岩手の観光地

松川地熱発電所(岩手郡松尾村八幡平)
天台寺(二戸郡浄法寺町御山) 史跡志和城跡(盛岡市中太田) 山の上三太夫(滝沢村鵜飼) 水道記念館(盛岡市上米内) ヤエベニシダレヒガン(盛岡市米内浄水場)
大慈寺山門(盛岡市大慈寺) 原敬墓(盛岡市大慈寺町) 愛宕の森(岩手郡玉山村渋民) 焼走り溶岩流(岩手郡西根町) 御所野縄文公園(二戸郡一戸町)
木津屋池野籐兵衛家住宅(盛岡市南大通) 盛岡八幡宮(盛岡市八幡町) 啄木新婚の家(盛岡市中央通) ムカデ姫のお墓(盛岡市名須川町) 烏帽子岩(櫻山神社内)
櫻山神社(盛岡市内丸) 時鐘(盛岡市内丸) 旧井弥商店(盛岡市上の橋町) 旧第九十銀行本店本館(盛岡市中野橋通) 盛岡信用金庫本店(盛岡市)
旧盛岡銀行(盛岡市) 滝沢総合公園 ちゃぐちゃぐ馬っこ 鬼越蒼前神社(滝沢村上鵜飼) 住吉神社(盛岡市住吉町)
鬼の手形(盛岡市三ッ割) 十六羅漢像(盛岡市茶畑) 岩手山神社(雫石町極楽野) 縁結びの木(岩手郡安代町) 不動の滝(岩手郡安代町)


  
松川地熱発電所 Matsukawa Geothermal Power Plant
 
   岩手郡松尾村八幡平
松川地熱発電所 《案内板より》
松川地熱発電所
 
 地球の内部には六千度もの灼熱のマグマがあり、近くの弱い所や、割目を伝って地上に出たのが火山となる。しかし、場所によっては、蓋をかけられたようになって地層の下で高温蒸気や熱水が循環していることがある。
 このような場所を見つけてボーリングをし、高圧、高温の蒸気を利用して電気を起こすのが地熱発電である。松川の地熱発電所は、昭和41年10月に日本で初めて成功したもので、無尽蔵の地下蒸気を利用して営業発電している。巨大な白い冷却塔とたち昇る白い蒸気が、大自然の木々の中に特異なコントラストを示している。


八葉山天台寺
 
   二戸郡浄法寺町御山
天台寺 《拝観券案内文より》
東北の城柵と志波城
 
 ◆天台寺の歴史
 天台寺の登り口にカツラの大木があり、その根元から清水が湧いていて、「桂清水」と呼ばれてきました。太古から、この清水は霊水として知られ、「桂清水」はこの地方の霊木・霊水信仰の地だったと思われます。
  天台寺は奈良時代の神亀5年(728)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開山したと伝えられています。八つの峰、八つの谷からなるこの山を「八葉山」と名づけ、山中のカツラの大木を刻んで本尊聖観音菩薩としたといわれます。天台寺は北奥の観音霊場としてその時々の支配者から崇敬されてきました。山上の本堂(観音堂)は、江戸時代万治元年(1658)盛岡藩主南部重直が再興したもので、典型的な密教様式の仏堂であり、国重要文化財に指定されています。藩主の祈願所として、また、糠部三十三所、奥州三十三所の詣り納めの観音霊場として庶民からも深い信仰を集めてきました。
 江戸時代に栄えた天台寺も明治政府の俳仏政策により、次第に衰運に向かいました。戦後の霊木伐採事件をきっかけに保存復興運動が高まり、昭和62年作家の瀬戸内寂聴師を住職に迎えてからは復興が急速に進み、全国的に天台寺の名が知られるようになりました。

 


  
史跡 志波城跡 (志波城古代公園)
 
   盛岡市中太田
志波城跡 《案内板より》
東北の城柵と志波城
 
 城柵とは、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の二大政策(東北経営と平安京造営)の一つとして、蝦夷(えみし)とよばれた東北地方に住民を統治するために設置された行政府(役所)です。

 志波城は、律令政府の陸奥の国最北端の城柵として延暦22(803)年に築かれ、和我・稗縫い・斯波の三郡を統治していました。そして、設置後約10年で、雫石川の氾濫を理由に、その役割を徳丹城(矢巾町)に移しました。

復元について

  志波城跡の保存整備は、地下の遺構を保護しながら進めました。 復元にあたっては、発掘調査による成果をもとに、当時の姿をより深く理解できるように、古建築や絵巻物から工法や材料・道具などの検討を繰り返し、立体的におこないました。

 なお、見学したときには、「外郭南門」「外郭築地塀」「櫓」「政庁の南門と西門」などが復元され、外堀なども一部復元されているようでした。


  
山の上三太夫の墓
 
   岩手郡滝沢村鵜飼
山の上三太夫 《案内板より》
山の上三太夫(作太夫)
 
 延宝年間(1670年代)に江戸で活躍した南部家おかかえの怪力力士「山の上三太夫(作太夫)」は本村(滝沢村)鵜飼ゆかりの大関である。
 当時、山より強いと云われた富士の山に勝ち、喜んだ南部重信が、富士の山より強いところから、「山の上」と命名したと伝えられている。
 延宝4年の夏、重信の長男行信が駕籠で帰宅の際、幼少の行信を涼ませるという善意で6人がかつぐ駕籠を1人で軽々とかつぎ、橋のらんかんの外に差し出した。このことが重信の怒りを買い小鷹の刑場で処刑された。
 処刑の際、三太夫は「今後南部からは大関は出さない」と呪いの言葉を残し刑台に上った。槍で胸を突かれるとき、三太夫は満身の力をこめ、全身を緊張させたため槍は鉄石をつくに等しく、少しも傷を負わすことができなかった。しかし三回目に身体を和らげると深く胸に突き刺さり、刑場の露と消えたと伝えられている。  (滝沢村)


  
水道記念館(旧米内浄水場事務室)
 
   盛岡市上米内
大慈寺山門
ヤエベニシダレヒガン
《案内板より》
水道記念館
 ・保存建物 平成3年指定
 ・平成11年 文化庁の登録有形文化財に登録

 この水道記念館は、水道事業を開始した昭和9年に、米内浄水場の事務室として建設されたものです。
 昭和43年に現在の浄水場の管理棟が建設された後は、資料庫として使用されていましたが、昭和59年に水道事業創設50周年を記念して水道記念館として整備しました。平成11年に文化庁からその歴史的価値が認められ、「近代化遺産」として登録有形文化財に登録されたことを契機に、平成13年3月に内装や展示物等を一新し充実させました。


参考:
 ここ米内浄水場の敷地内には、桜で有名な『ヤエベニシダレヒガン郡』があリ、毎年多くの観光客が見学に来る。



  
大慈寺山門
 
   盛岡市大慈寺町大慈寺山門
《案内板より》
大慈寺山門
 保存建物 平成3年3月27日指定

 この建物は、明治38年建造とされる楼門形式の山門である。大陸風の形に和風の趣のある山門の天井には二つの龍が描かれている。   
(盛岡市)


 ここ大慈寺には、偉人『原敬』が、埋葬されている。


  
原敬墓所 BURIAL PLACE of KEI(TAKASHI) HARA
 
   盛岡市大慈寺町 (大慈寺)
原敬の墓《案内板より》
原敬墓
 
 大正10年2月20日に書いた原敬の遺言の中に、「遺骸ハ盛岡ニ送リ大慈寺ニ埋葬スベシ‥‥」
 この遺言により大正10年11月4日、東京駅にて凶刃に倒れた遺体は、盛岡に送られ、11月11日に悲しみの冷雨にけむる大慈寺に埋葬されたのである。墓石の「原敬墓」と刻まれた三字は、遺言の中の「墓石ノ表面ニハ余ノ生命ノ名ノ外戒名ハ勿論位階勲等モ記スルニ及ハス」によって墓石にはただ三字だけが刻まれている。カトリック信者として「ダビデ、ハラ」、戒名の「大慈寺殿逸山仁敬大居士」も信仰の哲理に徹した偉人原敬の信仰の理念はこの二つを一つに帰結したのである。また、遺言には「死去の際位階勲等ノ昇叙ハ余ノ絶対ニ好マサル所ナレハ死去セハ即刻発表スヘシ」と書き、受爵恩名内定の際も「爵位や位階勲章は、デモクラシーに反する」と強く主張して拝辞し、最後の日まで民主主義の一貫性を考え墓石にその精神を表徴したのである。
 信仰と民主主義に徹した偉人原敬。政党政治の不滅の塔を樹立した民主主義政治家原敬。事由と平和を愛好し、藩閥、軍閥、官僚の権力と闘い、特権階級と対決した平民宰相原敬。今は「原敬墓」と三字を刻まれたこの墓石に下に、移り変わる世相を見つめつつ永遠の眠りについている。
 遺書、遺品約二百点は、市内本宮の生家原記念館に保存し、一般に公開している。



  
愛宕神社(愛宕の森)
 
   岩手郡玉山村渋民
愛宕の森 国道沿いにある愛宕神社の鳥居。この後ろに見えているのが『愛宕の森』と思う。さっそく行ってみたが、参道の階段が荒れ始めていて、登りづらかった。
 やっとの思いで辿りついた祠の裏手には、石川啄木の歌碑のある広場があり、そこから見た岩手山の眺めに疲れを忘れるほどであった。


《登り口案内板より》
愛宕の森
 この森の上に、愛宕神社が祀られている総本社京都の愛宕神社の支社として、およそ三百年前に建立された。防火の守護神として村人に信仰され、毎年旧暦の6月と8月の24日に例祭が催される。
 啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで散策しては詩想を練った。この森の下に、啄木が代用教員として教鞭をとった、渋民尋常小学校があった。
   昭和48年3月 玉山村、玉山村観光協会  


  
焼走り溶岩流
 
   岩手郡西根町
焼走り溶岩流《案内板より》
特別天然記念物 1952年3月29日指定

説明
 焼走り溶岩流の流出したのは、1719年の正月である。
 噴口は海抜約970m位で溶岩流の延長は約2.8km。巾は、末端部の最も広い部分で約1,050mである。
 表層部は径数cmより数mに達する大小の火山魂界に被われている。従って若干火山灰土に被われている上端部を除いては、樹木の育成を許さず蘇苔類、地衣類が着生するに過ぎない。
 その表面には波紋のような凹凸があり、虎の斑紋のように見えるので『虎形』とも呼ばれている。
 焼走り溶岩流は、1944年11月7日天然記念物に指定されたが、その後1952年3月29日改めて特別天然記念物に指定されている。
 火山国日本では、溶岩流はあちこちの火山で知られ富士山の猿橋溶岩、浅間山の鬼押出し溶岩流、三原山の1951年溶岩流などは有名である。
 また、秋田駒ケ岳噴火の際にも溶岩流が流出している。
 このように溶岩流は多いが、特別天然記念物に指定されている例はほかにはない。


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御所野縄文公園
 
   二戸郡一戸町岩館
御所野縄文公園《御所野縄文公園のホームページより》
御所野遺跡
  国指定史跡 平成5年12月21指定
説明
 御所野遺跡は縄文時代中期後半(4,000〜4,500年前)の大規模なむらの跡で、65,000uの台地のほぼ全面に600棟以上の竪穴住居跡が見つかっています。
 発掘調査は平成元年からはじまり、配石と盛土遺構とともにおおがかりに造成された中央の広場を中心に東・中央・西と3つの集落が計画的に配置された典型的なむらであることが分かりました。縄文時代の社会構造を知る上で貴重な遺跡として、平成5年12月21日に国指定史跡となっています。


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木津屋池野籐兵衛家住宅
 
   盛岡市南大通二丁目3-20
木津屋池野籐兵衛家住宅《案内板より》
岩手県指定有形文化財(建造物)
木津屋池野籐兵衛家住宅 附土蔵
     昭和58年4月26日指定
説明
〔構造概要〕
 建築年代 天保5年(1834)
 母屋は間口9.5m、奥行19.95mの木造二階建ての町家建築で、屋根切妻造、鉄板瓦棒葺で、周囲の廂は桟瓦葺、外壁は木造軸組の外部を土塀式に漆喰仕上げした土蔵造りとなっている。軒天井の?、野地板等の木部もすべて漆喰押えとし、東側壁も仕上げて?(卯建)造りとしている。
 主屋の奥の土塀に接した土蔵は、間口6.7m、奥行7.65mの木造二階建てで、切妻造、桟瓦葺、外壁漆喰塗仕上げ、腰なまこ目地上げとし、屋根板張り土塗りの本体に、さらに木造屋根の瓦葺屋根の二重構造としている。
 窓は外側片開き漆喰塗防火戸、出入扉も両開き防火戸で徹底して防火に注意を払った構造となっており、土蔵建築の典型的遺構として貴重である。


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盛岡八幡宮
 
   盛岡市八幡町13-1
盛岡八幡宮《盛岡八幡宮のホームページより》
盛岡八幡宮の由来
 今から約800年ほど昔、南部の藩祖である南部光行公が、城を移した先の豪族の氏神を、ひきつづきこの地の守護神として城内にまつりました。それが盛岡八幡宮の前身の鳩森八幡社です。
 もともと南部家は先祖代々八幡神を氏神と仰ぐ家柄のため、城内の八幡社を篤く信奉しました。そのことが城下の民衆にも自然に八幡神を崇敬するようになり、新たに崇敬の中心となるべき八幡神社の造営が必要とされました。
 寛文11年に南部29代重信公が、町の中心部を整え、 新八幡宮の造営に着手。延宝8年にはご本殿を始め、流鏑馬(やぶさめ)馬場等の主な建物や施設が整いました。以来、盛岡八幡宮はこの地の歴史とともに発展し現在に至っています。

盛岡八幡宮の御祭神
 品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)の御神霊(ごしんれい)をおまつりし、"やはたのおかみさま"、"はちまんさま"と親しみを込めてお呼びします。
 御母である神功皇后が応神天皇を御出産されたとき、天から赤と白の沢山の旗が舞い落ちてきました。この沢山の旗(幡)から八幡(はちまん・やはた)の名がついたと伝えられています。
 応神天皇は外国人との交流から学術技芸を輸入、文化の発展開発に貢献されました。中国の経典をはじめて日本に伝えるなどの学問の分野から、あらゆる殖産興業の道を授けられたといわれる偉大な神さまです。
 また人生の岐路にたつ勝負があるときの御利益が強大であったため、源氏の氏神など、古くから武家に広く信仰されました。今でも家庭や生業の発展無事、会社の興隆、交通無事故、受験合格などの守り神として多くの人の崇敬をあつめています。

青銅燈籠(盛岡八幡宮境内_内)《案内板より》
 盛岡市指定文化財(工芸品)
青銅燈籠
 昭和57年9月1日指定
 
 笠は円形で蕨手状の反りのある梁線により六区分されている。火袋は桐花文透、中台は左右一対で十二支を鋳出ししている。竿は珠紋帯をはさんで上下対照に花木文を、また、まわりを青海波文で、基檀には牡丹・獅子、銘文を陽鋳し、笠部、竿部・基檀の三部分が重ね継ぎになっている。
 盛岡城下御用職人、藤田家五代目、藤田善兵衛秀彭と弟、善蔵情有の文化9年(1812)8月作である。
南部鋳金史上からも貴重な作品である。
所有者 盛岡八幡宮
昭和58年9月
盛岡市教育委員会
 

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啄木新婚の家《The house Takuboku lived a newly-married life》

   盛岡市中央通三丁目
啄木新婚の家
《案内板より》
 詩人石川啄木は、明治38年(1905)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。 仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で、彼らと遊んで滞在すること10日に及んだ。
 その間、盛岡市帷子小路八番戸の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の堀合節子がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木はついに姿を見せなかった。そこでその夜級友上野宏一(画家)の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」が行われた。それがこの家である。
 仙台をたった啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくこの家に顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。時に啄木は20歳。
 この家で稿を起こした随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」「明滅」「この心」の作がある。
 啄木一家がここに在ること3週間、6月25日には中津川のほとり加賀野磧町四番戸に転居した。
 現在、盛岡市内の啄木遺跡といえるのは「啄木新婚の家」だけである。



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ムカデ姫のお墓《The Grave of Princess Centipede》
                
   
盛岡市名須川町
ムカデ姫のお墓 
ムカデ姫のお墓由来《案内板より》
 この墓は、南部27代藩主利直の奥方源秀院殿のお墓です。源秀院殿は、蒲生飛弾の守氏郷の養妹で、名は於武といって文禄3年(1594)3月、南部家へお輿入れいたしました。その時、蒲生家の祖、俵藤太秀郷が近江の石山で、大ムカデを射止めた時にもちいたと伝えられる矢の根をみやげとしました。その後、利直が亡くなり、於武の方も寛文3年7月26日、江戸桜田の邸で逝去されましたが、姫の遺言によってここに葬りました。当時、お墓の前には濠があって、南部家ではこれに太鼓橋をかけることになりましたが、いよいよ竣工して渡り初めという日に、一夜のうちにその橋がさんざん破壊されておりました。その後、何回かけても橋がこわされてしまうというので、誰いうとなく、「それは大きなムカデが出て橋を壊してしまうのだ。」といううわさがたち、そのうわさが殿様の耳にも入り、大変不吉なことと考えられていました。そこで、殿様は墓参の当日に朝早くからたくさんの武芸者を見張り番につけ、数千人の人夫を雇い入れて、一気にその日のうちに工事を終え、やっと橋を完成させました。しかし、その後もこの付近では俵藤太に射られたムカデの怨霊が何百匹となく毎夜のようにはいまわり、姫の百千筋の髪の毛がことごとく蛇に化け、その蛇はみな片目であったといい伝えられております。このことが、また城下の評判となって誰いうとなく「ムカデ姫のお墓」と呼ぶようになりました。
 

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櫻山神社・烏帽子岩
                
   盛岡市内丸一丁目
櫻山神社
烏帽子岩
 櫻山神社
御由緒《境内の案内板より》
 御祭神
 源性大明神南部光行公、神受霊神南部利直公、信徳大明神南部信直公、神功霊神南部利敬公、
 當神社は南部藩第33代利視公の寛延2年9月第26代の藩主信直公の御神霊を勧請して淡路丸大明神と尊崇し祭ったのに始まる。ついで文化15年4月藩祖光行公を、また大正元年10月には27代利直公、36代利敬公の御尊霊を合祀して永く郷土守護の神と崇め祭った。利直公は信直公の長子で父君の遺志を継いで盛岡城の完成と盛岡市の町造りを成し遂げ盛岡市今日の基礎を築いた英主であり、利敬公は朝命を奉じて北海道の警備に従われ且つ朝廷を尊び給い敬神崇祖の念篤くその功によって明治41年従三位追贈の恩命に浴された名君である。 文化9年8月旧地の命に因で櫻山神社と改称した。明治14年1月に県社に列格し次いで明治33年10月現在地に奉遷鎮座された。
 昭和40年11月御造営竣工し藩祖光行公750年、式年臨時大祭を斎行した。
 尚境内に榊山稲荷三社が鎮斎され賽者が頗る多い。
 また次に紹介した『烏帽子岩』は、ここ櫻山神社の境内に祀られている。

 烏帽子岩(兜岩)
烏帽子岩(兜岩)のいわれ《境内の案内板より》
  盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈ばかり突き出した大石が出てきました。
 この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。
 櫻山神社社務所



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時 鐘
                
   盛岡市内丸4番
時鐘《案内板より》
盛岡市指定有形文化財(工芸)
 時鐘(じしょう)
昭和42年6月24日 指定
 藩政時代、盛岡城下の時鐘は三戸町と十三日町の二ヶ所にあった。
 この時鐘は三戸町にあり日陰門外時鐘と称されていた。29代南部重信の子行信の発願により、聖寿寺の大道和尚が銘文を構想し、小泉仁左ェ門清則(五郎八)によって延宝7年(1679)12月に鋳造されたものである。
 この鐘は明治維新後ここに移され、昭和30年頃まで約280年間にわたって盛岡の人々に時刻を知らせ、生活のしるべとして親しまれたものである。
 所有者 盛岡市
平成8年3月 盛岡市教育委員会


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旧井弥商店(現盛岡正食普及会) 
                
   盛岡市上の橋町
旧井弥商店《案内板より》
保存建造物指定
 旧井弥商店(現盛岡正食普及会)
昭和52年1月20日 指定
 この建物は、明治末期に井弥商店店舗として建てられたもので、明治時代を代表する土蔵造りの建物である。
 盛岡市



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旧第九十銀行本店本館 
                
   盛岡市中野橋通1丁目1番25号
旧第九十銀行本店本館《案内板より》
国指定重要文化財(建造物)
 
旧第九十銀行本店本館
平成16年7月6日 指定
 この建物は旧第九十銀行本店本館として明治43年(1910)12月に竣工しました。設計は東京帝国大学を卒業して間もない、盛岡出身の若き建築家『横濱勉(よこはま つとむ)』工事監督は元岩手県立工業学校助教諭『久田喜一』です。
 構造は煉瓦造2階建(一部地下一階)、建物面積264.61u、正面から見て左右非対称の建物で、屋根はマンサード型を基本とし、正面左側は棟を直交させて飾り棟をのせ、ドーマー窓を飾り、天然スレート板及び銅版で葺かれています。建物の荒削りな隅石や入り口・窓のアーチなどの石材は市内川目産の花崗岩が使われています。明治期の銀行は営業室を高い吹き抜けとするのが主流でしたが、ここでは2階に広い総会室(集会室)を設け、1階を営業室・客溜・金庫室・頭取室及び応接室としています。
 大正期にあらわれる表現主義建築の先駆けとされ、外観は重厚感のあるロマネスク・リヴァイヴァル様式、内部は直線的で平明かつ簡潔なゼツェッシオン式の影響がみられ、19世紀末の欧州での建築運動をいち早く反映させたものとして、わが国の近代建築史上重要な建造物といえます。
 平成17年3月 盛岡市教育委員会

 現在この建物は『もりおか 啄木・賢治 青春館』として、石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街と二人の青春時代を紹介する場として活用されています。


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盛岡信用金庫本店(旧盛岡貯蓄銀行)
                
   盛岡市
盛岡信用金庫本店《案内板より》
保存建造物指定
 盛岡信用金庫本店(旧盛岡貯蓄銀行)
 昭和五十二年十二月二十日 指定
 この建物は昭和2年に旧盛岡貯蓄銀行が銀行店舗として建てたもので花崗岩の壁面や石彫のアクセント等昭和初期のモダンな表現と近代デザインの面影を伝えている。         盛岡市



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旧盛岡銀行(岩手銀行旧本店本館) 
                
   盛岡市
旧盛岡銀行《案内板より》
重要文化財
 岩手銀行旧本店本館(現中ノ橋支店)
 平成六年十二月二十七日 指定
 この建物は、旧盛岡銀行として明治四十四年四月に竣工しました。設計者は日本銀行本店、東京駅などを手掛けた明治洋風建築界の権威、辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司工学士の両氏の手によるもので「赤レンガ』の愛称で親しまれています。
 構造は、一部三階建てとなっておりその延床面積は千二十平方メートルに達しレンガ組積造のルネッサンス様式で統一されております。外部は白色花崗岩によりバンドを巡らして横線を強調し採光用のドーマー窓とドーム屋根を組み合わせて、凹凸の多い平面計画で建物に陰影をつけるなど、同様式の特徴を顕著に表しております。特に内部は一、二階の吹き抜けや木製の飾り柱のコリント様式柱頭、天井は石膏くり型、各室入り口枠の彫刻など意匠に富みクラシカルな雰囲気を作り出しております。
 建築当時の姿を完全な形で伝え、かつ現在も創建当所の目的で使用されている建物の重要文化財指定は、全国で最初のもであります。
 所有者 株式会社岩手銀行


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滝沢総合公園 Takizawa Park
                
   岩手郡滝沢村鵜飼
滝沢総合公園
ハーブ園 日本庭園 ロックガーデン
役場の南西に隣接するスポーツ・レクリエーションのための総合公園
 テニスコートや陸上競技場、体育館、野球場のスポーツ施設を整備し、各種の大会が開催されている他、公園の中央部に滝沢村の「滝」と「沢」をイメージした「ロックガーデン」(水のカーテン)を整備し、総合公園のシンボルとして多くの方々に親しまれています。
 
 写真は、滝沢村役場側の公園入り口とハーブ園・日本庭園・ロックガーデンです。
 この他、バラ園や芝生広場・林間の遊歩道などがあります。また、施設の充実した運動公園もあるので、一日中子供からお年寄りまで楽しく過ごせそうである。




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鬼越蒼前神社 The Onikoshi-souzen Shrine
                
   岩手郡滝沢村上鵜飼
鬼越蒼前神社
ちゃぐちゃぐ馬っ子
ちゃぐちゃぐ馬っ子
《境内の案内板より》
鬼越蒼前神社のチャグチャグ馬コ

 本村は、南部藩の放牧地の一つで、良馬産出の奨励をし、名馬が算出したことから、徳川家をはじめ諸大名が南部馬を買い求めるようになり、全国にその名が響き渡っていった。
 諸大名は馬を軍用等に使い、農家では農耕、運搬、厩肥に欠かすことが出来ず、稲を作るのに五反部に馬一頭の割で飼育しているから、馬の飼育頭数によって、その家の耕作反別が明瞭になっていた。
 蒼然の始まりについては、厨川通り鵜飼の鳥谷部源右ェ門が、この日、田圃の代掻きをしていると、馬が急に驚奔し、鬼古里山の峠で立ち往生した。また、沢内村の新田力助、吉田吉左ェ門などの伝説もある。伝説の共通点は旧の五月五日、鬼古里で馬が立ち往生するや、雲中に声あり「我は蒼前なり、今後、この鬼古里に鎮座し、牛馬の災難を除いてやる」との、お告げがあった。
 蒼前は駒ヶ岳に住み、農耕や地域開発に尽くしたので、死後、農業神として、あがめられたという。その時から里人は社を建て、毎年近郷農家の人々は、一日仕事を休み、馬に飾りをつけ、早朝から勇ましく参拝して牛馬の無病を祈ったのである。
 明治三年に蒼前の社が駒形の称号をもらい、明治二十四年火災にあい、現在地に移転をしている。
 チャグチャグ馬コの装束は、南部侯が参勤交代の際、諸侯への進物馬として、篤農家に行列参加奉仕をさせる。奉仕終了し、交代の時にいただいた装束を自慢げに着飾らせて参拝したのが大流行となる。その後、一時衰えていたが、本村が中心となり、今は全国的に有名となる。昭和三十三年から旧五月五日は農繁期であることから、新暦の六月十五日にチャグチャグ馬コ大行進が行われていたが、平成十三年からは六月の第二土曜日に開催することになった。
 滝沢村
 滝沢村観光協会

 

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住吉神社 The Sumiyoshi Shrine
                
   盛岡市住吉町住吉神社
住吉神社
御由緒《境内の案内板より》
 当神社は、今から九百年前の康平年間 陸奥守源朝臣頼義公が 安部貞任討伐の勅命を奉じ、陸奥に下向の榔 大阪住吉大社の御祭神 底筒男命 中筒男命 上筒男命及び神功皇后御四柱の御神霊を勧請して、当時の岩手郡厨川村住吉の地に奉祀せられたもので、尓来地方民の信仰篤く暦代南部藩主も亦殊の外崇敬せられ、三十三世利視公の寛政7年5月18日 社地を御寄進 社殿を御造営し 現在の地(当時岩手郡岸村字藤ヶ森)に遷座申し上げ今日に至ったもので海上守護 縁結び 浄化の神 交通安全 商業繁盛 詩歌文ヘ 安産の守り神として“住吉さん”の愛称を以って市民大衆に親しまれています。今日二千坪の広大な境内に繁る黷フ大木や、端麗精巧な8基の大燈籠は当神社の叙上の由緒を雄弁に物語っており、最近は自動車の交通安全祈願や、入学孝試の成功などに 霊験あらたかなリとして 広く若人たちの尊信するところとなっております。
 御例祭 七月十四日・十五日
 盛岡 住吉神社社務所 
 

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鬼の手形 Demon's Hand Prints in The Rocks
                
   盛岡市三ッ割
三ッ石
鬼の手形(絵)

三ッ石と鬼の手形

《境内の案内板より》

 伝説によると昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて付近の住民をなやまし旅人をおどしていました。そこで人々は三ッ石の神にお祈りをして鬼を捕まえてもらい境内にある巨大な三ッ石に縛りつけました。鬼は二度と悪さをしないし、また二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので約束のしるしとして三ッ石に手形を押させて逃がしてやりました。
 この岩に手形を押したことが『岩手』の県名の起源といわれ、また鬼が再び来ないことを誓ったのでこの地方を『不来方(こずかた)』と呼ぶようになったと伝えられています。
 鬼の退散を喜んだ住民達は幾日も幾日も踊り、神様に感謝のまごころを捧げました。この踊りが『さんさ踊り」の起源といわれています。



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十六羅漢像と五智如来像 16 Buddhist Disciples
                
  盛岡市茶畑二丁目
十六羅漢像
五智如来像

《公園内の案内板より》

 この地は、市内寺の下祇陀寺の末寺宗龍寺のあったところで、境内に安置されている石像は十六羅漢像と五智如来像(大日如来、釈迦如来、多宝如来、阿弥陀如来、阿?如来)の合計21体で丸彫りの巨石群として有名である。
 南部藩の四大飢饉といわれる、元禄、宝暦、天明、天保の大凶作のとき多くの餓死者が出たが、その供養のために祇陀寺十四世、天然和尚がこの石像の建設を発願し、南部領内から供養喜捨を得て、その浄財で天保8年(1837)10月工事に着手した。そして紫波郡飯岡山から石材を切り出し、藩の御用職人が3年間を要して、あら刻みをおこない、仙北町、青物町付近の若者達の奉仕で北上川を舟で運び、更に川原町、鉈屋町を経て宗龍寺に送り入れ、最後の仕上げをしたという。この運搬だけで半年を要したといわれ起工から13年目の嘉永2年(1849)6月、天然和尚の愛弟子にあたる仙北町長松寺13世泰恩和尚のときにようやく竣工をみるに至った。
 宗龍寺は、明治維新後、祇陀寺に併合されて廃寺となったが明治17年(1884)11月の大火で灰になり、現在は21体のこの石像を残すのみとなったのである。


 


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岩手山神社 The Iwatesan Shrine
                
   岩手郡雫石町極楽野

岩手山神社(雫石町極楽野)岩手山神社の由来

《境内の案内板より》

 岩手山は岩鷲山、霧山嶽とも称され盛岡市の北西約24キロメートル雫石町、滝沢村、西根町、松尾村の二町二ヶ村に誇り、巍然として聳立す。最高峰は薬師ヶ嶽にしてその標高2,041メートルある。岩手山は秀麗なる円錐形をなし八面玲瓏なる彼の富士山に似たるを以って奥の富士南部片富士等の称あり、奥州第一の高山であるため南部領民霊山として古来信仰の対象としてきた。
 桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂将軍東夷征伐の時山中に伏匿する賊徒赤頭の高丸を誅し、民外を除き人々を安堵させる為宇迦御魂神大穴牟遅命日本武尊の三神を謹請し、将軍親しく祭祀した。後国土鎮護のため崇敬したと伝えている。
 文治五年九月源頼朝藤原泰衡征伐の際工藤行光岩鷲山大権現の冥助により大功をたて、岩手郡を賜り、岩鷲山大宮司となり、厨川に住し、南部家につかえ、栗谷川氏と称した。
后岩鷲山別当職を繋安楽坊に申付けたと伝えている。
 永禄年中石川高信の室男子出生を岩鷲山に祈り信直を生む信直南部家の嗣となり杜領二百石を寄進する。二十六代利直代より領内総鎮寺と崇め重く祭祀した。
 新山堂は雫石町頭無に鎮座し境内4,591坪老松うつ蒼として、昼尚暗く森巌を極む。
南部郷村志によると大同二年坂上田村麻呂将軍創建と伝えている。
 慶長八年十月二十日、南部二十六代利直公、西根村大宮神社の別当木村円蔵院に、岩手山西口別当として四十四石五斗一升を与えている。
 平成十二年六月  岩手山神社総代一同

 


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不動の滝 The Hudoh Falls

  岩手郡安代町

不動の滝不動の滝

 周囲の静かな空気を震わせ、高さ15mの滝が飛沫を上げて垂直に流れ落ちるさまは圧巻。深い緑とコントラストは一幅の絵画のようです。
縁結びの木
縁結びの木

 樹齢二百年を越える杉や松が生い茂る参道を進むと、一帯は広い桜松神社の境内。2本の木が仲良く結びついた「縁結びの木」は、結び文で願い事がかなうと伝えられています。また、近くには石に積もった雪の解け方で豊凶を占う「三つの供石」があります。


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