宇多津街道詳説

始めに

こんぴら街道は五街道と言われますが、その五街道に劣らず繁栄した街道がありました。それが宇多津街道です。 ただ違っているのは、宇多津街道は途中で丸亀街道や高松街道に合流するため、金毘羅の町にその到着点を持っていなかった事だけです。有為変転の歴史の中で宇多津街道は忘れ去られようとしています。昔の港の姿が全くその姿を留めていない事が一番の要因だと思われますが、絵馬などから昔の港の位置も何とか特定できそうな状況のようですし、残った遺物は場所を替えて残っています。街道の調査は平成3年に香川県教育委員会が実施し、調査報告書として刊行されましたが、残念ながら一般人の目には中々触れられません。ここではその調査報告書を基礎に、分りやすい形で掲載したいと考えております。


1. 街道の道程

下記の表は国土地理院 1/25000の地図「丸亀」「善通寺」を使用しました。 赤線が現在考えられている宇多津街道の道程です。青の線は未確認の箇所ですが、街道として使われたと考えられる道筋です。


上陸地点は時代により変化したと考えられます。町の発展は主に北の埋立地に集中していたので、町中の道は何とか残されています。多くの史跡は移動されていますが、古い資料などから元の位置は推測出来るようです。

讃岐の港町にはどこでも「恵比寿神社」と「蛭子神社」があります。建てられた時代や使われる漢字は違うでしょうが、いずれも海辺に建てられていたものと推測できます。建立後に埋立られた土地があれば、神社は海辺から隔たった場所となってしまいます。宇多津の「蛭子神社」の位置もそのように考えられます。宇多津には、幸い江戸時代末期の絵図が残されています。絵図と言うより絵馬ですが、大原東野(1770−1840)の描いた「宇多津街道図」と 東野の弟子溝口萬年(1809−1879)の描いた「網浦眺望青山真景図」の二つです。20年の隔たりがありますが、両方共に宇多津の港から宇多津の町と神社仏閣が描かれています。「蛭子神社」の北には古浜塩田があり、塩田の先、海に面する場所に燈籠があります。船はこの燈籠を目指していたとおもわれます。

網浦眺望青山真景図(複写) 宇多津街道図(参考文献3)

享和3年(1803)の年号が刻まれた燈籠は現在「蛭子神社」に移転されております。普通は「えびす」と発音しますが、ここでは「えべす」と発音しているようです。

蛭子神社(昭和12年再建) 燈籠

絵図からは、東の大束川と西の掘割が港の役目を果たしていたようです。

スタート地点(1)−−−大束川口

大束川は直接海の潮が入ってくる川です。干満の差が大きく、川瀬が浅いので船の航行には適していないようですが、満ち潮の時には西光寺付近で下船出来たと思われます。ここで降りた乗客は川の堤沿いに南下するか、少し丸亀方面に行き、こんぴら街道に出たと思われます。大束川の上流に描かれた鳥居はいつの間にか無くなっています。

西光寺 西光寺から西の町並み

高松〜丸亀街道で大束川を渡るには西光寺横の橋しか無いようです。太鼓橋のような橋が描かれています。街道はこの橋を渡り真っ直ぐ行くと宇夫階神社です。宇夫階神社の前を通り青の山の麓を巡って道が続いています。
橋の東北には伊勢宮神社があり、文化、文政の日付が刻まれた燈籠も残っていますが、高松〜丸亀街道の物でこんぴら街道とは関係ないようです。


文化14年(1817)建立の燈籠 文政4年(1821)建立の燈籠

スタート地点(2)−−−蛭子神社南

西の掘割を入ると古浜塩田が出島の形で、堤防の役目を果たして湾の態をなしています。古浜塩田は延享元年(1744)の築造ですので、江戸時代中期にあたります。
江戸時代初期、街道が成立したと思われる時期にはまだ海辺にあった蛭子神社か、対岸の亀石権現の辺りに上陸、 町中の様々な道を通り南へ南へと進んだものと考えられます。
県教委の調査報告書では出発点を現在の扶桑興産鰍フあたりとしていますが、蛭子神社の南にあたりますので、江戸時代中期以降を街道として認識しているようです。すこし西には文久3年(1863)の日付が刻まれた道標が道端に残っています。


現在の扶桑興産鰍フあたり 文久3年の道標

現在の宇多津町役場の辺りには高松藩の米蔵があり、その西側の道を町並みに沿って南へ進みます。米蔵のあった蔵之前には鳥居と道標がありました。

蔵之前にあった鳥居と道標 現在の鳥居

この鳥居は明治8年(1875)地元の有志によって建立されました。後に見えるのは高松藩の米蔵だと思われます。年貢米以外に、讃岐三白の砂糖と綿を収納していた蔵で、ここに貯蔵された後、船で大坂に積み出されていたと思われます。昭和41年交通事情などを理由に取り壊し、昭和44年(1969)宇夫階神社内の金刀比羅宮に行く現在地に再建されました。
西柱の横には天保9年(1838)建立の道標が見えます。この道標は今市の中央児童公園に移動されています。


道標(表) 道標(裏)

水主町、本町、と歴史ある道筋を進み、高松〜丸亀街道に突き当たる辺りにと燈籠がありました。現在は少し西に移転されております。

寛政9年(1797)建立の燈籠 歴史ある道筋


スタート地点(3)−−−亀石権現辺り

もう一方の街道として考えられるのが亀石権現の辺りに上陸した人の道です。亀石権現は現在「神石神社」としての祠が残り、説明板も設置されています。口碑伝承ですが、金毘羅大権現と関係が深い顕れだと思われます。
亀石権現 亀石権現の説明板

少し南に行くと高松〜丸亀街道、そこを真っ直ぐ南下すると宇夫階神社の前に出ます。宇夫階神社も金毘羅大権現と関係が深い神社です。境内には金刀比羅宮があり、大原東野の弟子溝口萬年の描いた「網浦眺望青山真景図」の複製(前掲)が現在も掲げられています。

宇夫階神社 宇夫階神社内の金刀比羅宮

文政10年(1827)建立の燈籠

宇夫階神社の前の道が丸亀〜高松街道です。東へ進み本妙寺、郷照寺の参道口、浄泉寺、今市手前の四辻で蛭子神社方向から来た道と合流、右折してからが宇多津街道です。

本妙寺 郷照寺

聖徳院、円通寺、多聞寺の参道口、と道を進みます。整然とした町並みで古い雰囲気をよく残しています。

街道沿いの北向不動明王 街道の現況

やがて三差路プラス1の場所が「切られ地蔵」で、高松〜丸亀街道を南下した道と合流します。

合流地点1 合流地点2

合流した宇多津街道

さらに南下、田町のお旅所の三差路に出ます。宇夫階神社のお旅所で昔はもっと北にあったそうです。神社の入口に、街道にあった寛政8年(1796)建立の燈籠が一対移設されております。

田町のお旅所の三差路 寛政8年(1796)建立の燈籠


三差路を山裾へ右折するのが街道です。観音堂があり、更に進むと三宝荒神社です。ここにも一対の燈籠がありましたが、すぐ横の方に移動された一体のみが現存しています。
三宝荒神社から道なりに進み、二又を左にとり蛇行するのが街道で、オセキ大明神で左折、やがて新しい道と合流します。丸戸の交差点を渡り国道11号線も越え南下します。飯野小学校の手前で右折、左折して飯野小学校前を通って飯野山の山裾目指して南下します。つき当たりが旧宇多津駅から一里の地点で一里松と呼ばれています。池の堤の北側を進み高松自動車道を斜めに横切って土器川を目指します。 土器川近くの板屋の三差路には地蔵堂、少し進むと燈籠があります。この道にも様々な史跡が残っています。

土器川をどの地点で渡ったのかが問題です。街道が普通に使われていた時代、橋は殆んど架かっていませんでしたので、渡河しやすい地点、川の上流寄りが妥当で、報告書では垂水橋の北方がその地点として考えられています。川添えを南下したその地点には燈籠があり、現在は少し東の椋木神社に移転されております。
川には飛び石が置かれ、要所要所に木の板が設置され、旅人の便宜を図っていたと思われます。現在の土器川の水量はそれ程多くはありませんが、川止めのあった事は充分考えられます。その時にはもっと上流の祓川で高松街道と合流したように思われ、古い道がここにも残っています。

対岸には垂水の地蔵堂があります。この地蔵堂は茶堂跡と言われています。

垂水の地蔵堂 地蔵堂横の燈籠

高松街道へと続く道

垂水の茶堂から川添えを南下します。滝ノ鼻神社の神事場、大川神社を過ぎ、東高篠の交差点には道標がありました。この道標は現在交差点の反対側に移設されております。

滝ノ鼻神社の神事場 滝ノ鼻神社の燈籠

大川神社 東高篠交差点の道標

新道を少し進み右手の細い道に入ると、蛇行しながら道は続いていて、この辺りが一里松跡です。金毘羅から一里になります。

右手の細い道 一里松跡

県道満濃善通寺線を斜めに横切り、高架下には地蔵堂があります。 ここから少し進むと高松街道との合流地点です。

地蔵堂 高松街道との合流地点

丸亀街道へと続く道
垂水の茶堂から丸亀街道へと続く道が残っています。土器川の西岸を通る街道へと続く道です。堤を下り西へ歩くとその街道です。内海薬局前の道を横切る細い道です。

土器川西岸の道 内海薬局へ続く道

一度新道に出ますが、更に南西へ、田圃道のようですが、神社など目印となる物がかなり残って、街道としての雰囲気が色濃く残っています。

南西へ続く道 途中にある燈籠など

途中には雲気八幡神社、墓地などがあり、田圃の中の道を道なりに進むと丸亀街道に合流します。

途中にある雲気八幡神社 丸亀街道との合流地点の118丁石


2.  街道の成立と発展

宇多津街道の成立は江戸時代初期で、こんぴら街道の中でも一番古いと考えられます。高松藩初代藩主松平頼重の記録「英公実録」には寛永19年(1642)を始めてとし、象頭山を往復した記録が20回の多くにわたっています。そのほとんどが宇多津の港を利用していますので、この頃から街道として成立していたものと考えられます。反対に言うと、高松街道がこの頃には無かったと言う事にもなります。宇多津が古くから開かれた良港を持っていた事と、宇多津から金毘羅まではほぼ平坦な道が続き、大きな川は土器川だけですので、通行に便利であった事の二つの理由が考えられます。
街道の成立に伴い丁石や里程標も建てられたと思いますが、宇多津街道に残った一番古い丁石は寛政5年(1793)ですので、随分と時代が隔たっています。
その後天保8年(1837)宇多津から金毘羅まで1丁毎の丁木を建てた事が記録にありまが、この丁木は現在一本も発見されておりません。
つまり、宇多津街道は江戸時代初期こんぴら街道として一番に成立した後、他の街道にその地位を譲り、発展と衰退を繰り返したと思われます。高松街道の整備や宇多津港の消長が関係しているものと思われます。


3.  街道の消滅

昭和30年(1955)鉄道が高松まで延長され、宇多津にも駅が出来ました。この時が宇多津街道としての完全な消滅でした。
それ以前、明治22年(1889)には琴平、丸亀間に鉄道が開通、昭和2年(1927)には琴平、高松間の電車が開通しています。この頃からすでに宇多津街道を利用して金毘羅さんに参拝する人は殆んど無かったと思われます。宇多津街道に残った石造物で一番新しいのはまんのう町東高篠の大正12年(1923)の石標ですが、 この燈籠はこんぴら街道の参詣者用に献納された物ではないと思われます。 その前は明治8年の建立になる鳥居です。他の鳥居と比較しても時代は一番新しく、この鳥居が宇多津街道の象徴のように扱われているのは不思議な感じです。萬年の描いた「網浦眺望青山真景図」にある大束川上流の鳥居はどこに行ったのでしょうか?


参考文献
  1. 金毘羅参詣道T調査報告書 香川県教育委員会 平成3年
  2. 金毘羅街道を歩く奉建金毘羅街道鳥居(三) 真鍋新七 「こんぴら」掲載 平成2年
  3. 近世の宇多津を描いた景観図 松岡明子
 

文責:三水会:橘 正範

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