竹    ヶ    鼻    城    

【城 址】
別   名
所 在 地岐阜県羽島市竹鼻町丸の内
築城年月応仁年間
築 城 者竹腰伊豆守尚隆
主要城主長井氏・一柳氏
城郭様式平城
遺   構城址碑

竹ヶ鼻城は規模300m×500mの城です

この竹ヶ鼻城は天正12年(1584年)5月、小牧・長久手の戦いで秀吉の水攻めに遭って籠城1ヶ月で落城した

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦の前哨戦であった岐阜城攻防戦の際西軍に組みした岐阜城主織田秀信の部下として竹ヶ鼻城主杉浦五左衛門重勝は、応援の毛利・梶川・花村らの諸将とともに木曽川右岸に布陣したが福島正則を将とする東軍に裏をかかれ竹ヶ鼻城にたてこもった

毛利・梶尾・花村らは降り重勝のみ本丸を死守したが、ついに城に火を放ち自害して果てた

以来この城は使われず廃城となった

竹ヶ鼻城の水攻め
天正12年(1584年)長島城にいた信雄は徳川家康の援助を受けて小牧・長久手で秀吉と対決することとなった
長久手の一戦で敗北した秀吉は徳川家康との決戦を考え長島城の信雄を攻める作戦に変え、信雄方の加賀野井城と竹ヶ鼻城を攻撃の的とした
10万騎をひきいる秀吉は5月6日加賀野井城を総攻撃し1日で落城させ、竹ヶ鼻城には信雄・家康を引き出すため長期戦の構えをみせた
地形を見聞した秀吉は木曽川の支流足近川に目を付け水攻めの作戦を実施した
竹ヶ鼻城の東に足近川とつながる逆川が流れており、この逆川堤を利用して町家ぐるみ城を長堤で囲むこととした
秀吉は竹ヶ鼻城の北西1kmにある砂山に付城を築き本陣とした(後の太閤山といわれた)
築堤工事は5月11日より5・6日間で実施され、高さ3m、幅14・5間、長さ2.6kmの長堤ができあがった
これが太閤の一夜堤といわれるものである
足近川の水を一夜堤の中に入れ、水は二の丸まで入り町家は1mも浸水した
700人が立てこもる城内では筏を組んだりして対抗したが、町屋では逃げ場を失ったねずみやヘビが押し寄せ婦人や子供はこれに苦しみ死ぬものも多かったという
竹ヶ鼻城では信雄や家康に救援の使者を送ったが援軍は現われず、ついに城主不破源六は秀吉の申し入れを受託して開城し伊勢長島の信雄の城へ退却した
歴代城主
竹腰伊豆守尚隆:初代城主
長井豊後守利隆:土岐氏の重臣で明応5年竹ヶ鼻城から加納城へ移る
長井隼人正道利:豊後守の子で後の関城主
不破権内綱村 :土岐・斎藤・織田信長に仕える
不破源六広綱 :綱村の子で信長・信雄に仕える
一柳伊豆守直末:秀吉の家臣で水攻めで落城後城主となった
伊木清兵衛忠次:秀吉の家臣池田輝政の家老
森寺清右衛門 :伊木が三河国田原城へ転封となり今尾城から移ってきた
杉浦五左衛門重勝:関ヶ原の前哨戦で落城し自刃した
こぼれ話
豊臣秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めにしたとき、八神城の姫は竹ヶ鼻城主不破源六郎友綱に嫁いでいた
不破城主は義父毛利八神城主に救援を求めたが毛利軍は援軍を出さなかった
このため不破城主は水の満ちくる中で酒宴を張り夫人と離縁した
夫人は泣く泣く石田・八神の村境まで帰ってきたが「もうここからは御父上の御領地、一旦嫁いだ娘がどうして今更里に帰りましょう」と言って貞宗の短刀でのどを一突きにして石田の野の露と消えた
お供の三七は墓印に一本の稚松を植えると自分も自刃して果てた
この松はやがて馬子唄にも「石田・八神の三七松は天でおそれて地でひらく」と歌われ枝を折ると血がにじみ、松にふれると奇病にかかるおそろしい松となったという
考察・感想
遺構も無く、碑があっただけである
畑仕事をしていたおばちゃんに聞くと、建物を建てたため碑も移動し現在の場所になったそうだ
郷土歴史館がなにやら天守閣のようだった
駐車場
目標物
郷土歴史館
アクセス
名鉄竹鼻駅を降り最初の角を右折します
右手に踏切があり線路を挟んで反対側に本覚寺(竹ヶ鼻城主不破氏の菩提寺)のある所を左折します
そのまま進むと大きな道にでますのでそこを右折します
郷土歴史館左折の看板がありますのでそこを左折すると左側にあります
最初に本丸跡の碑があった所です。写真の建物を作るときに移設したそうである 堀です。きたない側溝でした

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