2007.4

1 全国精神障害者家族会連合会 「早分かり障害者自立支援法」 2007年改訂版 

 全家連の障碍者及び家族に向けた「障害者自立支援法」の使用手引きである。ただしあまりにも簡略すぎて、せめて家族会で出すのなら家族の立場で、利用の仕方のノウハウぐらい書いて欲しいところ。まるで、行政の手引きと変わらない。

2 鈴木国文 「トラウマと未来 精神医学における心的因果性」 勉誠出版 2005年

 本書は、「心的因果性」の把握をめぐる問題を取り扱っている。フロイトは「心的因果性は生物の原則から外れている」という認識を示し、「快感原則に従うはずの人間の精神がなぜ不快な記憶を繰り返し再生することになるのか」という問いを発し、トラウマやPTSD にあたる「心的外傷」は、決して神経症者だけではなく人間共通の「心の構造」を解く鍵として提示した。ラカンもまた、トラウマは私たちの存在の核であり、人の欲望の動因であるとしてフロイトの思想を読み解こうとした。更に、ベンヤミンや最近の脳科学の研究を踏まえ、「外なる臓器」としての「シニフィアンの体系」という概念を通して、トラウマの真の機能に迫ることが出来るとした。「人間はシニフィアンの体系という外なる臓器を持った生物である」。
 更に、かっては薬物の発展とその導入が精神医学を根底から変えたとするならば、1980年代以降は、技術的な刷新はないまま、精神医学は社会の中でおかれる立場に大きな変化がもたらされている。精神医療の守備範囲が拡大したわけであるが、その原動力となったのは「不安」と「鬱」という「症状」である。ところでフロイトは、神経症は「近くの心因」と、もう一つの出来事(「もう一つの場面」)という二つの出来事の連鎖によって引き起こされると考えていたが、「不安」や「鬱」はこの「もう一つの場面」への連想を誘う重要な端緒をなし、根源的不安へ主体を陥れる機能を果たすものである。今日の文化的変容は、このような不安や鬱に対する受け皿を用意することが出来なくなっている。本書は、基底にラカンの考えが貫かれ、著者はその影響をうけた著書をいろいろ読んで書いているが、唯一不満なところは、参考文献が書かれていないことである。しかし、鈴木の本書での指摘は刺激に富むものである。
   

3 ロバート・A・ニーメイヤー 「<大切なもの>を失ったあなたに 喪失を乗り越えるガイド」 春秋社 2006年

  グリーフ理論の提唱者としては、キューブラー・ロスがよく知られおり、死にゆく人が経験する内面的な様々な葛藤を5段階に分けた理論(「段階理論」)がある。しかし、本書の著者は、従来のグリーフ理論がグリーフの段階・仕事といった症状面だけを重視しているとして批判し、「グリーフ行為における中心的なプロセスは、意味の世界の再構成である」とする構成主義的で、ナラティブ理論に基づくアプローチを採っている。そして、6つの原理を掲げている。@自己の「意味の世界」の中で死がどのような位置づけになるのかを知る必要がある、Aグリーフは個人的プロセスであり、グリーフを「自分はこういう人間」という自己認識から切り離せない,Bグリーフ行為とは、私たちが能動的に「何かをやる」ことで、受動的な「何かが私たちのみの上に起こる」ことではない、Cグリーフとは、喪失によって様々な課題を抱えながら、自分の意味体系を認識し直し、新たにその体系ないし世界を再構成すること、D感情には機能がある、人々は自分たちの「構成」が適正かどうか問われるような問題が生じたときに、何とかつじつまを合わせようとして努力する。そういう状況を知らせるシグナルが感情、E私たちは喪失の生き残りであり、喪失のたびに、自分のアイデンティティを他者との折衝で、構成、再構成しながら今日に至っている。また、本書は自分でできるグリーフ演習を収録しており、実践的なガイドブックとしての側面も持っている。本書は症例もたくさん含まれていて、分かりやすいグリーフに関するガイドブックといえよう。

 市野川容孝 「思考のフロンティア 社会」岩波書店 2006

 この本で扱われているのは、「社会」ではなく、「社会的」という言葉である。「社会的なものの概念」が本書のテーマである。
 本書は2部から構成されており、第1部は「社会的なものの現在」で、第2部は「社会的なものの系譜とその批判」からなっている。

 社会的なものは、優れて規範的な概念であり、それは平等や連帯という価値を志向する概念である。そのルーツをルソーに求めているが、ルソーがその言葉に託したものは、自然的不平等を超えて、あえて平等を創出するという課題であった。「自然的に人間の間にありうる肉体的不平等の様なもののかわりに道徳上及び法律上の平等を置き換える」ことや「人間は体力や精神については不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になる」(ルソー「社会契約論」)という考えである。

 市野川の考えは、結論的に言えば、社会的な国家を民主主義によって動かすというものであるが、それは自分以外の他者への気遣いや社会全体を見渡す力に支えられて生まれたはずであるが、現実の社会的な国家(福祉国家)は、それとはまったく逆の帰結を、人々は自分の私生活以外に何も気に掛けずにまどろんでいるという現実をもたらしている。遺伝的やさまざまな要因によって、労働と生産に参与できず、他者と社会にとって負担にしかならないとされた生命は、いつでも「死の中への廃棄」(フーコー)の対象とされるので、人間の生命の多様性はそれだけで存在しうるものではなく、その生命を育み、支えるために、必要な諸々の基本財が与えられ続けなければならないのであり、しかるべき再分配が保障されなければならないのである。

 現実の社会的な国家は、不平等と支配―従属の関係を強化し、再生産するものであり、課題として、著者は脱特権化と脱国境をあげている。前者は、さまざまな意味で市場と賃労働の枠組みを超え、市場をベースとした交換的正義を越えて、分配的正義を構想すべきであり、後者は社会的国家がグローバル資本の前でも競争を強いられ、社会的なものに対する財源をぎりぎりまで切り詰めることを迫られている、従って、グローバルな資本を前にした、社会的な国家のバーゲニング競争に歯止めを掛けることであり、税率や社会保障のために、資本が支払うべきコストについて足並みをそろえながら、資本の逃げ道を塞ぎ、それを包囲していかなければならないと結んでいる。

 2007年3月


1 トリスターノ・アモネ「イタリア保安処分体験者の手記」 全国「精神病」者集団 2007.3

  イタリアは精神病院を解体し日本より精神医療では先進国という理解をもっていたが、その裏面で、保安処分は実に悲惨な形で行われているという体験報告である。けだし、それは裏面ではなく、精神病院の解体が産んだ必然的なことなのかもしれない。この人は「部分的に意図及び意思能力に欠ける」(心神耗弱)と判断されたため、3年の刑期を勤めた後、司法精神病院OPG(最短で2年、10年まで延長可能)で4ヶ月、そこでは刑罰は殴打、その後18ヶ月、カトリック系の一般の精神病院に、ここでは薬ずけ、その後私立の「共同生活体」で23ヶ月、そして一般刑務所、その後再びOPG刑務所へと逆戻りとなり開放された人である。イタリアでは「社会的に危険な可能性がある」というだけでOPGに投獄される人たちがおり、このような「精神科施設」が、異議や抵抗を抑え込むために社会をコントロールする道具として使われている。日本もまたそのことを批判できない立場にいることは論を待たないであろう。

(参考)ジル・シュミット「自由こそ治療だ イタリア精神病院解体のレポート」社会評論社 2005

  本書は、1985年に出版されたスイスのジャーナリストの手による北イタリアの精神病院解体のレポートである。2005年12月、出版社を代えて再刊された。本書のタイトルとなっている「自由こそ治療だ」というのは、「内部」にいる患者の問題ではなく、「自由」というショックは「外部」にいる人々に不安を引き起こすためなのである。即ち、精神医療の廃棄を意味しているのである。

  トリエステの精神病院が中心になって、精神病院を解体するプロセスは、法律を作るまでに持っていったのだから、日本の私たちから見れば成功といえよう。確かに、精神科医の澤温が書いているように、それはイタリア全体に波及しなかったという問題はあるかもしれない(「世界の精神保健医療」)。しかし,そこにはグラムシの陣地戦の考えが根底にあり、イタリア共産党の関与もある。公立病院に限ったところで、新たな入院を禁止する法律を作ったバザーリアの考えは革新的である。日本の現状や私たちの力がはるかに及ばないところに、イタリアの現実があるということだけは認めなければならない。 

  

2 西村良二編 「解離性障害」新興医学出版 2006

 
 
「解離性障害」は古くからあった概念ではあるが、それが実際に定義づけられたのは、
WHOによる1992年のICD10からである。その定義は、「自分自身の同一性、過去の記憶、直接的感覚、身体運動などの間の正常な統合が、部分的にあるいは完全に失われている状態」となっている。解離は、ある精神内容を切り離すこと(Janet.P)であり、精神力動的には「逃避」であるから、健康なものから病理的なものまで連続性を持っている。
  本書は、この概念の歴史、定義、解離性健忘、遁走、離人症、解離性同一性障害(DID)、トランスなどの症状、診断、治療などを扱い、心理検査、生物学的な仮説、並存症などを網羅的に取り上げている。外傷や虐待との発達的な視点に基づく、関連性が不十分なのは研究の今日的段階なのか!

 3 中村正利 「精神障害者を支えるグループミーティングのメソッドー作業所、デイケアでスタッフの出来ること」 金剛出版 2007

 
  この中村の本は、作業所、デイケアでのグループミーティングについて書かれている。グループワークや統合失調症等の精神「病理」につい ても言及はされているものの、主要なポイントは、自らの作業所のグループミーティングの実際を詳しく採録しているところにある。それについ ては、現場に根ざした実践的なレポートではあるが、精神「病理」やグループワーク「論」については、十分に展開はされておらず、消化不良  の印象を受けた。

4 フィリップ・ヒル 「ラカン」 ちくま学芸文庫 2007

 
 ラカンは、生前あまり著作を著さなかった。せいぜい、「エクリ」位である。それ故解説書はおびただしく出版されている。哲学、文学から臨床的なものまで、今なお書かれ続けている。

 この本は、イギリスの精神分析家による lacan:for beginners 1997の翻訳である、といっても、昨年出版された斉藤環の「中学生でも分かる」ラカン解説より、基本的問題を系統的に展開している点で分かりやすく、かつ刺激的な本である。

 人は自我心理学者が考えるように、「真実」を見ることによって葛藤から解放されたりはせず、精神分析家のなすべきことは、欲望を明確にして、主体の生の意味を明らかにすること、すなわち「症状が隠蔽している欲望に居場所を与えてやることである」

 母親は子供が成長するにつれて、乳を与える代わりに「ことば=シニフィアン」を与えるようになる。しかし、主体はシニフィアンによって疎外されてもいるのである。ラカン曰く「シニフィアンは主体を別のシニフィアンに対して代表象する」。

 本書は、beginnerのためのラカン入門なので、治療的展開はほとんど言及されていないが、類書に比べ、きわめて平易な基本概念についての解説となっている。

5 安積遊歩 「私は車椅子の私が好き*癒しのセクシー・トリップ」 太郎次郎社 1993

 
 もう今から14年前に出版された本書は、安積遊歩が37歳のときに書いた彼女の性と生および障害者運動をめぐる赤裸々な体験記である。今回、彼女を呼んで講演会を持つことになったので、家の書棚に眠っていた本書を必要に迫られて読むことになった。彼女の障害は「骨形成不全症」だが、3人兄弟の真ん中の彼女だけが障害を持ち、殆どを家庭で育ち小学校5年から2年8ヶ月だけ施設への入所体験もしている。

  本書の題名が「癒しのセクシートリップ」であり、性をめぐる体験及び思想で本書は貫かれている。また、彼女の性に関する意識を大きく変えたのは、アメリカ・バークレーへのピアカウンセリングの研修会の期間であったようだ。アメリカは、彼女もびっくりするほどのバラエテイーにとんだ生き方を多くの人がしていたからだ。自分の生きたいように生きていいんだ、というのが彼女が学んだことだった。この本にはもうひとつ自分自身を回復する試みとして「コウ・カウンセリング」(再評価カウンセリング)について読者に伝えたいというメッセージも、濃厚に存在している


2007年2月


1 石川憲彦、高岡健「心の病はこうしてつくられる」批評社


  精神医療誌より書評を頼まれなかなか書けないでいるが、2回目を読み終わり、少しまとめた。次号「精神鑑定」特集に掲載される予定。

2 芹沢俊介編「引きこもり狩り」雲母書房

  2006年4月、東京の男性(26歳)が名古屋の引きこもり支援施設アイ・メンタルスクールに拉致され、4日後外傷性ショック死した事件をめぐるもの。ここの代表をしていたのが、杉浦昌子、彼女の姉は長田百合子、彼女も民事でかっての入寮者から損害賠償請求で訴えられている。編者の芹沢俊介の他は、高岡健(精神科医)、多田元(弁護士)、山田孝明(情報センターISIS )、川北稔(愛知教育大)、梅林秀行(情報センターISIS )が分担執筆し、シンポジウムが収録されている。芹沢は、疑うべきは善意の「支援」そのもの、と言い、引き出し型の支援だけではなく、「引きこもりの支援そのものを問いたい」と述べる。「スタッフの自己満足以外に居場所とはいったい何の意義を持つのか」(梅林)、「引きこもった若者にとっての<行く場>の確保、社会への参加は、<居場所>的な支援によってどのように可能か」と、これまであまり論議されてこなかった問題にも踏み込んでいる。

3 植田俊幸「オーストラリアの地域精神保健」「心と社会」127号

  鳥取の県立精神保健福祉センターの植田さんから、オーストラリアの精神保健情報として投稿前に送られてきた論文。オーストラリアの中でも、メルボルンとシドニーに限って、地域精神保健のシステムを現地に出かけて行ってまとめたもの。オーストラリアの情報は、ほとんど日本では公開されていないので貴重な資料。オーストラリアは、当事者、家族を大幅に権利擁護、意志決定に参加させている。

4 エドワード・W・サイード「フロイトと非ーヨーロッパ人」平凡社

 今は亡きパレスチナ出身のサイードによるアイデンティティ論。フロイトの「モーセと一神教」を読み解く中から、アイデンティティがどこまでも限定つきのものに過ぎないことを語り、イスラエルの排他的なユダヤ主義を告発する書である。訳者の長原豊のあとがきは、多くのことが書かれすぎて消化不良気味だった。それに対して鵜飼哲の解説は明瞭。サイードの主著「オリエンタリズム」は以前に買って書棚に眠っている。

5 本田由紀「<やりがい>の搾取-拡大する新たな『働きすぎ』」、世界 2007.3

 本田由紀は、一連のニートに関わるものや、若年者の雇用に関する言説の分析を行い、提言もしており、最近注目をしている。「『ニート』っていうな」、「多元化する『能力』と日本社会」、など関連する書籍がある。

  昨今働きすぎの新たなタイプ「集団圧力系ワーカホリック」(社会学者・安部真大「搾取される若者たちーバイク便ライダーは見た!)を取り上げ、それを成立させる要素として、@趣味性、Aゲーム性、B奉仕性、Cサークル性・カルト性をあげている。この中で奉仕性とは、顧客にサービスを提供することを職務としているヘルパー、看護師、教員などの「ヒューマンサービス職」である。このような現場では、顧客の人格や生活史にまで踏み込んだ理解に基づき、多大な情緒的資源を注ぎ込む形でサービス提供が要求される場合もあり、働きすぎが生じる。こうした「<やりがい>の搾取」に基づく「働きすぎ」の拡大を防ぐためには、こうしたからくりを明るみに出すことで、「自由闊達な」働き方という外見に潜む問題性を、言揚げし、対処・抑制していく提言をしている。

 


    2007年1月         

  貴戸理恵「コドモであり続けるためのスキル」、理論社

 小学校のときに不登校を体験した著者、現在は東大大学院生(社会学)による子供の世代に向けた子供であり続けるためのノウハウ。その上、人と人とのつながり、それこそは社会性、ソーシャルで、変に大人にならずにどのような連帯、共同が必要なのかは今ひとつ物足りないところでもある。

 2 斉藤環「生き延びるためのラカン」、パジリコ株式会社

 ラカンは用語が難しく、分かりにくいが、平易に解説しているところはさすがというところ。去年出たセルジュ・ルクレールの「精神分析すること」(誠信書房)は、古い本だが、症例の提示もあり必読の本らしいから、読んでみたい。

 3 ケヴィン・トォルドー「病気にならない人は知っている」、幻冬舎

   Kが通っている鍼灸院で借りてきた本で、面白く一気に読むことが出来た。アメリカ人で難病を克服し、いろいろなこ とを調べ、病気にならないためのノウハウが書かれた本。

4 山下浩志、「共に学び、共に働くための支援が問われている」、「福祉労働113」

 越谷の「わらじの会」を結成した山下氏による養護学校が義務化されて以降、知的障害の人たちの就労にかげりが起こっているという報告。問われていることは、共に学び、共に働くための支援とは何かということ。今自立支援法は社会から徹底的に分けることをし、閉ざされた場を拡大再生産するものとなっているが、就労もその入り口としての就職だけが強調され、就労が継続されていく中で「職場も障害者に適応すること」こそが必要だという主張。障害者が今の社会から排除され、そのような職場でどんな適応が可能なのか?

5 鈴木国文、「社会の変化と今日の青年期病像」精神科治療学Dec.2006、「青年期の臨床現場で今何が起きているのかー社会の変化と新たな病像-T」

 今日の社会において、「社会の内と外」の区別が見分けにくく、それがいかに青年期の心性に影響を与えているのか、を考察している。