高燈籠及び附近の文物詳細

1. 高燈籠


前面の松に勢いがあった頃の絵葉書 現在の高燈籠

建築様式 寺院造、瓦葺、基礎石組、木造三階建
擬宝珠尖端までの高さ 15間1尺(27.58メートル)
石台の高さ 5間3尺(10メートル)
石台下端幅 51尺
石台上端幅 28尺
敷坪 7坪(23u)
石階 出17尺 幅6尺8寸

高燈籠の位置での海抜高度は約80メートルです。高燈籠は金毘羅宮に毎夜灯明を献ずる献灯でもあり、 一面標識灯ともなりました。火口での丸亀沖からの視度は0.4度になります。丸亀城以外に高い建物の なかった時代です。中府の鳥居から見る事が出来たと言われております。
裳裾のような優美な曲線は、木造の建築物としては異例ですが、その所為かどこから見ても優雅、 優美の建築物となっております。 明治期の琴平十二景中「灯閣鵑声」はこのあたりの杜鵑を賞でたものであり、「高閣遠灯」は秀麗な景趣 として讃えられています。
往年の大阪住吉神社の高燈籠と並び賞せられましたが、住吉の燈籠が昭和29年台風15号で傷み 除去された今日では、我が国に於いてその高さ、結構を誇っているものでは随一となりました。 もともとの設計では住吉神社の燈籠が念頭にあったようですが、高さ、規模等当初の約1.5倍になっています。 屋根の四隅には雨落しの吊金具がありましたが、台風で落下したままです。 内部は、昔の人の落書きで目のやり場に困るほどです。老朽化が進んでいるため立入禁止となっています。
香川県重要有形民俗文化財の指定を受けています。

修営等の記録
明治40年9月 工費300円をもって腰張張替えする。
昭和29年9月 台風15号にて破損の大屋根、隅棟などを修理。
昭和31年10月 工費20万円をもって腰板張替えする


 2.  高燈籠の建立碑

正面には「講外燈上断」 と、見事な文字が深く刻まれております。「講以外の人が燈籠に上る事お断り」とでも解釈できます。
右面には「引請ハ茶屋阿り多けに置屋中給仕めし毛里跡は志らん楚」 「通人堂寓 志度 東呉楼」 と、 珍しく狂歌が刻まれています。茶屋という茶屋、置屋という置屋、給仕飯盛り女ほか多くの人達の斡旋に寄ったものであるという意味です。 通人堂とは、当時のこの辺りの地名です。
左面には建立に至る時期が上に、下には地元の世話人の屋号が刻まれております。
「安政元年に発願、二年に発起、三年に地固め、四年に地築、五年に石台造作、 六年に大願成就」となります。「万延元年建立」した事が最後に刻まれています。
安政六年に大願成就した時には落成式が盛大に開催され、老若男女が完成記念の踊りと歌を歌った事が記録に残っています。
    燈籠がかりをほめよなら
    燈籠の高さが十と五間
    石垣間数が十間四方 高さが五間
    石のきざはし二十と三組
    梯子が七丁まわりてあがれば
    障子の組子が三寸角で
    金銀屏風は立派なものだよ
    せいしは田川の薬焼
    一枚かけめが一貫五百匁
    こいつは一々針金ぬいどめ
    しっくいなんどは申すに及ばず
    音にきこえし屋島に塩飽
    島々備前で由賀大坂辺から
    乗りくる船頭はあれかい
    金毘羅 高燈籠のお燈明かい
    お手を合わせて信仰に及ぶぞ
下のカタカナの「コヤフ」は高藪の事です。「松本屋、すし伊、辰巳屋」の名前があります。 「ヨコ丁」では「千とせ、吉野屋店、「内町」では「吉田屋店、八島屋台」、残念ながら、 現在名前の残っている店は一つもありません。
裏面には当時著名の旅籠、茶屋の名前が刻まれております。「櫻屋玄兵衛、児島屋新兵衛、 名代能登屋兵助、新田屋惣左衛門、元方花屋房蔵、登茂屋久右衛門、前田屋徳兵衛、 麥@軒」@の文字は「つちへん」+陀の「つくり」です。
石碑に刻まれたように万延元年(1860)に完成、慶応元年9月22日(1865)に全てが竣工し、金毘羅宮に献納されております。奉納者は讃岐の国寒川郡萬歳講(讃岐三白の一つである砂糖の製造業者) 及び千秋講(その他の地域の人達)です。所要資金は約3000両と伝わっています。その内、茶屋、置屋、給仕飯盛女など地元で調達した資金は約1300両です。燈籠に灯りを点す係りの人の人件費や油代などの運転資金も講が面倒を見ていたようです。講元は東讃の砂糖業者上野甚左衛門ですが、ここにはその名前が刻まれておりません。砂糖は讃岐三白の一つで、砂糖の海上輸送の安全と金毘羅大権現の加護を願っての発願でした。
地元での中心人物は岡田通五郎、東呉楼と号した色白ないい男で、当時この近くで揚屋を営み 大変な繁盛であったと記録に残っています。講元の上野甚左衛門は津田町、岡田東呉楼は志度町、 志度の岡の松には岡田家の墓所が残っています。
石段柱右には正面に「千秋講」、右面には當山綾九郎衛門弟子 大工 馬之助。 綾九郎衛門は金毘羅宮の宮大工で、高藪に住んでいた旭社の棟梁です。弟子の馬之助も綾の名前で、子孫は現在も琴平町に住んでいます。
石段柱左には「萬歳講」、右面には備前 石工 嘉四郎と刻まれております。



 3.  蟲 塚


(拓本は町史ことひら4巻464ページより抜粋)

    碑 文(左:原文)(右:文字の解説)  注:一部旧字は現代文字に置換しています。

蟲塚  夏雨村「印」 文字の解説
南海香火之盛以象山為最矣但山路抗捏登渉   
不便進香之客蓋病焉余不自揣繕修橋梁平治   
道路数季于今車馬往還不為無一助也因意單 最後の文字はてへん+「單」
舗之際草間壤下蠢蠢乎動喞喞乎啼者為之隕   
命恐當居多是太可憫議建小碑為招魂之域客  
晒之日観子之所為幾似兒女畏業報者何其迂  
且癡也余日否古人有痙鶴者有莽烏者當時不  
叺為非則我蟲塚之碑亦何不可之有寧取俗子   
之謗自不告為一雅擧也客黙而去遂誌其語于    
碑陰欲質之好事之家    
文政戊子孟冬 東埜原民聲撰并建雪航代撰  「撰」はごんべん

大原東野は文政2年丸亀街道修繕の発願をします。足掛け九年後の文政11年、ようやく大願成就となり、街道修復の際に犠牲となった蟲を供養する為に蟲塚を建立しました。



 4.  象頭山金毘羅大権現霊験記


(拓本は町史ことひら4巻531ページより抜粋)

    碑 文(左:原文)(右:文字の解説)  注:一部旧字は現代文字に置換しています。

象頭山金毘羅大権現霊験記碑(右二段縦書) 文字の解説
讃岐象頭山金毘羅大権現霊験甚著四方之人無不奔走帰依進香火者今諸国多金毘羅祠  
而皆非垂跡之眞也故象頭山独称日本一社而尸祝尊崇為最盛余共榊原亘甞仕某侯頗見  
信任惟是釁所自起萋斐者實為至K壬午正月縁事罹重譴禍将不測乃計脱潜往京師尋将
帰江戸而白其冤路徑矢橋有同渡者云是讃岐人道及金毘羅大権現利益廣大尤極A應亘 A雨カンムリ+弓弓弓 
素奉之處丞蒙佑因謂吾嘗欲一詣象頭山親奉香火以荅神徳者多年矣独奈世務絆身不能  
遂情願深以為憾其人日若是乎君其得小符崇奉之與親奉香火何擇但小符最難於得何則  
院主一代所出有限而求者極夥或其嚮所受之人信心不固崇奉少怠則符不安其家而他移  
焉若天假良縁遭其機會以得展轉相傳幸甚矣然是不可必惟君誠心求之或可得也自是渇  
仰小符夢寝莫忘既而帰江戸緝訪猶厳居住未便乃潜踪上総寓某寺當時天地跼蹐茄苦亦  
極猶貼神名於屋柱朝夕禮拝積誠黙祷居僅四五月急蒙恩釈皈得再住江戸其神得感應之  
速不啻影響嗣後信心愈固奉禮蓋處惟不得小符之為憾一日適過杉邨某家語次聞象頭山  
院代某阿闍梨旅寓深川永代寺與某往来甚稔乃請某作紹介徑詣阿闍梨阿闍梨一見如舊  
接極渥亘直擧胸情懇求小符而不能己々阿闍梨沈 良久日君少待焉讃岐國人高邨某  
今来住江戸某人傳之久矣頃聞某家屡不利蓋符為崇也彼若肯相授亦両家之利矣吾當為  
君圖之君夫信心勿怠亘叨謝以退其明日某突如而来授以小符且謂日某性嗜酒懶放不事  
事獲罪於小符有幾多今朝適訪阿闍梨寓聞君誠心求符故以奉贈亘不堪驚喜傾貲酬之符  
豈易得哉而今忽有母望人竝拜鼎来之賜殆是有神導之矣先是亘辱知於三縁山主震風凌  
雨毎托BC又一天也遂仕為用人大小事務莫不擔當甞為主公建議有所計畫以圖一山永 B巾へん+并C巾へん+蒙 
遠之利己就緒矣丙戌七月忽嬰疾至十一月飲食不進危迫夕名醫束手無術亘奉小符枕頭  
扶病盥漱立願處祷謂某年六十死則死耳餘生何足惜但主公極抜之恩萬不報一今而朝露  
溘至何能瞑目幸藉神助以緩須曳任某終事則死亦心足矣神其鑒之一心祈念晝夜無懈至  
是病稍輕不数日即愈不啻病愈猶幸延餘命以得優終其事皆神之賜也嗚呼神徳廣大洋々 月→日に直しました。 
昭著無叩不應無求不得非僅夢寝通霊也於是捐貲鳩工立行祠於私第以酬神徳更募善信  
之有財力者毎年十月脩百味供於象頭山永以為例因屬余記其始未刻諸貞a以遠播四方  
又以永傳不朽惟恐余文拙陋不能奉揚神徳萬一也亘本姓多湖氏名實江戸人某善信姓名  
悉附著干石陰亦善與人同之意也云  
文政十一年戌子冬十月  

願主榊原亘は、まず金毘羅大権現の守護の小符を恵まれて冤罪を濯ぎます。その後増上寺山主の知遇を受けてその用人として仕えて仕事に励んでいましたが、やがて病魔の侵すところとなります。 しかし、それも金毘羅大権現の加護で平癒しました。そこで、金毘羅宮の例大祭に供するための百味を修めると刻まれています。
撰文は朝川鼎、書と題額は三縁山僧顕察、裏面には百味を供した善信者の名前が刻まれています。三縁山とは芝増上寺の山号です。増上寺は徳川家の菩提寺として知られていますが、高松松平藩とも深く係わっていたようです。宿坊としていたのが増上寺の中にある端蓮院という寺で、その名前が裏面の最初に書かれています。又、松平某侯と書かれているのは9代目藩主頼恕よりひろのようです。
碑は江戸で作成され、高松藩の参勤交代の船で金毘羅まで運ばれたようです。
見事な字を書いた顕察という坊さんはその後八丈島に流罪となったようです。何の罪かは分りませんが、八丈島には顕察の残した書があるそうです。
願主榊原亘は文政12年(1829)6月金毘羅に来て、碑の建立場所の打ち合わせなどを行っています。
古い絵図にもその姿が描かれていますが、その位置は丸亀街道から来て、高燈籠前の銅の鳥居の南西側です。銅の鳥居は大正元年に書院の手前に移設され、碑は明治10年頃に現在の位置に移設されたと言われております。



 5.  狛 犬

左  側  (吽) 右  側  (阿)  
高   さ 226センチ 高   さ 220センチ  
一段目正面 泉州 堺冨貴講 一段目正面 泉州 堺冨貴講  
   右面 取次 根来蔀他    右面 金毘羅大権現  
   左面 金毘羅大権現    左面 取次 根来蔀他  
二段目裏面 寛政七年卯三月日他 二段目裏面 寛政七年卯三月日 寛政七年は西暦1795年です。

狛犬は一対で献納されます。口を開けているのが「阿」、閉じているのが「吽」、両方で「阿吽の呼吸」となり、 中に邪悪な物が入り込むのを結界を張って防いでいます。台座は三段あり、二段目と三段目には講中の人々の沢山の名前が刻まれています。砂岩製ですので、読み取り難くなっています。
古い絵図にも描かれています。位置も変わっておりません。


 6.  並び燈籠

金刀比羅宮北神苑には27基の燈籠があります。近くの3基と合わせて合計30基の燈籠が民俗文化財の指定を受けています。狛犬の横に並ぶ24基の燈籠は、火袋のない物や刻まれた文字の判読が不能な物が多く、つい最近金刀比羅宮によって補修されました。長榮講の名前がついた物が多く、各地の金毘羅講の名前も見受けられます。時代は幕末から明治初頭(1865〜1880)になります。


 7.  東鳥居(旧高松街道口)

総高さ  4.50メートル 中高さ  4.30メートル
総幅   3.80メートル 柱間   2.90メートル
南柱 東側 五穀豊穣  
   西側 元治元年甲子 元治元年は西暦1864年です。
北柱 東側 天下泰平  
   西側 12月吉日建  

最初は榎井六條の高松街道口にありましたので、六條鳥居と呼ばれていました。 額束、献納者氏名共ありません。大正11年(1922)の陸軍特別大演習の時の道路整備の為移転されたとか、太鼓台の通過に支障があるので移転したとか言われておりますが、詳しい理由は不明です。


 8.  南鳥居(旧多度津街道口)

総高さ  5.30メートル 中高さ  5.30メートル 
総幅   4.90メートル 柱間   3.60メートル 
右柱正面 奉寄進 願主 粟嶋廻船中    
左柱正面 天明二壬寅六月吉祥日 取次徳重徳兵衛 天明2年は西暦1782年です。
  裏面 世話人當所 中嶋屋長七    

安永10年(1781)金毘羅さんへの願上書には一の坂への建立を希望した旨がありますが、実際には多度津街道口にあたる高薮への建立となりました。完成後は場所名をとって高藪の鳥居と呼ばれていました。金毘羅街道に残る最古の鳥居です。
鳥居の下には狛犬と佐渡や越後の人達寄進の燈籠が並んでいました。江戸時代から盛んに描かれた絵図の殆んどにこの鳥居が載っています。願主の粟島は瀬戸内海三崎半島沖合の小さな島ですが、この島に住む船人達の海の活動の歴史は長く、金毘羅大権現とも深く係わっております。
昭和48年生コン車がこの鳥居に衝突し一部破損しましたが、これを契機に移転が決まりました。将来の交通量の増加などを加味しての移転です。この移転が多度津街道の終焉とも言えます。


 9.  一里塚舊址

 一里塚舊址
去此碑東北東五十四尺許有一塚植松東北東二十七尺許又有一塚
栽榎挾道東西相對是所謂古之一里塚也世稱之二本木頗有雅趣以
数琴平景勝之一至明治中世惜哉二樹枯衰両塚亦倒壊大正十一年
當縣道貫此地終廃而失其跡今茲憂遺蹟堙滅便建碑刻其梗概以傳  
之後人云爾
昭和十年五月 金刀比羅宮社務所

街道には一里毎に一里塚がありました。この場所の近くにも一里塚があり松と榎が植わっていましたが、明治中頃にその木が枯れ、塚も倒壊しました。 「二本木」と賞された琴平景勝の一つで、その景勝地を記念するため金刀比羅宮が建てました。


10.  丸亀街道の起点石

正面 従是丸亀江百五拾町
右面 奉献道案内立石
左面 京大坂 仲間中/油屋清右衛門 他五名
裏面 明和四丁亥歳九月吉日

丸亀市中府町には、対になる石碑があります。正面が「従是金毘羅町口江百五拾町」と刻まれています。
明和4年は西暦1767年です。丸亀街道の石造物で年代が特定出来る一番古いのは、丸亀の町中にある常夜燈で明和元年です。この一対の起点石は二番目に古い石造物です。丸亀市中府町から金毘羅町口まで150町、町は丁と同じ意味で約80メートルの距離を表します。150町で1200メートル、12キロメートルという事です。街道には一丁毎に石があり、丁石と呼ばれ、旅人の目安でした。50丁で一里が丸亀街道の単位です。


10.  多度津街道の起点石ほか二点

正面 従是多度津江百五拾丁
右面 奉献道案内立石
左面 京大坂 仲間中/油屋清右衛門より 他五名
裏面 明和四年九月吉辰

平成24年3月30日、善通寺市の楠木寺に40年間保管されていた多度津街道の起点石が琴平に返還されました。楠木寺の歴代住職と檀家の方々のご好意によるものです。深く感謝します。元々は高藪の鳥居の近くにあったと推察されますが、返還に伴いこの場所が選ばれました。丸亀街道の起点石とほぼ同様の作りで、実寸は高さ120cm幅25cm奥行き25cmです。

多度津街道の起点石と同時に楠木寺に保管されていた道標と橋の欄干が返還されました。橋の欄干は大麻の原御堂の近くにあった光石橋の小さな欄干です。道標は灸まんうどんの南にあった多度津街道とサカナ道の合流点にあったと推察されますが、実寸は高さ180cm幅36cm奥行き28cmの大きさで下記の通り刻まれています。

正面 四国第七十六番 右金倉寺かりてい社道
右面 安政七年庚申三月日
左面 那珂郡金蔵寺村 願主和泉虎之助
裏面 左向きの手印 智証大師御誕生所 こんぞうじ道 是ヨリ七十五丁


文責:三水会:橘 正範

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