琴平を訪れた歴史上の人物

まず琴平の町に残る句碑を紹介し、歌人、文人等琴平を訪れた人物と、琴平に関係する人物を紹介します。

名前と生没年(西暦表記)に続いてその内容を記載します。写真等は入手次第追加する予定です。
2008年10月句碑巡りをしました。金刀比羅宮の手入れが行き届いていました。感謝しております。


与謝蕪村よさのぶそん (1716−1784)

「象の眼の笑いかけたり山桜」  与謝蕪村、明和4年(1767)の作です。

琴平町公会堂 昭和44年建立。  

蕪村は明和3年〜5年琴平を中心として活動しました。上記の句は「落日菴句集」の中の象頭山の句21句の中の一句です。琴平には彼の俳句仲間の菅暮牛がいました。 菅一族は菅冬扇、暮牛、岱石、岱山など多くの俳人を輩出しました。一の橋麓の橋本旅館がその旧宅で、「臨川亭」の石碑が建っています。

橋本旅館前の「史蹟臨川亭址」の石碑 与謝蕪村肖像画 


上記「落日菴句集」の中には「金毘羅より高松へおもむく日」のト書きの後、次の句があります。
「火燵出てはや足もとの野川哉」
高松から出る時の有名な句は
「火燵出て早あしもとの野河哉」
です。どちらの句が先に出来たのでしょうか?

丸亀の妙法寺は蕪村寺として有名です。境内には蕪村59歳の時の句が碑として建立されており、「蘇鉄図」や「寒山拾得図」などは重要文化財に指定されています。

妙法寺本堂 「門を出れハ我も行人秋のくれ」

「三日月の牙とぎだすや象頭山」

この句も当時から著名な句で、「金毘羅参詣名所図会」に掲載されています。
日柳燕石にも「三日月の牙」に因んだ漢詩がありますので紹介します。

翠巒擁郭勢陂陀 翠巒すいらんかくようしていきおい陂陀はだ 巒・・・まるい峰。陂陀・・・けわしい坂。
溌黛嵐光帯晩霞 溌黛はったい嵐光らんこう晩霞ばんかおび 溌・・・勢いの盛んな様。黛・・・山の青々とした様。
遠望眞成象頭状 遠望えんぼうしん象頭ぞうずじょう   
人言新月似磨牙 ひとう、新月しんげつきばみがくにたり。  


小林一茶こばやしいっさ 1763−1828


「おんひらひら蝶も金比羅参哉」 寛政6年(1794)4月12日の句です。

宝物館前 昭和38年建立。  

観音寺に滞在し、伊予街道の途中詠んだとされます。日付の後に「考」、句の前には「奉納」、名前の後に「花押」があります。

一茶は信濃の生まれ。前々年寛政4年には観音寺に滞在、この年も観音寺専念寺で越年、

「元日やさらに旅宿とおもはれず」の句を残しています。

長野県信濃の一茶記念館には次の二句が残っています。

「おんひらひら金比羅道の小蝶哉」
「とぶや蝶ひらひら金毘羅大権現」


合田丁字路ごうだちょうじろ 1906−1992

「金ぴらの祭のあとの紅葉晴」 

学芸館入口 昭和41年建立。  

「ホトトギス」同人、桜屋旅館の主人で琴平の人です。四国新聞の文芸欄を長年に渡り務めました。香川県下には句碑が沢山建っています。


古帳女こちょうめ 1780−    
古帳庵こちょうあん(鈴木金兵衛) 1781−    

「天の川くるりくるりと流れけり、あたまからかふる利益りやくや寒の水」
「のしめ着たみやまの色や立つ霞、折もよし衣更して象頭山」

古帳女 天保14年建立。 古帳庵 文政13年の句?。

明治中頃には現在の旭社の下、祓戸社の辺りに芭蕉の句碑と並立して建っていました。その時は古帳庵の句が前で古帳女の句が後でした。現在は図書館の北「明野」に移されています。


北原白秋きたはらはくしゅう 1885−1942

「守れ権現夜明けよ霧よ山はいのちのみそぎ場所」

奥社道 昭和52年建立。 北原白秋の写真

白秋は福岡県柳川市の生まれ。明星派の詩人として活躍、その後「からたちの花」や「城ヶ島の雨」などの童謡、山田耕筰とのコンビによる校歌や応援歌で有名になりました。昭和10年6月5日「花壇」に宿泊、当夜の宴会は大いに賑やかだったようで、お座敷芸の「金比羅拳」を行った事が記載されています。「ととかかぼんびん」と言います。讃岐路での白秋は大歓迎を受けた様で、今のトップクラスのアイドル並みの人気だったようです。
碑は書家大家安東聖空の書をメインとして建立されました。全文は下記の通りです。

守れ権現夜明けよ霧よ
  山は男の度胸だめし
  行けよ荒くれどんどん登れ
  山はいのちのみそぎ場所
さあさ火を焚けごろりとまゝよ
  木の根枕に峯の月
  夢にゃ鈴蘭谷間の小百合
  酒の肴にゃ山鯨


吉井勇よしいいさむ 1886−1960

「金刀比羅の宮はかしこし船人が流し初穂を捧ぐるもうべ」

宝物館裏 昭和43年建立。

勇は東京芝区の生まれ。父は伯爵。与謝野鉄幹の「新詩社」を経て耽美派の歌人として活躍、晩年は土佐(昭和9年〜12年)、京都に暮らしました。

「ことひらの桜まつりにいきあひぬうれしかしこし旅人われは」

この句は土佐時代の昭和11年4月10日の句で、「花壇」に宿泊しました。地元の歌人18人が勇を中心に記念写真に納まっています。


松尾芭蕉まつおばしょう 1644−1694

「花の陰硯にかわる丸瓦」

千種台 芭蕉の句碑(表) 千種台 芭蕉の句碑(裏側)

芭蕉の句碑が金刀比羅宮境内千種丘にありますが、琴平には来ていないと思われます。裏には建立当時の俳人の句が15句刻まれています。

空に道あとこそ見えね子規東京幾雄
春浅き松の木立や象頭山松山鶯居
嗚呼ひろしはせをのかけは唐大和三ツ浜其式
時雨にはうこく日のあり象頭山当国梅園
うち返す嵐もなくて花の浪丘霞
古池にそたつ蛙や花の本梅径
花の香も世にたくひなし象頭山支樗
神垣に初日かゝやく象頭山鶴居
色かえぬ松尾の山のしけりかな一松
是かまふ神の留主とは象頭山梅里
涼しさや神風うけし袖たもと其年
琴平や下向きまむゆき年参り桃阿
仰むいて香にうつむくや花の下江甫
また山に日か暮のこりて初霞来帰
見おろせば霞を帯て讃岐富士伯州梧雄

大西一外の掃苔録には江戸時代の俳人が多く記載されていますが、芭蕉と同時代の俳人としては、木村寸木がまず挙げられます。当時の俳人が京、大坂、江戸へと連れ立って俳諧の旅に出た事が記録にあります。天保14年(1843)に丸亀の俳人菊壺茂椎が普門院において芭蕉の150回忌追善俳諧を催し、「花橘」「松尾文庫3編」を刊行しています。
多度津街道の原御堂にも芭蕉の句碑がありますので紹介します。

     
「世を旅にしろかく小田の行きもどり」 与謝蕪村の筆になる松尾芭蕉の像



上記以外に久保井信夫、 伏見一九甫、石榑千亦、谷鼎、琴陵光重、渡辺磯吉、稲畑廣太郎などの歌碑がありますが解説は省略しました。

久保井信夫の歌碑 北原白秋の描く久保井信夫の像

石榑千亦の歌碑

琴陵光重の歌碑 稲畑廣太郎の句碑(平成19年12月12日建立)

谷鼎の歌碑 伏見一九甫の句碑

以下、句碑はありませんが琴平や金刀比羅宮に関係ある句を紹介します。


正岡子規まさおかしき 1867−1902

子規の自画像

「木の緑したゝる奥の宮居哉」
「春の海鯛も金毘羅参り哉」


子規は松山の生まれ。金刀比羅宮への信仰心は窺い知れませんが明治22年作の2句が残っています。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に書かれているように、秋山真之とは友人でした。子規はホトトギスの異称です。後に「アララギ派」へと発展しました。野球の選手でもあり、野球と書いてノボールと発音しました。琴平とは全く関係ない事ですが、子規のベースボールの短歌を二首紹介します。

「久方のアメリカびとのはじめにしベースボールは見れど飽きぬかも」
「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな」



河東碧梧桐かわひがしへきごとう 1873−1937


「鳥聲に紅葉表に又裏に」

碧梧桐は松山市の生まれ。高浜虚子と同級生であり、同郷の正岡子規に学びました。昭和初期、菱谷竹山の俳句仲間で、竹山の経営する旅館「寿し駒」に宿泊、玄関の看板の字などを書きました。琴平の町の改革案が「ことひら(昭和9年号)」に載っています。ケーブルカーの設置と山上には展望台という案ですが、町議会では昭和2年に「登山電鉄ケーブル」反対決議がなされました。同じような案が終戦後昭和26年にもあり、この時は山上山下合意して予算書の提出までしましたが日の目を見る事はありませんでした。


高浜虚子たかはまきょし 1874−1959


「たまたまの紅葉祭にあいけるも」
「老禰宜も紅葉かざして祭貌」
「金刀比羅の赤き団扇や舟の中」


虚子は松山市の生まれ。「ホトトギス」を編集、発行しました。琴平に来たのは都合7回です。最初は子供の頃父に連れられての参詣、その後、大正10年、昭和3年、5年、13年、21年、24年と続きました。 昭和21年11月10日には「ホトトギス」の600号記念として琴平で俳句大会を開催しました。桜屋の主人合田丁字路は「ホトトギス」同人でもあり、虚子の定宿は桜屋でした。虚子の句碑は桜屋の玄関先にありましたが、旅館の廃業に伴い、合田丁字路の移転先である高松市岡本に移設されました。
虚子の長男は高浜年尾、孫が稲畑汀子、曾孫が稲畑廣太郎、四代続いた俳句の家系です。香川県の地方俳誌「紫苑」とも関係が深く、誌名及び表紙題字は虚子の揮毫によるものです。(注)苑の字は草カンムリ+宛、GTコード040576です。


与謝野鉄幹よさのてっかん 1873−1935


「琴平の山に飯能の山を見て今日わが聴くは大空の秋」
「琴平の町の鞘橋内くらき御堂のごとく月のさし入る」


与謝野晶子よさのあきこ 1878−1942

「船人の流し初穂の板を見よ信ずるものの放胆を見よ」
「船人の流し初穂の板を見よ信ずるものの放膽(ほうたん)を見よ」
「稲みのる秋の末なり皆黄なり讃岐の國の三段平野」
「琴平のお前の臺の燈籠をひるといへどもおもふ船行く」
「先帝の主基の讃岐の琴平の神の給ひしその主基の殿」


鉄幹は京都生まれ。「明星」を創刊、北原白秋、吉井勇、石川啄木、香川不抱などの歌人を輩出しました。
晶子は大阪堺市の生まれ。「君死にたまうことなかれ」で大町桂月と論争しました。厭戦派の歌人として知られ、生涯50000首の詩を残した女性解放論者でもありました。
金刀比羅宮には明治35年前後鉄幹と晶子の新婚旅行の時と昭和6年の2回参詣しています。


齋藤茂吉さいとうもきち 1882−1953

「筑紫より海わたりきて琴平の神のみ山に汗ふきにけり」
「金毘羅の荒ぶる神をみちのくのいとけなき吾に聞かせし母よ」
「大洋をわれ渡らむにこの神をいわひてゆかな妻もろともに」


茂吉は山形県生まれのアララギ派の歌人。精神科医としても活躍、作家北杜夫の父である事でも知られています。齋藤は養子先の苗字で、旧姓は守谷、大正10年(1921)3月参詣した時には父守谷右衛門寄進の燈籠を見たと思われます。

茂吉の父守谷右衛門寄進の燈籠 茂吉の銅像


種田山頭火たねださんとうか 1885−1940


「大門おごそか晴れきった」
「その山わがものにして稲田も家も」


山頭火は山口県生まれの自由律俳人。 四国遍路で讃岐に来たのは2回です。最初は昭和3年小豆島に尾崎放哉の墓を訪ね、二度目が昭和14年、10月16日付けの手紙を琴平の村井厳宛に出しています。


皆川淇園みながわきえん 1735−1807

弘道館址の石碑

左右櫻陣 升山歩々高 山をのぼる、歩々高く
來路櫻花陣 路を来る桜花の陣
艶甲霞間明 艶甲霞間に明らかなり
香威風裏振 香の威風裏にふるう。
後前竹圍 山上多眞氣 山上に真気多く
後前脩竹圍 後前、竹囲を修む
時訝儼僊衛 時に訝る厳仙のまもりかと
青雲擁翠微 青雲翠微を擁す。
前池躍魚 鑿沼在青幽 沼を穿ち青幽在り
濠梁自知樂 濠、簗、自ら楽しめるを知る
更多芳餌投 更に芳餌を投ずる事多ければ
於充幾鱗躍 ああ充ちてそれ鱗躍る。
裏谷遊鹿 裏谷多鹿鹿 裏谷に女鹿、男鹿多く
體閑呼幼々 体閑にしてようようと呼ぶ
由託神囿地 神の御苑の地に託す由
自異蘇臺遊 自ずから異なる蘇台の遊びと。
群嶺松雪 冬朝望群嶺 冬の朝、群嶺を望む
萬松帯雪開 萬松、雪を帯て開く
呈茲林色白 この林色、白きを呈し
坐訝近蓬莱 そぞろに訝る蓬莱峡に近しと。
幽軒梅月 幽軒延瞑色 幽軒に暗い色あまねし
蒼靄隠疎梅 青いもや、疎らな梅を隠す
還上遥峯月 また上る遥かな峯の月
傍欄香影開 欄の傍ら香影開く。
雲林洪鐘 洪鐘鳴祭誠 洪鐘、誠を祭り鳴る
常任香客撞 常に香客撞くに任せ
響雲無日夜 雲に響きて日夜無く
靈祗幾升隆 霊妙に敬い幾たびか増隆す。
石淵新浴 淵秋修禊浴 淵の秋、禊ぎ浴を修む
趣同洛水春 趣きは洛水の春と同じ
何須蘭草澤 何ぞ及ぶ蘭草の沢
自有引潮新 自ら引潮の新たあり。
箸洗清漣 箸洗紀歳時 箸洗いの歳時の始まりは
神異土俗怖 神異に土俗怖れる
一穴漾碧漣 一穴に碧い漣となってただよい
千秋長不涸 千秋長く涸れず。
橋廊複道 橋上安廊屋 橋上に廊屋を安んじ
設廂亘両垠 ひさしを設け、両端に渡す
在中何所似 中に在す、何に似るところ
舟居非水人 舟居すれば、水人に非ず。
五百長市 昔閭號五百 昔の門500と号す
今市巳盈千 今の市既に1000を孕む
比屋壥縁阪 屋をならべて店大阪に縁り
填街人摩肩 街に充ち人肩を擦る。
萬農曲流 穿渠分巨浸 溝を穿ち巨浸を分かつ
平野曲流通 平野に曲流して通り
洪澤霑殷庶 洪澤殷庶を潤し
不m占歳豊 歳の豊を占うにつたなからず。

皆川淇園は江戸時代中期の儒学者。京都に家塾を開き、門人は3,000人を超えたといいます。当時の文人の例に洩れず、絵画の腕も優れ、師匠の円山応挙とほぼ同格に扱われています。上記「象頭山十二景」は享和元年(1801)の作ですが、現在使われていない漢字は意味の同じ字に置き換えてあります。読み下し文ではありません。
絵画の円山応挙にしろ、詩文の皆川淇園にしろ、金毘羅さんの依頼を受けて制作したもので、現地には来ていないと推察されます。もし淇園が金毘羅さんに来ていれば、絵画の師匠である円山応挙の襖図を見た筈ですので、何らかの文書が残っていても当然と思われますが、何も残ってはいないようです。



以下、琴平を訪れた人物と、琴平に関係する人物を紹介します。



平賀源内ひらがげんない 1728−1780

「戯作者考補遺」より

平賀源内は讃岐志度の生まれ。江戸時代中期の奇才として今でもよく知られています。名は国倫、風来山人などと号しました。この肖像画は木村黙老(1774−1856)が、源内没65年後、本人をよく知る老人の話をもとに描いたものですが、源内のイメージ、軽妙洒脱で粋な人物像は、この肖像画によるところが大きいようです。木村黙老は高松藩の家老として藩財政を立て直した人物でもあり、後年江戸藩邸にあった際、滝沢馬琴と交友した事で有名な文人です。
象山陰きさやまかげ」という俳書に源内の句が載っています。

「囀りや花の余りを只の園」

象山とは当然象頭山の事で、大坂の俳人が金毘羅参詣に来たのを機に編纂されたもので、延享5年(1748)の刊行です。源内は20歳、俳句に凝っていた青年時代です。季山と号していました。
その後、宝暦10年(1760)にも象頭山を訪れています。源内は32歳、この時は薬草の調査が目的で、「物類品隲」にその時調査した薬草が2つ記載されています。
源内はその後すぐ高松を離れました。若き頃の源内の姿がここに残っています。


伊能忠敬いのうただたか 1745−1818


忠敬は千葉県九十九里町生まれ。商売に精を出し50歳で隠居、測量の勉強を始め、56歳の時から実際の測量に入りました。讃岐は第6次の測量で文化5年に訪問、町を挙げて対応した記録が残っています。 「大日本沿海輿地全図」は死後の完成でした。



十返舎一九じっぺんしゃいっく 1765−1831


十返舎一九は駿府の生まれ。大坂から江戸に出て蔦屋重三郎の下で「東海道中膝栗毛」を出版して好評を博しました。主人公のやじきたがすっかり有名になり、「金毘羅参詣続膝栗毛初編」にも登場します。 大坂から乗船して丸亀に上陸、金毘羅参詣をする設定になっています。大坂在中は天明8年から寛政6年の7年間と考えられるので、一九が金毘羅参詣をしたのはこの頃と考えられます。「方言修行金草鞋」、「讃岐国象頭山金毘羅詣」の作もあります。


森の石松もりのいしまつ (?−1860)

森の石松は駿河森町の生まれと言われますが、その名前の通りに特定される人物はいません。清水次郎長の養子になった人物の「東海遊侠伝」に登場しますが、作者が同じように片目であった豚松を石松と間違ったとも思われます。 広沢虎蔵の浪曲で有名になった石松の金毘羅代参は万延元年です。その前、安政6年には一家で参詣しているのが清水市の資料として残っているそうです。


二宮尊徳にのみやそんとく 1787−1856


二宮尊徳は相模国栢山村の生まれ。「報徳仕法」で知られる農政家、思想家です。「仕法」とは世直しのやり方の事です。文化7年暮、伊勢参りから足を伸ばして金毘羅さんに参詣しています。24歳の若き頃です。 江戸虎ノ門の金毘羅さんへの信仰も篤かった事が「二宮日記」に記載されています。象郷小学校の校門付近には薪を背負った銅像があります。


頼山陽らいさんよう 1780−1832


頼山陽は大坂で生まれましたが、父頼春水がすぐに広島藩の儒者に登用されたので主に広島で育ちました。彼の著書「日本外史」が社会に与えた影響は大きく、後の明治維新に繋がる事となりました。 又、神辺の菅茶山との深い交流は有名です。菅茶山の塾には讃岐の人も多く学び、数々の記録が残っています。山陽が讃岐を訪れたのは文化12年(1815)4月です。 多聞院片岡琶渓とは廉塾からの親しい仲間でした。榎井日柳家に泊まり、よしま屋では芳橘楼の名前を揮毫しています。三井雪航とのやりとりも残っていますし、丸亀の尾池松湾を訪問、高松では師茶山の親友後藤漆谷を訪問して歓待を受けた事などが知られています。 ここでは、その時の象頭山多聞院院主の片岡琶溪宛の尺牘を記載します。

其以後は御疎濶に打ち過し申し候・・・中略・・・帰京の途次西讃に舟泊まり数日、終に上陸し、平田、藤村諸子と昨夕当地日柳氏宅迄着きし候。象山は始めての義に御座候へば、何卒貴兄の御引き回しを願い申したく存じ奉り候・・・後略。敬具 4月28日 頼久太郎 片岡民部様貴下


吉田松陰よしだしょういん 1830−1859


吉田松陰は長州萩の生まれ。藩校明倫館の兵学教授を経て江戸に出ては佐久間象山の塾で学びました。その後脱藩、外国への留学を目指して失敗、幽閉されました。郷里に護送され、私塾「松下村塾」を主宰、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文など明治維新の指導者となった人物を教えました。 燕石の「楠公の詩」が「松下村塾」の愛吟歌であった事が伝えられています。松陰の師の一人森田節斉はたびたび燕石の許を訪れ、節斉から燕石の詩集が松陰に渡されたと思われます。燕石が出獄後長州を訪れた際、松陰神社の建立を招致した詩が残っています。 松陰が金毘羅に来たのは嘉永6年2月、残念ながら燕石との会合は無かったと思われます。松陰のこの時の漢詩を紹介します(原文のまま)。
海程十日舟為家
登山一日発悲歌
曽聞此邦駐警蹕
山陵寂莫今如何
神乎仏乎人争詣
娼家酒楼擅華奢
下眼鱗々千戸市
餬口惣是金比羅
下山有寺日善通
説是弘法生如何
以仏混神汝何意
名教千歳為蹉蛇
爾後名分蕩掃地
王法仏法亦同科
仏法之興皇道衰
滄溟何日廻奔波


高杉晋作たかすぎしんさく 1839−1867


高杉晋作は長州萩の生まれ。松陰主宰の「松下村塾」では、後の蛤御門の変で自刃する久坂玄瑞と並び称されました。松陰の思想を引き継ぎ奇兵隊を結成、薩長同盟にも加担しました。 金毘羅へは二度来ていますが、最初は長州から江戸への軍艦の操船訓練の航海で、燕石には会っていません。二度目、諸般の事情により金毘羅に逃れて来たのは元治元年5月、燕石やその一党の庇護を受け、榎井、金毘羅の町に潜伏しましたが、やがて幕吏の知る所となり脱出、帰国後も幕府相手の戦いで大活躍しましたが、不幸にも肺結核のため死亡しました。 金毘羅の町に居た時の数々の武勇伝や燕石との親密な交流の様子が伝わっています。晋作が燕石を詠んだ文書を掲載します。

日柳柳東愛余狂 日柳柳東くさなぎりゅうとうきょうあいす。
使余得閑居 をして閑居かんきょしむ。
終日黙座回顧旧交 終日黙座しゅうじつもくざして、旧交きゅうこう回顧かいこす。
同盟中死節義者十居八九 同盟中節義どうめいちゅうせつぎするものじゅう八九はちくり。
余偸生実不堪慨歎也 せいぬすじつ慨歎がいたんえず。
聊賦小詩弔英魂 いささ小詩しょうし英魂えいこんとむらう。

晋作が小詩を作り、その後燕石も凱歌四首を作り、また晋作が五絶を作りますが、ここでは略します。
辞世の句・・・「おもしろきこともなき世におもしろく・・・」


清河八郎きよかわはちろう 1830−1863


清河八郎は出羽国(山形県)清川村、斉藤家に生れました。桜田門外の変に影響を受け尊皇攘夷の会を旗揚げ、山岡鉄舟らと活躍しましたが、暗殺されました。八郎の創始した会の浪士組はその後袂を分かった近藤勇らの新撰組へと名を変えて京都で長州藩や土佐藩の勤皇の志士と対立する事となりました。
八郎が讃岐へ来たのは嘉永元年(1848)と安政2年の2回です。若き頃の経験を元に母を伴っての安政2年の旅は「西遊草」として書き留められ、幕末の旅行事情を知る貴重な資料として残っています。岩波文庫巻の四・五より、倉敷下村から乗船しての記録を掲載します。

5月14日
およそ金毘羅の渡海三ヶ処あり。......下村より六里にして、渡海の都合就中なかんずくよろしければ、......暮過ぎに宿に便し、乗合二拾余人ばかりあり。 おぼろ月夜にして波もたいらかに風よわく、あたかもむしろゆくがごとくなり。 ......はじめの中はにぎやしきに、次第に静まり、吾は船のうへにてすずみ、また中に入りて眠り、目をさませば舟すでに丸亀の湊にいたりぬ。......

5月15日
丸亀は讃州にて京極氏の城下なり。......殊に金毘羅渡海の港なれば、客船の往来たゆる間もなく、実ににぎわひの地なり。......舟よりただちなはやなる家にて衣類をととのへ、かつ朝食をなしぬ。......
......金毘羅参詣のもの群がりて道中にぎにぎしく、やすらひながら昼頃に金毘羅麓にいたる。
入口にかねの鳥井とりいあり。夫より石燈籠並らびあり。勿論もちろん昨年の洪水にて余程損じたるとて、いまだ全備せざりき。 金毘羅の町は賑ひいわんかたなく、市中に屋根のつきたる橋を渡し、夫より両端旅籠や軒をならべ、いづれも美事なる家ばかりなり。
空腹に及びしかば、備前やなるにて午食をいたし、荷物をあげをき、参詣する。......金毘羅山はにも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々ただただ宮の安置する処は、吾国の仙人林の如くに草木繁りあり。いと森々たるありさまなり。
市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」という額あり。是まで市家両岸につらなれり。是よりは左右石の玉垣にて、燈籠をならべ、桜をうえをきたり。
壱丁余ぼりて右のかたに本坊あり。金毘(羅)の札をいだすところにて、まもりを乞ふもの群りあり。にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
壱丁ばかりにして、左のかたわら、山にそひ、薬師堂あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫もりなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
中門あり。至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曽我部元親の賢木を以て建しものとぞ。
少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈籠並びあり。夫外そのほか土佐侯または京極侯の奉納あり。
本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎こつそにしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、さとなとせを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫く休み、ながめありぬ。 本殿の側に銅馬、其外そのほか末社多くありて、さみしからぬ境地なり。殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇しんすうせぬものもなく、伊勢同様に遠国おんごくよりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびたびしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。 数十年前まてせは極別さかんなる事もなかりきに、近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦けんかいするものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたためあり。神の縁起を委しくしらざれば、ここにしるさず。
夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、......。


河井継之助かわいつぎのすけ 1827−1868


河井継之助は越後長岡の生まれ。司馬遼太郎の小説「峠」で有名になった長岡藩の家老職です。安政6年備中松山藩の儒者山田方谷の教えを受けるために西国遊学に出かけた時の記録が「塵壺ちりつぼ」です。金毘羅の事も書かれています。 東洋文庫八「金毘羅へ詣る」より、玉島から乗船して鞆に帰るまでの紀行文を掲載します。

9月19日 晴 逗留(船中泊)
夜に入らざれば、船、出でざる故、今日は玉島を見物と覚悟を極め、逗留す。......夜五ツ(8時)頃、船に乗る。
九ツ(午前零時)時分、船出る。それ迄待遠なる事、昨日より逗留故、別して退屈に思われしなり。はや、丸亀に着く。暁七ツ(午前四時)前の由。晴故に、月星照りかがやきて、風景妙なり。十里の海上、早きには感心のものなり。 丸亀の船宿に入りけれども、出来合い飯もなき様子故、支度を直して直ちに出掛けけり。
9月廿日 晴 逗留(船中泊)
早き故、月はあれども、しかし湊の様子も分らず、城を左にして、金毘羅さして行けり。......。
金毘羅の手前五六町此方にて、日漸く出づ。新たに見る所処か、風景面白く覚ゆ。さすがの街道、路幅も広く、所々に堂ありて、茶をわかす処あり。 彼是かれこれ見物して、坂の下なる「とら屋」と云う宿へ上り、朝飯を食う。 宿の広大、普請の結構、庭の様子、宿屋には未だ見ざる処なり。賄いは至て悪しく、斯る所は人気の悪しきものなれども、面白かなざる事なり。 宿に荷物を預け、山へ参詣す。
前後しけれども、町の入口の石燈籠、江戸火消の上し物にて、両側に立てるおびただしき事なり。 かねの鳥居、これ亦大なるものなり。山へ上る。 左右の石燈籠、切石の塀などあり、混堂は銅屋根、かねの水留、其の他いずれも結構なる事なり。 それより本堂へ登り見るに、堂の立派、実に目を驚かす計りなり。紺青の画、柱の朱塗り、奇麗なる事なり。眼下に町を見る。下よりは八町計りの由、木生い茂る。大概は樫なり、中にむく(椋)の木あり、始めて見る、山の中広く、大相たいそうのものなり。 下りて宿に寄り、荷を取り、直ちに多度津へ出づ。丸亀より三里、多度津よりも三里、もっとも善通寺へ廻りけれども、中々遠く覚ゆ。
善通寺は名計りにて......夜になりて船を出す。さなぎ(佐柳)と云う島に船を掛くる。
9月廿一日 晴 此の日、蒸気船を見る
漸く明方、船を出しけり。風景妙なり。昼七ツ(午後四時)頃、鞆津とものつにつき、......。


ラフカディオ・ハーン 1850−1904

ラフカディオ・ハーンの写真

ラフカディオ・ハーンはギリシャ人。帰化して小泉八雲と名のりました。「耳なし芳一」など、日本の昔話に取材した作品の評価が高い異国趣味横溢の作家です。松江、熊本、神戸、東京と転居、東京では東京帝国大学の教授を務めました。因みに八雲の後任は夏目漱石です。 明治27年、熊本から琴平まで来ました。象頭山の桜を絶賛する手紙を西田千太郎宛に書いています。当時の琴平の町が細やかに描写され、富士見町の並び燈籠や桜の馬場が印象深く記載されていますが、本宮の記載が無い事が目を引きます。
福間直子先生の本があります。


志賀直哉しがなおや 1883−1971

志賀直哉の写真

志賀直哉は陸前石巻の生まれ。白樺派の作家で「小僧の神様」に因んで小説の神様と呼ばれた時もありました。代表作の「暗夜行路」は唯一の長編小説で、主人公時任謙作が多度津から讃岐鉄道で琴平に来て、旅館「虎屋」に宿泊したという設定で琴平の町が描かれています。 直哉が琴平に来たのは大正2年2月です。尾道から船で多度津、琴平と小説通りの道筋だったと想像できます。発表された「暗夜行路」には琴平の部分は僅か15行だけですが、草稿では340行、原稿用紙17枚もあったそうです。宝物館やそこに居た羆、お遍路さんの様子などが記載されています。


森鴎外もりおうがい 1862−1922

森鴎外の写真

森鴎外は島根県津和野町の生まれ。陸軍の医者として日清日露戦争に従軍、帰国後は作家活動が旺盛になり、その成果は「渋江抽斎」に結実しました。史実三部作「渋江抽斎」「伊澤蘭軒」「北條霞亭」には当時の讃岐人の名前が随所に見られます。鴎外が琴平に来たのは明治41年1月10日です。善通寺の第11師団の視察に訪れた時に宿泊した事が鴎外の日記には記載されています。翌年発表された小説「金毘羅」には、主人公小野博士が旅館「花壇」に滞在している様子が描かれ、興味深い金毘羅信仰が語られています。
遺言・・・「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」


宮本百合子みやもとゆりこ 1899−1951


宮本百合子は東京小石川の生まれ。旧姓は中條ユリ。プロレタリア文学運動の旗手として活躍、共産党書記長の宮本顕治と結婚して宮本百合子と改名しました。 讃岐での知人は多く、壷井栄とは同じ屋根の下に生活した記録も残っています。百合子が琴平に来たのは昭和21年9月、「虎丸旅館」に宿泊して、翌日公会堂で講演を行い、翌日には善通寺で夫の顕治と一緒になった事が記録に見えます。青空文庫で百合子の「琴平」を読む事が出来ます。 ここでは、最初の部分を掲載します。

 朝、めをさまして、もう雨戸がくられている表廊下から外を見て私はびっくりしたし、面白くもなった。私たちの泊った虎丸旅館というのは、琴平の大鳥居のほんとの根っこのところにあるのであった。 廊下から眺める向い側の軒下は、ズラリと土産ものやである。いろんなものが、とりどりにまとまりなく、土産物やらしく並べたてられている。  私たちは、ゆうべ十二時すぎに琴平駅についたとき、くたびれ果てていた。迎えに出てくれた人が、へこたれている私をからかうように、 「宿がすこし高いところなんですが」 と云った。 もうすっかり街すじは暗く、暗い街なみを圧して、もっくりとした山の黒い影が町にのしかかっていた。山裾の町というなだらかな感じはしなくて、動物的に丸いようなもっくりした山の圧迫が、額にせまって感じられた。・・・・・



吉川英治よしかわえいじ 1892−1962

吉川英治は神奈川県の生まれ。「鳴門秘帖」「宮本武蔵」などの小説家です。中国の歴史書「三国志演義」を巧みに日本語に訳した「三国志」がお勧めです。英治が琴平に来たのは昭和11年、虎屋旅館には下記の奉書が残っています。

 旅情
 童
 心
 昭和十一年如月上浣 吉川英治書

榎井村にも下記の書があります。

 身を浅く思ひ
 世を深くおもふ
 於燕石先生生地
 榎井村村役場
 丙子孟春
 吉川英治題


谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう 1886−1965


谷崎潤一郎は東京日本橋の生まれ。 「細雪」などで知られた耽美派の作家です。昭和5年桜屋旅館にふらりと現れ主人の合田丁字路が応対した様子が記録に残っています。


山下清やましたきよし 1922−1971


山下清は東京浅草の生まれ。芦屋雁之助主演の「裸の大将放浪記」で一時代を風靡した放浪の貼り絵画家で、驚異的な映像記憶力があったと思われます。実際は現地で制作する事は少なく、昭和31年12月金刀比羅宮に来た時にもその場では作っていません。軽いタッチの色紙が残されているようです。


市川鰕十郎いちかわえびじゅうろう 嘉永時代の歌舞伎役者

市川鰕十郎と小紅屋の燈籠

市川鰕十郎の名は江戸時代末期から昭和始めまで7代続いています。初代鰕十郎は7代目市川団十郎の弟子で文政10年(1827)には没、2代、3代と続いていたのが暫く途絶え、4代目となったのが燈籠の人物です。5代と刻まれていますが、歌舞伎史上では4代目になります。
天保の改革で江戸から大坂に来ていた7代目市川団十郎が上方出身の市川市十郎に鰕十郎の名を襲名させした。 屋号は小紅屋、俳名は眼玉と言い、一時市川眼玉などと名前を変えていましたが、嘉永3年に再び鰕十郎を名乗るようになりました。
金丸座で興行したのは嘉永6年(1853)10月です。燈籠の側面には「妻いと倅猿之助」と家族の名前が刻まれています。猿之助は現在の猿之助とはまったく関係がないようです。


塩原太助しおばらたすけ 1743−1816

鹽原多助と「青」の像

「青の別れ」で知られた鹽原多助は明治時代初期の落語家三遊亭圓朝の創作した架空の人物です。「鹽原多助一代記」は、明治天皇の御前で講演したのをきっかけに国語の教科書に取り上げられたり歌舞伎の題目になったりして全国的に有名になりました。
実在の塩原太助は「本所に過ぎたるもの二つあり津軽大名炭屋鹽原」と言われた程の大商人でしたが、二代目、三代目が狂い死にして五代目で身上を潰したそうです。圓朝は怪談話を得意としていましたので、二代目、三代目の狂い死にを怪談話にしようとして取材を始めたようですが、調べてゆくうちに初代塩原太助の人物の方に興味が移り、綿密な取材の結果生れたのが「鹽原多助一代記」だったという訳です。
丸亀港のシンボルとして知られる「太助燈籠」の塩原太助は残念ながら初代塩原太助ではありません。初代塩原太助が金毘羅に来たという記録も見当たりません。

新堀湛甫を必要とした丸亀の商人はその資金集めの為に江戸で講を始める事を画策しました。丸亀藩江戸留守居役の瀬山登の尽力で講は順調に始められますが、当時二代目塩原太助がこんぴら参詣に来て丸亀に一泊しました。丸亀京橋の柏屋団次宅です。柏屋団次は早速二代目塩原太助にこの話を持ちかけ、賛同を得ました。金80両です。講の推進の為江戸に登った柏屋団次が訪ねると既に二代目塩原太は死亡、三代目に代変わりしていました。三代目は二代目の意志を継ぎ80両の寄進を約束しましたが、5年間の年賦払いでした。この頃には身代が既に傾いていたのかも知れません。講は最終的に3555両余集まり、その内の約2000両で新堀湛甫が完成、3基の燈籠が港口に並立する様子が絵図でも確認できます。戦時中の金属供出で2基は失われました。

閑話休題。柏屋団次の名前は大原東野の「象頭山工程修造之記」の寄付人名簿にも掲っていますし、高燈籠斜め前の玉垣にも大きく刻まれています。彼の妻は苗田衣輪吉兵衛の娘で、大原東野の跡取りとなった大原惣助の従姉にあたります。柏屋団次の新堀湛甫計画とその資金繰りについては、丸亀街道修復に人生を費やした大原東野の陰がちらほらと見え隠れします。


円山応挙まるやまおうきょ  1733−1795

円山応挙図

応挙は丹波の国(現在の京都府亀岡市)の生まれ。江戸時代中期の代表的な画家です。裕福な農家の次男で、幼名は岩次郎、幼児の頃から絵に興味をいだき、京都四条のおもちゃ商中村勘兵衛の口ききで狩野派の石田幽汀の門に入門しました。円夏雲、仲均などの号を使っていましたが、明和3年(1766)から応挙の落款を用いるようになりました。金剛寺、大乗寺、円満院などに応挙の描いた作品が現在も残っています。
金刀比羅宮に残っているのは有名な「水呑み虎」など、全てが重要文化財に指定されています。
製作は天明7年(1787)から寛政6年(1794)までの応挙晩年にあたりますが、応挙の年表などからは応挙が金毘羅に来たとは考えられないというのが定説のようです。時の別当宥存が京都三井八郎兵衛の寄進を受けたようになっています。応挙が京都で描いた絵を金毘羅大権現が京都の御所にお撫で物を届けた帰り便で持ち帰ったと考えられます。


その他 池大雅伊藤若冲安藤広重新門辰五郎尾上菊五郎桂小五郎など、 資料が入手できれば追加したいと考えております。


文責:三水会:橘 正範

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