三条御供田

御供田ごくうでんとは、神様に供える為の穀物を作る田圃の事です。
金毘羅大権現の御供田としては、3つの御供田が記録に残っています。
  1. 三条 寛文13年(1673) 高松藩主松平頼重より献納
  2. 川辺 享保10年(1725) 喜多次郎太夫寄進
  3. 鵜足 文政8年(1825) 高松藩主松平頼恕より献納
上記3つのうち、高松市川辺町、宇多津町の位置は不明です。一番古い三条についてのみ詳しいデータが残っています。
「金刀比羅宮史料第8巻、同20巻」には、高松藩初代藩主松平頼重より御供領、千体仏堂領、神馬領として合計50石献納された旨の記載があります。

御供田 高松太守御寄附50石
 63石
御神田は三條村にあり東西北の三おもてはなみまつにてかこめり。扨田つくるとて地をかへすに牛のくそまじりなむことをいみて、しりにふごといふものをつけり。また並松にはしめ縄引はって年おひたるかきりの女をつとひてかく。よのつねのこやしもちゆる事なし。象頭山の下草をかりてこやしにかへ用ゆ。もとより秋さくのみにしてあたしものをうゆる事なし。
雪の色を うはひて見ゆる真しらかの
おうなかうしかみとしろの小田
 青野
守糸の題 仁尾 宗徳
いろ糸や 御山の露の したたりに
名物三八餅 苗田村にあり
鐘の声 また幽かなり 春の旅
 碧松

上の図と文は「金毘羅山名所図会」に大原東野(1770−1840)が三条の御供田を描いたものです。牛の尻に「ふご」をつけている図があります。普通の堆肥を用いず象頭山の下草を肥料とした事などが書かれています。


三条御供田の位置

丸亀市三条町と善通寺市木徳町の境に三つの池があります。北から宮池、中池、伊予勢池です。宮池、中池は善通寺市木徳町に属し、伊予勢池は丸亀市三条町です。中池の東が御供田の位置です。下記の地図は国土地理院の善通寺1/25000を使用しました。ピンクで囲んだのが千体仏堂領、神馬領などの寺領で、塗り潰した箇所が御供領です。


戦後開発が進み往時の趣きはありませんが、遺物が少々残っています。平成には池の整備に伴いその遺物も位置を変えられています。下の図は上記の地図を拡大したものです。


@ 伊予勢池の西から中池の東に連なる溝があります。地元の人はこの溝を「ゴクウデン」と呼ぶそうです。御供田に水を供給するためだけの2メートル弱の水路に御供田の名前が残っていました。


A 伊予勢池の堤の上に伊予勢池を説明した石碑と並んで元々は道の南側にあった道標が二つ移設されております。


B 地蔵と立石があります。


C 平成の燈籠があります。昔もここに燈籠がありました。

D 新羅神社が改築され、付近の遺跡が集められています。


E 燈籠があります。元の位置はB1、東南の角にあったそうです。Mの位置には「山のお蔵」があったそうです。
南に抜けて広い道を右折、伊予勢池の南の細道との合流地点にはお化け燈籠が残っています。



御供田のその後

明治維新により金毘羅大権現の領地の管轄は高松藩から土佐藩、倉敷県、愛媛県、香川県などと変転しました。御供田もいつの間にか金刀比羅宮の神撰田としての地位を失ったようですが、特異な行為が記録として残っています。
旱魃の時は御供田への水が優先され、中池や宮池、東にある桝池の水でも足りない時は南1.6キロにある買田池の寸の水(池底に残る少量の水で翌年用の種籾用のみに使う)も使ったようです。昭和14年8月には買田池から御供田まで丸金の旗が立ち並ぶ光景があったそうです。
神饌田は琴平町川西など近くにあった事が記録に残っていますが、現在では象頭山の北麓に金刀比羅宮専用の神饌田が確保され、神様に供える為の米が毎年栽培されています。


参考文献

1. 「ことひら」 昭和54年掲載 「丸亀街道ごくうでんの道 讃州金毘羅三条御供田」 真鍋新七
2. 「丸亀の歴史散歩」 昭和57年発行 直井武久 

文責:三水会:橘 正範

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