松里庵

1. 概要

松里庵は日柳燕石の子分「半助」が経営していたと伝わっております。下記の絵が当時の版木によるパンフレットです。讃州こんぴら芝居西と場所が書かれ、松里庵の文字の下には「半助」の印が押されてあります。

江戸時代末期のパンフレット

広い庭には名前の由来となった松の見事な姿が見え、室内にもその庭先にも客の姿があります。
料亭の看板は日柳燕石の文字で「松里庵」と大きく刻まれ、左には燕石の号である「柳東」と、その印が彫り込まれています。

松里庵の看板

燕石による戯作 『酒は余霞亭、月水明楼、いっそいつづけ松里庵』 を見ると燕石が愛用した料亭であった事がわかります。

昭和14年香川県の登録文化財に史蹟として指定されました。

昭和14年指定を受けた時の説明板



2. データ

日柳燕石、高杉晋作ゆかりの建物として戦前は大いに賑わいました。高杉晋作については詳しい説明を省きますが、日柳燕石について少々説明します。

文化十四年(1817)、当時の金毘羅の町の隣榎井村に生まれ、尊皇攘夷の志をいだいた草莽の人です。高杉晋作を匿った罪により高松藩の獄につながれ、出獄しては官軍に従軍、慶應4年(1868)越後柏崎の陣中に病歿、大総督仁和寺宮兵部卿より大桜定居彦の諡名を賜わりました。明治36年には従四位の勲位を贈られました。

娑婆歌の複写 読み下し文(旧字体は新字体に変更、無い字は意味の同じ文字を使用)
たとえ鉄釜てっかくむとも男子だんしちょうへんぜず。 娑婆歌しゃばうたの第一をけ。

尊王尊王又尊王そんのうそんのうまたそんのう

たとえ剣樹けんじゅえだがるとも婦人ふじん姿さず。 娑婆歌しゃばうたの第二をけ。

攘夷攘夷又攘夷じょういじょういまたじょうい

たとえ侯家こうかぞくとなるとも、帝室ていしつてきらず。 娑婆歌しゃばうたの第三をけ。

報国報国又報国ほうこくほうこくまたほうこく

日柳燕石は明治維新に功労のあった人物としては異色の存在です。殆んどの人が武家階級であり、僧侶であり、学者であった中で、燕石は吉田松陰が言う草莽の人であり、今で言うヤクザの親分としての顔も持っていました。
天領榎井、隣の金毘羅さんという地勢を最大限利用して日本中の勤皇の志士と交わり、その功績は大きかったと思われます。しかしながら中々世間には知られずにいましたが、上記娑婆歌が戦前の近衛内閣による時勢と合致してその名前が日本中に知れ渡り、伝記本や詩文が数多く出版され、映画の企画も再三再四持ち上がりました。燕石の実像を見ることなしに、この歌だけが戦前の軍国主義に利用されたとしか言いようがありません。


上記写真は昭和14年「南海遊侠伝」のロケ写真です。1枚目の後右の石垣から松里庵での現地ロケだとわかります。映画には琴平の人達も沢山動員され、「ちょうさ」のかきくらべなども行われました。

以下、松里庵に残っている資料を掲載します。

借用証文 古文書 達筆すぎて読めません

江戸時代末期の灯明台 江戸時代末期の手提金庫

江戸時代末期の文箱1 江戸時代末期の文箱2

地下へと抜ける抜け穴(写真) 地下へと抜ける抜け穴(絵)

昭和12年の写真1 昭和12年の写真2 昭和12年の写真3

燕石の生家(絵) 燕石の絵の写真



高杉晋作と日柳燕石の詩文については、「ぶらり門前町」に若干掲載しています。燕石の様々なデータは時間を見つけて掲載する予定です。

文責:三水会:橘 正範

三水会ホームページへ