山    下    城    

【本 丸】
別   名
所 在 地岐阜県高山市一之宮町山下
築城年月天正5年(1577年)
築 城 者三木国綱
主要城主三木氏
城郭様式山城
遺   構堀切・川原石

山下城は標高880mの山下山に築かれた城と麓にある城館を含めて山下城という

山下城を築いた国綱の父は水無神社の神官であったが国綱は三木自綱の妹婿となり宮村・久々野など周辺を押領し山下城を築いた

天正13年金森長近が秀吉の命で飛騨に進攻すると国綱は山下城から逃亡したが探しだされて鍋山城に送くられた

国綱は一の宮神領の氏子の嘆願により一命を助けられたが再び金森氏に叛き長近の養子可重のいる山下城を急襲した

可重は鉄砲で応戦し、長近も自ら兵を率い応援に駆けつけ、国綱は一の宮の社殿に篭り応戦したがついに討ち取られた

こぼれ話(弁の君哀話)
国綱の娘弁の君は山下城から逃れ大野郡久々野町大坊の百姓弥市に救われたが、翌日濡れた衣装が竿に乾かしてあるのを追手の兵士がみつけ、しかたがなく弥市は兵士に引き渡した
弁の君は鍋山城に連れ去られ可重の妾とされたが、父国綱が金森氏に叛くと一の宮の社殿に篭り討ち死にすると弁の君も磔にかけて殺された
こぼれ話(あじめどじょう)
大幢寺の和尚が修行していたあるとき、白髪の翁が現れ「我は一の宮の神であるが今法を求めてここに来た」と申されたので和尚は佛祖単伝の正脈を授けると翁は喜び「如何にしてこの法恩に報いん」と申されたので和尚は「前の宮川の流れが滝のようで読経の妨になるから神の御力によって音を止めていただきたい」と申し上げると「それは いとも易きこと」といって忽ち姿が消え失せてしまった。やがてあじめに命じて川の水を地下に潜らせたという
それ以来寺前の流れは伏流するようになった。あじめは一の宮の神のお使いの魚として村人は捕獲したり、食べたりしないという
考察・感想
ここは2度登りました
看板の矢印方向に進むと道が谷となってしまい右の山か左の山か分からなくなってしまった
看板が建っていた方と判断し道無き斜面を這って山頂まで登ったがどうも違うような雰囲気があったがそのまま尾根沿いに左側の山に行くと帰り道が分からなくなると判断し一旦下山して民家のある麓まで降りて来たら家の中に人がおり聞いてみると見事間違っていました。左側の山でした
行き方は谷をそのまま登り急坂となり登れなくなる所を左に移り山頂に向うのが道順です
道は有りません。獣道すらありません。行かれる方は気を付けてください
駐車場
無(路上駐車可、当方は公民館の駐車場を拝借))
目標物
山下上公民館
アクセス
国道41号を小坂町から高山方面に進み宮峠を下りた最初の信号を左折し直ぐ右折すると正面に飛騨一の宮駅があります
駅の所で左折し線路沿いをそのまま進み右折できる道を曲がり突き当たりを左折します
しばらく進むと右側に山下上公民館がありここに駐車して山に向かって進みます(車高が高い車ならこの道を走り途中で路駐します)
入り口です。沢を渡りここから山頂を目指します 堀切です

堀切です。上の堀切より少し大きいです 本丸にある川原石です。なぜここにあるのか不明です

本丸にある川原石のアップです。山にある石ではないですね 本丸から下段を見た所です

城址碑です 全景です

麓にある館跡です。夫婦松が建っています 飛騨一の宮駅北側にある万霊塔です。大原騒動の犠牲者の霊を弔うため大幢寺の和尚が建立した

観退と六地蔵です。天正13年(1585年)金森長近の山下城攻撃の時大幢寺が炎上したが、その時隣に住んでいた信仰深い次郎七が寺にかけつけてみると本尊観世音菩薩の姿が見えないので焼けてなくなったと思っていたとき「われはここにいるぞ」と声がするので近づいて見るとそのに本尊は安泰していたという。以来この地を観退と呼ぶようになった 臥龍桜です。この桜はちょうど龍が臥しているようなので命名された。岐阜県下で第二の古木です

大幢寺です 大幢寺にある座禅石です。大幢寺の本寺である高山の雲龍寺の開山丁堂真覚和尚がいつもこの石の上で座禅を組んで修行していたという

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