暮しても、最高に素晴らしくすることができます。家にいる人はお寺にいる人よりも多いので、これらの人が利益を損ねるべきではなく、仏教教団員が受け取るべきすべての利益を受け取らるべきです。

 どうぞ家にいる人、あるいはまだ家にいる人は、自分の生活が出家生活にふさわしくなるよう、タンマの学習、つまり「信仰心・精進・サティ・サマーディ・智慧」の五つのタンマが、実践の初めから最後まで関わっているようにしてください。森やお寺やジャングルで厳しい念処の修行をするなら、彼らは信仰心・精進・サティ・サマーディ・智慧が、実践に十分あるよう注意すれば、望みどおりの結果があります。

 今日の講義も終わりの時間になりました。ちょっと変わった話ですが、熟慮して見る必要があります。そうすれば家にいる時間を、最高に有益に使うことができ、まだ家で暮さなければならなくても、家を捨てて出家した人より不利にも損にもなりません。簡単に言えば、もしできるなら、家で出家できるなら、お寺で出家するより驚異的です。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。

第12回マーカ季土曜法話


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