琴平町の歴史雑学

このページでは、琴平町、金刀比羅宮、讃岐に関する雑学を順不同で掲載します。
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NO項          目
 @金刀比羅宮の名前の変遷
 A本地ほんち垂迹すいじゃく
 B金毘羅の名前
 C讃岐三白
 D高燈籠の位置
 E目標燈と象頭山の高さと視度
 F参拝の作法
 G金刀比羅宮の社紋
 H燈籠について
 I金毘羅大権現の流行について
 J金毘羅大権現と四国霊場八十八ヶ所巡りについて
 Kこんぴらさんと播磨屋橋


@ 金刀比羅宮の名前の変遷       -- トップベージに戻る --

名  前 由緒など
琴平社ことひらしゃ 金光院伝玉襷に記すところ
金毘羅こんぴら大権現だいごんげん 本地垂迹説の影響を受けインドの 金毘羅クンビーラに付会せられた結果
琴平ことひら神社じんじゃ 明治元年六月太政官達により改称
金刀比羅ことひらぐう 明治元年七月神祇官達により改称
事比羅ことひらぐう 明治四年六月太政官達にこの文字を使用
金刀比羅ことひらぐう 明治二十二年七月三日より現在に至る


明治9年「事比羅宮」時代と明治37年「金刀比羅宮」の大木札を掲載します。

「事比羅宮」の時代でも「金刀比羅宮」の名前が大木札に書かれています。

明治四年六月の太政官達は公文書上での記載であり、

現地では「金刀比羅宮」の名前が使用されていたようです。



A 本地ほんち垂迹すいじゃく説       -- トップベージに戻る --


仏教伝来に伴い、天皇、貴族の祖先として祭られた神々を仏教上での仏に当て嵌めたもの。

本当は仏教の仏です(本地)ですが、日本では神道の神としてやっています(垂迹)。

天照大神→大日如来、観音菩薩 一、八幡神→阿弥陀如来などと比定されました。

明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、説も消滅しました。




B 金毘羅の名前       -- トップベージに戻る --


明治四十二年発行の「通俗仏教新聞」に掲載された高楠順次郎博士の説が一番有力であり、通説となってしまった。

概略は以下の通りです。

金毘羅の原語クンピーラは「鰐魚」の義で有り、
その根本は或は恒河辺りの鰐魚を祭りたる者が、進化して王舎城の守神となり、
遂に薬叉善神と成った者と想像し得る。

別の説もあります。
ヒンドゥー教の福徳の神クベーラが仏教に取り入れられ、宮比羅くびら大将となり、

神仏習合によって弥勒菩薩の垂迹神として金毘羅大権現が成立した。

クベーラは鰐の神だった。

また、宮比羅大将は薬師如来の十二神将の筆頭であり、十一面観音菩薩などとする説もあります。



C  讃岐三白       -- トップベージに戻る --


砂糖、塩、綿が讃岐三白です。語彙の成立は江戸時代後期と思われます。

封建時代の経済は米中心であり、どこの藩でも米作りは藩財政の基礎であり、

米が讃岐三白の一つであるかのような説は成立しません。

砂糖は和三盆、塩は宇多津辺りの塩田で有名ですが、

綿の栽培が西讃中心であり、しかも早くに消滅したのがその原因と考えられます。



D 高燈籠の位置       -- トップベージに戻る --


丸亀から琴平までの距離約12km、琴平の海抜高度約80m、と考えて、

沖合い2kmから高燈籠を望むと、視度約0.4°となります。

丸亀城以外に視線の妨げとなる物はないので、十分に指標となったと考えられます。



E 目標燈と象頭山の高さと視度       -- トップベージに戻る --


高燈籠と同じ役目を持っているのが、御本宮横高壹にある目標燈です。

燈の高さは海抜236mです。視度約1°となります。

象頭山の高さは524メートル、視度約2°となります。

50年ほど前には象頭山の高さは521メートルと教わりましたが、

最新の国土地理院のデータでは524メートルとなっています。



F 参拝の作法       -- トップベージに戻る --


深いお辞儀を二回

胸の高さで両手を合わせて二度打つ

もう一度深いお辞儀をする

以上二拝二拍手一拝と言います。



G 金刀比羅宮の社紋       -- トップベージに戻る --


金刀比羅宮の社紋は下記の通りですが、この紋は一般家庭での家紋に相当します。

○の中の文字は金と同じ意味の文字で、古い時代の隷書体です。

日本学術振興会の「GT書体2000」フォントでは053999です。

金刀比羅宮ではこの紋の無断使用を禁じています。



H 燈籠について       -- トップベージに戻る --

ウィキペディアのデータを下記に掲載します。

燈籠の構成

一番上 宝珠(擬宝珠) 笠の頂上に載る玉ねぎ状のもの。
二番目 火袋の屋根になる部分。
6角形や4角形が主流であるが雪見型の円形などもある。
多角形の場合は宝珠の下部分から角部分に向かって線が伸び、突端にわらび手という装飾が施されることもある。
三番目 火袋 灯火が入る部分で灯籠の主役部分である。この部分だけは省略することができない。
装飾目的の場合は火をともすことは無いが、実用性が求められる場合には火や電気等により明りがともされる。
四番目 中台 火袋を支える部分で最下部の基礎と対照的な形をとる。蓮弁や格狭間という装飾を施すことがある。
五番目 竿 もっとも長い柱の部分。雪見型に代表される背の低い灯篭ではよく省略される。
円筒状が一般的であるが、4・6・8角形のものも見られる。節と呼ばれる装飾がよく用いられる。
一番下 基礎 最下部の足となる部分である。6角形や円形が主流。雪見型灯籠などでは3本や4本の足で構成される。

燈籠の種類

春日型 神社仏閣で多く見られるもので実用性も高い。竿が長く火袋が高い位置にあるのが特徴である。
園路沿いに設置するのが一般的。
雪見型 雪見とは「浮見」が変化した語である。竿と中台が無いた為、高さが低い。
主に水面を照らすために用いられるので笠の部分が大きく水際に設置することが多い。
足は3本のものが主流。笠の丸い丸雪見と6角形の六角雪見がある
岬型 雪見型から基礎部分(足)を取り除いたもの。
州浜や護岸石組の突端に設置する。灯台を模したものである。
織部式 江戸時代の茶人、古田織部が考案した灯籠で、つくばいの鉢明りとして使用する。
4角形の火袋を持つ活込み型である。その為、高さの調節が可能である。
竿にはマリア像が描かれているのが特徴。露地で使用される。
その他の種類  三月堂・奥ノ院・双獅子・清滝堂・泰平・平等院・濡鷺・西ノ屋・柚ノ木・善導寺・善導寺なつめ型・
泉涌寺・蘭渓・当麻・六角・勧修寺・寸松庵・蛍型・高麗・小屋棒・道標・角露地・鰐口・キリシタン


I 金毘羅大権現の流行について       -- トップベージに戻る --

金毘羅大権現がいつ頃から隆盛になったかについては、寛永19年(1642)高松藩主となった松平頼重の庇護が大きかったというのが通説のようです。松平頼重寄進の石燈籠などがその萌芽となったのではないかと思われます。歴代の高松藩主の庇護も大きかったようです。
全国的に見ると、延宝7年(1679)に建立された「虎ノ門の金毘羅さん」を契機としているようです。
その前、万治3年(1660)には丸亀城主京極高和が江戸三田の藩邸に金毘羅大権現を勧請、大坂で金毘羅屋敷を造営した記録が見えます。万治年間には日比常真が「象頭山十二景色図」を描いています。
「虎ノ門の金毘羅さん」以後、京極四家の江戸屋敷にもそれぞれ金毘羅大権現を勧請、その後霊験あらたかな神として各地に建立されました。その殆んどが讃岐の金毘羅さんの勧請を受けずに建立されたようです。
享保6年(1721)谷中の贋開帳を手始めに各地で贋開帳が相次ぎ、困った本家讃岐の金毘羅さんが遂に桃園天皇より「日本一社」の綸旨を受けたのが宝暦10年(1760)です。この頃には各地に金毘羅大権現を称する神社、仏閣があった事が分かります。天保年間(1830〜1844)には江戸市中には100社を数えたという記録 もあります。「日本一社」の綸旨にも拘らず、その後も贋開帳は続き、阿波箸蔵寺などは、天保6年(1835)、弘化元年(1844)、嘉永4年(1851)と三度も本家讃岐の金毘羅さんより贋開帳を咎められています。
ただし、こうした贋開帳が各地で行われた事もまた金毘羅大権現の流行、隆盛に寄与した事にもなったと考えられます。

象頭山十二景色図(部分) 桃園天皇よりの綸旨

勤皇の志士の魁とも言える清河八郎の紀行文「西遊草」は安政2年(1855)の記録ですが、その中に注目すべき記述があります。岩波文庫に記載された箇所を転載します。

殊に金毘羅は数十年已来いらいより天下のもの信崇しんすうせぬものもなく、 伊勢同様に遠国よりあつまり・・・・。数十年前までは極別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦けんかいするものならん。 いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして、浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

清河八郎(1830〜1863)は山形県庄内地方に生まれた幕末の尊攘派の志士です。18歳で江戸に出て、全国を行脚しました。この時も金毘羅に来ています。安政2年(1855)25歳の時、母親と同行して二度目の旅に出ます。「西遊草」はその時の旅日記です。  参考文献 岩波文庫 1993年発行 校訂者:小山松勝一郎
「数十年已来より」とか、「近頃追々ひらけたる」とは、清河八郎の言葉ですが、言葉通りの意味で言うと、文化文政天保と続く、所謂化政時代に盛んになったと解釈する事が出来そうです。 この記述が正確なら、金毘羅大権現の流行はこの時代からだったとも言えます。


J 金毘羅大権現と四国霊場八十八ヶ所巡りについて       -- トップベージに戻る --

四国遍路の成立と、現在の四国八十八ヶ所遍路巡礼の成立については、ここでは詳細を省きますので下記のURLを参考として下さい。ここでは金毘羅大権現と四国遍路との関係について考察します。

研究ノート−黒岩政経研究所
四国遍路の歴史

上記のデータから、四国霊場八十八ヶ所の確立・定着には宗教的権威の側からの仕掛けがあり、宗教者の論理が濃厚に反映されていることが明らかです。その仕掛けに乗せられた大衆が信仰という名前のもとに旅をし、各地の名勝旧蹟巡りの観光への興味も伴っていたというのが現実的だと考えられます。弘法大師ゆかりの地だけでなく、もっと素朴で大らかな日本人の土着的信仰もその要因であったと考えられます。

江戸時代を通じて多数発行された八十八ヵ所巡りの案内書の類には、讃岐では「屋島の古戦場」と「金毘羅」の二つが主として紹介されています。「屋島の古戦場」は屋島寺(84番)から八栗寺(85番)への道中にあり、壇ノ浦の戦いなどで知られる「屋島」が当時の大きな観光資源であったことが窺えます。一方「金毘羅」は善通寺(75番)から南へ続く真言宗の信仰の道ではありましたが、次の札所に続く道中ではなかった点で注目されます。

貞享4年(1687)高野聖とも伝えられている真念の執筆で刊行された「四国偏路道指南」は案内書としては一番古く、後々まで原本として尊重された書物ですが、その中にも八十八ヵ寺と並んで「屋島の古戦場」と「金毘羅」の二つが紹介されています。75番善通寺の項の最後に

金毘羅へ回るときは、ここで荷物を置いて行く。一里半。

と書かれてあります。

2年後の元禄2年(1689)刊行の「四国偏礼霊場記」においても真念がかかわり、金毘羅権現は他の八十八ヵ所の寺と同列に扱って、境内の絵図2頁を載せて下記の通りに説明されています。

金毘羅は巡礼の数にあらずといへども、当州の壮観、名望の霊区なれば、遍礼の人、当山に往詣せずといふ事なし。故に今の載る所也。

大淀三千風(1639〜1707)は天和三年(1683)から元禄2年(1689)まで国々を歴遊し、「行脚文集」を著していますが、四国の旅は貞享2年(1685)6月から3ヶ月を要し、「四国一周記」として纏められています。丸亀に上陸、東回りで阿波、土佐、伊予から再び讃岐に入り、観音寺から西讃方面、そして善通寺と来て、金毘羅を最終地点として丸亀から帰国しています。この中には現在言われる寺と若干の相違はあるものの、四国八十八ヵ寺がすべて含まれています。金毘羅では寛文11年(1671)作の「象頭山十二景図」を金光院で見た事が「不二の詞」として詳細に記されています。

瑞験冨景の地いずくはあれど讃岐象頭の神嶺にしくはあらず。・・・中略・・・
西は桜陣の・・・、竹囲のひびきは秋を・・・、前池裏谷の魚鹿は・・・、群嶺幽軒の松梅は・・・、雲林の夕鐘は・・・、石渕箸洗の泉は・・・、後略。

宝暦13年(1763)には細田周英による『四国偏礼絵図』が刊行され、これらの絵図も案内書と相まって、遍路へと人々を誘ったであろう事が明らかです。細田周英による『四国偏礼絵図』は高野山の前寺務弘範の密教的意味づけを特徴とした絵図であり、高野山の権威を利用して、つまりそのお墨付きを得て、ここに現在の形での四国霊場八十八ヶ所が確立したと言えそうです。



遍路を行った人数は、18世紀後半から増加し、19世紀前半にとくに多くなっています。また、近世を代表する遠隔参詣だった伊勢参りなどと比べると、個人参拝や女性、病人、困窮民の多さが特徴であり、出身地は、四国や近畿、山陽を中心とし、東日本や九州は少なかったようです。

時代は明治となり、四国遍路は一時期の低迷期を迎えました。その原因として、まず神仏分離政策が挙げられます。札所には神仏習合色が濃厚な寺院が少なくないため、大きな影響を蒙りました。金毘羅権現は廃仏毀釈で金刀比羅宮となりました。
寺院である四国八十八ヵ所には別格としても加わる事は出来ませんが、現在も金刀比羅宮に詣でるお遍路さんの姿をよく見る事が出来ます。「癒し」や自分探しの旅としての四国遍路の人気は、「同行二人」とは言いながら、日本人の持つ土着的信仰心がその基礎にあるように思われます。休憩所が作られ、自動車道が整備され、遍路道としてのインフラ整備が整った今、徒歩による遍路も人気を集めています。バスによる団体遍路も盛んです。益々盛んになる事を望んでいます。

参考文献 1. 上記URL 研究ノート−黒岩政経研究所
                 四国遍路の歴史
       2. 大淀三千風の四国周遊と「不二の詞」 近石泰秋 「ことひら」昭和45年新春号



K こんぴらさんと播磨屋橋-- トップベージに戻る --

日本三大がっかり名所を知っていますか? まず札幌の時計台、そして高知の播磨屋橋、三つ目は諸説ありますが、沖縄が本土復帰してからは守礼門を三つ目としてリストに載せる人が多いようです。
いずれにせよ、札幌の時計台と高知の播磨屋橋は常にリストに入っています。有名な割に小さいのがその理由なのは明白です。 時計台はともかく、播磨屋橋が小さいには訳があります。そもそも播磨屋橋が有名になったのはペギー葉山の「南国土佐を後にして」のヒットからで、「土佐の高知の播磨屋橋で、坊さん簪買うを見た・・・」 土佐の高知で小間物屋を営んでいたのが播磨屋で、お店と倉庫を繋ぐ私製の橋だから小さいのです。誰に責任がある訳ではありませんが、やはりがっかり名所の一つとして選ばれるに相応しいかな・・・。
その播磨屋橋とこんぴらさんには少なからぬ因縁があります。
安政2年(1855)播磨屋で簪を買ったお坊さんは純真さんと言います。四国霊場第三十一番札所五台山竹林寺の脇寺南の坊妙高寺の僧であった純真は当時35歳です。
簪を贈られた相手はお馬さんと言います。五台山村の絶海という所の鋳物屋の娘で当時17歳です。
随分歳の離れたカップルです。相思相愛の仲となりましたが、お馬があまりにも美しかったので世間の反感を買い、遂に駆け落ちする事態となりました。土佐の高知から阿讃山脈を越えて川之江へ、そして伊予・土佐街道を通って目指したのはこんぴらさんです。こんぴらでは高知屋という旅籠に泊まりましたが、この高知屋は一の鳥居のすぐ上にあった旅籠です。何日か滞在したようですが、二人はこの高知屋で土佐藩から来たお役人に捕縛され、連れ戻されてしまいました。お白洲での取調べの結果土佐山田町広小路で三日間の生曝いきざらし の刑、その後所祓ところばらいという事になり、純真は安芸へ、お馬は須崎へ追放され、二度と会う事はありませんでした。
純真はその後めおと石亀吉の世話で川之江で寺子屋を開き、お馬に会いたいと手紙を出したりしましたが、慶応3年(1867)48歳でなくなりました。寺子屋の跡は純真堂と呼ばれ、街道沿いに残っています。


お馬のその後は知られておりませんが、恋愛無限なるの情は世間に受け入れられ、二人の相合傘の人形が作られて好評だったと伝わっています。
二人の罪状は駆け落ちの途中北山通という関所を忍び抜けた関所破りの罪です。駆け落ちですので通行手形がなかったのは仕方のない事です。


文責:三水会:橘 正範

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