
| 前面の松に勢いがあった頃の絵葉書 | 現在の高燈籠 |
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| 建築様式 | 寺院造、瓦葺、基礎石組、木造三階建 |
| 擬宝珠尖端までの高さ | 15間1尺(27.58メートル) |
| 石台の高さ | 5間3尺(10メートル) |
| 石台下端幅 | 51尺 |
| 石台上端幅 | 28尺 |
| 敷坪 | 7坪(23立米) |
| 石階 | 出17尺 幅6尺8寸 |
| 修営等の記録 | |
| 明治40年9月 | 工費300円をもって腰張張替えする。 |
| 昭和29年9月 | 台風15号にて破損の大屋根、隅棟などを修理。 |
| 昭和31年10月 | 工費20万円をもって腰板張替えする |
(拓本は町史ことひら4巻464ページより抜粋)
碑 文(左:原文)(右:文字の解説) 注:一部旧字は現代文字に置換しています。
| 蟲塚 夏雨村「印」 | 文字の解説 |
| 南海香火之盛以象山為最矣但山路抗捏登渉 | |
| 不便進香之客蓋病焉余不自揣繕修橋梁平治 | |
| 道路数季于今車馬往還不為無一助也因意單 | 最後の文字はてへん+「單」 |
| 舗之際草間壤下蠢蠢乎動喞喞乎啼者為之隕 | |
| 命恐當居多是太可憫議建小碑為招魂之域客 | |
| 晒之日観子之所為幾似兒女畏業報者何其迂 | |
| 且癡也余日否古人有痙鶴者有莽烏者當時不 | |
| 叺為非則我蟲塚之碑亦何不可之有寧取俗子 | |
| 之謗自不告為一雅擧也客黙而去遂誌其語于 | |
| 碑陰欲質之好事之家 | |
| 文政戊子孟冬 東埜原民聲撰并建雪航代撰 | 「撰」はごんべん |
大原東野は文政2年丸亀街道修繕の発願をします。足掛け九年後の文政11年、ようやく大願成就となり、街道修復の際に犠牲となった蟲を供養する為に蟲塚を建立しました。
(拓本は町史ことひら4巻531ページより抜粋)
碑 文(左:原文)(右:文字の解説) 注:一部旧字は現代文字に置換しています。
| 象頭山金毘羅大権現霊験記碑(右二段縦書) | 文字の解説 |
| 讃岐象頭山金毘羅大権現霊験甚著四方之人無不奔走帰依進香火者今諸国多金毘羅祠 | |
| 而皆非垂跡之眞也故象頭山独称日本一社而尸祝尊崇為最盛余共榊原亘甞仕某侯頗見 | |
| 信任惟是@所自起萋斐者實為至K壬午正月縁事罹重譴禍将不測乃計脱潜往京師尋将 | @ウカンムリ+西+分 |
| 帰江戸而白其冤路徑矢橋有同渡者云是讃岐人道及金毘羅大権現利益廣大尤極A應亘 | A雨カンムリ+弓弓弓 |
| 素奉之處丞蒙佑因謂吾嘗欲一詣象頭山親奉香火以荅神徳者多年矣独奈世務絆身不能 | |
| 遂情願深以為憾其人日若是乎君其得小符崇奉之與親奉香火何擇但小符最難於得何則 | |
| 院主一代所出有限而求者極夥或其嚮所受之人信心不固崇奉少怠則符不安其家而他移 | |
| 焉若天假良縁遭其機會以得展轉相傳幸甚矣然是不可必惟君誠心求之或可得也自是渇 | |
| 仰小符夢寝莫忘既而帰江戸緝訪猶厳居住未便乃潜踪上総寓某寺當時天地跼蹐茄苦亦 | |
| 極猶貼神名於屋柱朝夕禮拝積誠黙祷居僅四五月急蒙恩釈皈得再住江戸其神得感應之 | |
| 速不啻影響嗣後信心愈固奉禮蓋處惟不得小符之為憾一日適過杉邨某家語次聞象頭山 | |
| 院代某阿闍梨旅寓深川永代寺與某往来甚稔乃請某作紹介徑詣阿闍梨阿闍梨一見如舊 | |
| 接極渥亘直擧胸情懇求小符而不能己々阿闍梨沈 良久日君少待焉讃岐國人高邨某 | |
| 今来住江戸某人傳之久矣頃聞某家屡不利蓋符為崇也彼若肯相授亦両家之利矣吾當為 | |
| 君圖之君夫信心勿怠亘叨謝以退其明日某突如而来授以小符且謂日某性嗜酒懶放不事 | |
| 事獲罪於小符有幾多今朝適訪阿闍梨寓聞君誠心求符故以奉贈亘不堪驚喜傾貲酬之符 | |
| 豈易得哉而今忽有母望人竝拜鼎来之賜殆是有神導之矣先是亘辱知於三縁山主震風凌 | |
| 雨毎托BC又一天也遂仕為用人大小事務莫不擔當甞為主公建議有所計畫以圖一山永 | B巾へん+并C巾へん+蒙 |
| 遠之利己就緒矣丙戌七月忽嬰疾至十一月飲食不進危迫夕名醫束手無術亘奉小符枕頭 | |
| 扶病盥漱立願處祷謂某年六十死則死耳餘生何足惜但主公極抜之恩萬不報一今而朝露 | |
| 溘至何能瞑目幸藉神助以緩須曳任某終事則死亦心足矣神其鑒之一心祈念晝夜無懈至 | |
| 是病稍輕不数日即愈不啻病愈猶幸延餘命以得優終其事皆神之賜也嗚呼神徳廣大洋々 | 月→日に直しました。 |
| 昭著無叩不應無求不得非僅夢寝通霊也於是捐貲鳩工立行祠於私第以酬神徳更募善信 | |
| 之有財力者毎年十月脩百味供於象頭山永以為例因屬余記其始未刻諸貞a以遠播四方 | |
| 又以永傳不朽惟恐余文拙陋不能奉揚神徳萬一也亘本姓多湖氏名實江戸人某善信姓名 | |
| 悉附著干石陰亦善與人同之意也云 | |
| 文政十一年戌子冬十月 |
願主榊原亘は、まず金毘羅大権現の守護の小符を恵まれて冤罪を濯ぎます。その後増上寺山主の知遇を受けてその用人として仕えて仕事に励んでいましたが、やがて病魔の侵すところとなります。
しかし、それも金毘羅大権現の加護で平癒しました。そこで、金毘羅宮の例大祭に供するための百味を修めると刻まれています。
撰文は朝川鼎、書と題額は三縁山僧顕察、裏面には百味を供した善信者の名前が刻まれています。三縁山とは芝増上寺の山号です。増上寺は徳川家の菩提寺として知られていますが、高松松平藩とも深く係わっていたようです。宿坊としていたのが増上寺の中にある端蓮院という寺で、その名前が裏面の最初に書かれています。又、松平某侯と書かれているのは9代目藩主
碑は江戸で作成され、高松藩の参勤交代の船で金毘羅まで運ばれたようです。
見事な字を書いた顕察という坊さんはその後八丈島に流罪となったようです。何の罪かは分りませんが、八丈島には顕察の残した書があるそうです。
願主榊原亘は文政12年(1829)6月金毘羅に来て、碑の建立場所の打ち合わせなどを行っています。
古い絵図にもその姿が描かれていますが、その位置は丸亀街道から来て、高燈籠前の銅の鳥居の南西側です。銅の鳥居は大正元年に書院の手前に移設され、碑は明治10年頃に現在の位置に移設されたと言われております。
| 左 側 (吽) | 右 側 (阿) | |
| 高 さ 226センチ | 高 さ 220センチ | |
| 一段目正面 泉州 堺冨貴講 | 一段目正面 泉州 堺冨貴講 | |
| 右面 取次 根来蔀他 | 右面 金毘羅大権現 | |
| 左面 金毘羅大権現 | 左面 取次 根来蔀他 | |
| 二段目裏面 寛政七年卯三月日他 | 二段目裏面 寛政七年卯三月日 | 寛政七年は西暦1795年です。 |
狛犬は一対で献納されます。口を開けているのが「阿」、閉じているのが「吽」、両方で「阿吽の呼吸」となり、
中に邪悪な物が入り込むのを結界を張って防いでいます。台座は三段あり、二段目と三段目には講中の人々の沢山の名前が刻まれています。砂岩製ですので、読み取り難くなっています。
古い絵図にも描かれています。位置も変わっておりません。
金刀比羅宮北神苑には27基の燈籠があります。近くの3基と合わせて合計30基の燈籠が民俗文化財の指定を受けています。狛犬の横に並ぶ24基の燈籠は、火袋のない物や刻まれた文字の判読が不能な物が多く、つい最近金刀比羅宮によって補修されました。長榮講の名前がついた物が多く、各地の金毘羅講の名前も見受けられます。時代は幕末から明治初頭(1865〜1880)になります。
| 総高さ 4.50メートル | 中高さ 4.30メートル |
| 総幅 3.80メートル | 柱間 2.90メートル |
| 南柱 東側 五穀豊穣 | |
| 西側 元治元年甲子 | 元治元年は西暦1864年です。 |
| 北柱 東側 天下泰平 | |
| 西側 12月吉日建 |
最初は榎井六條の高松街道口にありましたので、六條鳥居と呼ばれていました。 額束、献納者氏名共ありません。大正11年(1922)の陸軍特別大演習の時の道路整備の為移転されたとか、太鼓台の通過に支障があるので移転したとか言われておりますが、詳しい理由は不明です。
| 総高さ 5.30メートル | 中高さ 5.30メートル |
| 総幅 4.90メートル | 柱間 3.60メートル |
| 右柱正面 奉寄進 願主 粟嶋廻船中 | |
| 左柱正面 天明二壬寅六月吉祥日 取次徳重徳兵衛 | 天明2年は西暦1782年です。 |
| 裏面 世話人當所 中嶋屋長七 |
安永10年(1781)金毘羅さんへの願上書には一の坂への建立を希望した旨がありますが、実際には多度津街道口にあたる高薮への建立となりました。完成後は場所名をとって高藪の鳥居と呼ばれていました。金毘羅街道に残る最古の鳥居です。
鳥居の下には狛犬と佐渡や越後の人達寄進の燈籠が並んでいました。江戸時代から盛んに描かれた絵図の殆んどにこの鳥居が載っています。願主の粟島は瀬戸内海三崎半島沖合の小さな島ですが、この島に住む船人達の海の活動の歴史は長く、金毘羅大権現とも深く係わっております。
昭和48年生コン車がこの鳥居に衝突し一部破損しましたが、これを契機に移転が決まりました。将来の交通量の増加などを加味しての移転です。この移転が多度津街道の終焉とも言えます。
| 一里塚舊址 |
| 去此碑東北東五十四尺許有一塚植松東北東二十七尺許又有一塚 |
| 栽榎挾道東西相對是所謂古之一里塚也世稱之二本木頗有雅趣以 |
| 数琴平景勝之一至明治中世惜哉二樹枯衰両塚亦倒壊大正十一年 |
| 當縣道貫此地終廃而失其跡今茲憂遺蹟堙滅便建碑刻其梗概以傳 |
| 之後人云爾 |
| 昭和十年五月 金刀比羅宮社務所 |
街道には一里毎に一里塚がありました。この場所の近くにも一里塚があり松と榎が植わっていましたが、明治中頃にその木が枯れ、塚も倒壊しました。
「二本木」と賞された琴平景勝の一つで、その景勝地を記念するため金刀比羅宮が建てました。
| 正面 | 従是丸亀江百五拾町 |
| 右面 | 奉献道案内 |
| 左面 | 京大坂 仲間中/油屋清右衛門 他五名 |
| 裏面 | 明和四丁亥歳九月吉日 |
丸亀市中府町には、対になる石碑があります。正面が「従是金毘羅町口江百五拾町」と刻まれています。
明和4年は西暦1767年です。丸亀街道の石造物で年代が特定出来る一番古いのは、丸亀の町中にある常夜燈で明和元年です。この一対の起点石は二番目に古い石造物です。丸亀市中府町から金毘羅町口まで150町、町は丁と同じ意味で約80メートルの距離を表します。150町で1200メートル、12キロメートルという事です。街道には一丁毎に石があり、丁石と呼ばれ、旅人の目安でした。50丁で一里が丸亀街道の単位です。