1.初めに

明和6年(1769)刊行の金毘羅大権現霊験記はこんびら信仰を加速度的に高めた書物として知られています。 様々な金毘羅信仰に関する解説書にも参考図書として掲載されていますが、一般の人が読めるような形では紹介されていないのが現状のようです。 ここでは、香川県立図書館にある複写本を基にして現代の人々にも分かるように紹介します。 この複写本は昭和11年に寄贈した佐伯有義氏の書き込みが少々あります。 古い熟語や仏教用語などは解説出来ないのもありますのでご容赦下さい。


2.解説など

タイトルは『金毘羅大権現霊験記 全』、目録として25項目、巻頭には『象頭山金毘羅大権現霊験記』、 讃州覚城院南月堂三等撰と記載されています。 著者の南月堂三等は「讃岐人名辞書」に次の通り記載されています。


法師は三木郡大町村に生る、名は三等、字は哲眞、号南月、父は高島氏、幼にして無量寿院に薙髪す、 常に不動明王を信じ以て世に施す、備中宝島寺寂厳の学友たり、仁尾の覚城院を中興し、広く檀越を募る、 法印博学にして仏学漢学及詩を能くす、著述多し即ち不動明王霊応記、般若心経秘鍵、蛇鱗記二巻、土仏篇上下、 絶倒集、仁尾八景詩、覚城院縁起、観音寺道中吟等あり、延享三年六月寂す、寿六十九。

記載通りだとすれば、延享3年は1746年ですので、延宝5年(1677)生まれとなります。 刊行が明和6年(1769)ですので、死後23年目の刊行という事になります。著述が多いとされるのに、この書物がその中に含まれていないのも疑問の一つです。三等の直筆は目にする事が出来ませんので、本書が誰の筆になるのかは不明ですが、生前の著述に基づいて製作された物ではないかと推察されます。筆跡を見ると、一人の筆者でない事も確実です。
尚、覚城院とは仁尾町の真中(仁尾町仁尾丁845)にある真言宗御室派の寺院で、寺号は不動護国寺、宝永年間に三等上人により現在地に移設されたと伝えられています。 鐘楼は桃山時代の様式を残し重要文化財に指定されています。境内には金毘羅神社があり、金毘羅大権現との密接な関係が伺われます。

目録は次の通りです。

第一  讃岐の國象頭山に鎮座の事

第二  金毘羅説所の事

第三  翻名ほんみょう本地ほんじの事

第四  さきの讃岐の太守急難をまぬかる事

第五  次の太守公(号源節公)擁護をこうむり給う事

第六  京極殿御屋敷類焼の時不思儀の事

第七  豫州松山の武士海上にて風難をのがるる事

第八  苗田村の住人冥罰にて死せし事

第九  高松米屋市蔵利生をこうむる事

第十  松尾山一の坂にて戸祭氏難をのがるる事

第十一 同家中高嶋貞七夢中に参詣をとどめ給う事

第十二 讃州多度津摩尼院火災をのがるる事

第十三 大坂河内屋宇兵衛風難をのがるる事

第十四 讃州積浦つむうら與吉風難をのがるる事

第十五 同國山科村某申妻病難をまぬかる事

第十六 豊後の國橋本氏の孫病難をのがるる事

第十七 筑前の國海洲比丘びく風難をまぬかる事

第十八 道景沙弥舎利を失う時再び感得の事

第十九 備中松山領矢戸村庄屋與兵衛利生をこうむる事

第二十 豫州宇摩郡瀧の宮の善女不思儀の事

第廿一 同郡三嶌村綿屋小十良不思儀の事

第廿二 同國川の江町の住人御利生の事

第廿三 同國新居にい郡の人参詣不思儀の事

第廿四 同國川の江町の住人霊瑞れいずいこうむる事

第廿五 同國今治久兵衛盗難のかねふたたびかえる事

第一から第十までを下記に記載します。第五から第十までは意訳です。第十一以降の内容については省略しますが、どうしても読みたい方はご連絡下さい。


第一  讃岐の國象頭山に鎮座の事



讃州象頭山金光院はいずれの年いずれの師開基かいきいう事を知者しるものなし。 古老のいわく往昔むかし行行者えんのぎょうじゃ此山に攀登よじのぼり持念し給う時岩窟おおいに鳴動す、 行者ぎょうじゃふしぎに思い岩の方を見るに岩窟左右に開き内より妙なる御声おんこえにて行者ぎょうじゃに告てのたまわく、 我旧天竺耆闍崛山きしゃくつせんに住して釈尊の御法ごほうを守護し奉りし、如来滅度の後此山にくだり住する事久し、 然りといへども世に知者しるものなし、汝此山を開き仏法をひろめよ、我守護をなすべし。 行者ぎょうじゃ此告をこうむりて深く信敬して岩戸に近づき礼拝らいはい恭敬して退しりぞきければ岩戸はもとのごとく閉けるとなり。 また数百年の後聖人ひじりあり、此山に来り数日持念し誓ていわく、 昔えん行者ぎょうじゃ修法の時出現したまう尊容拝ましめ給えとて七ケ日断食して丹誠をぬきんでいのりければ七日満する暁方 神容出現してのたまわく、汝丹誠をこらし祈請するゆえ示現するなり、修行しゅぎょうして天下人民を利楽すべし、となり。



第二  金毘羅説處の事


増一阿含経ぞういちあごんきょう第四にいわく提婆だいば達兜だった耆闍崛山きしゃくつせんに到り、大石だいじゃく三十ちゅう(二丈四尺)ひろさ十五ちゅう(一丈二尺)なるを世尊なげうって、是時山神さんじん 金毘羅つねに彼山に住む提婆だいば達兜だったを見て石をいだいてほとけを打つ、 即時そのとき手を伸べて接して餘處よしょく、云々。 天台のみょう文句もんぐ八之二にいわくほとけ阿耨あのう達泉だっせんまして 舎利弗しゃりほに告げていわく、我耆闍崛山きしゃくつせんに於いて経行きょうぎょう提婆だいば達多だった 高き崖に於いていしたけ三丈ひろさ丈六なるをあげってわがこうべおさえんとす、 耆闍崛山きしゃくつせんの神をへいらと名づく手をって石を接すと、云々。
法苑ほうおん珠林七十三に、興起こうき行経ぎょうきょうを引くこと上に引く所の如し、 又大宝積経だいほうしゃくきょう金毘羅天受てんしゅ記品きほんいわく爾時そのとき世尊○王舎城に入り四衆ししゅう圍繞いにょうせられて容儀ようぎ庠序しょうじょたり時に、 王舎城を護るもろもろの天薬叉やしゃ大善神王有り、金毘羅と名づく、かくの如く念をおこす、 今者如来にょらい形相ぎょうそう殊異しゅいにして世間の中に於いて最勝にしてい難く人天にんでんの受くるに堪えけり。之供養する所を我等今まさに種種の上妙じょうみょう供具くぐを以って如来にょらい奉献ぶこんべし。 この念をおこ己便おわってすなわち最勝の飲食おんじき香味こうみ具足ぐそく妙色みょうしきを成就するを以ってほとけ奉上ぶじょうす。 その時に世尊其たてまつる所をあわれみたまう故に納受のうじゅしたまう、時に金毘羅王領する所大薬又だいやしゃ衆六万八千虚空こくううちいましてことごとく随喜ずいきすと、云々。
不空三蔵所翻しょほんの金毘羅天童子経てんどうじきょういわくほとけ歓喜かんき園中えんちゅういまして もろもろ衆生しゅじょうの為に説法したまう。是時外道波旬はじゅんもろもろ悪障あくしょうを起して もろもろ衆生しゅじょうに大苦悩を受けしむその時に如来にょらいひそかに自身をして金毘羅童子とって外道諸魔を調伏ちょうぶくし、 悪世の中に於いて衆生しゅじょう饒益にょうやくしたまう、云々。



第三 翻名ほんみょう本地ほんじの事


大宝積経だいほうしゃくきょうには金毘羅天又金毘羅神王しんのう又金毘羅世羅せらいう。 大般若経には迦毘羅神かびらじんと説き、薬師経には倶毘羅神くびらじんと説き、大日経にはべいらと説く、 皆梵語ぼんご転聲てんじょう也。天台の文句にべいらいうけだし旧訳の略、 金毘羅とはここに翻して威如王いにょうおういういうこころは、このしん之威勢通力つうりき たとえば世間の王者其邦内ほうたいに於いてよく自在を得るがごとし、故に以って名とする也。 其本迹ほんじゃくを論ずるに大宝積経だいほうしゃくきょう及び童子経の説にるときはすなわち本地釈迦如来なることあきらけし。 又増一阿含ぞういちあごん及び興起行経こうきぎょうきょう等にるときはすなわち本地不動明王と言うも亦むべ也。 しかも其じつに約するときはすなわち同一法身ほつしんなるが故に釈迦すなわち 不動々々すなわち釈迦にしてしかも不二ふに即離不謬ふみょう也。又古傳にいう、本地に顕蜜けんみつの二ぶつありと、 所謂いわゆる八幡宮天満宮等のたぐいこれ也、誠に由有哉猶ゆえあるかななお深きむね面授めんじゅあるのみ矣。



第四 さきの讃岐の太守急難をまぬかる事


さきの高松の太守(号龍雲院殿)当山権現を信仰し給いて常に御守をはなし給はず尊敬なされけるに、或時御家人某甲というもの鉄炮てっぽうの大首を作りためて御賢覧けんらんに入申度よしを願いけるに願の通御許容あり、日を定め香西の浜にて御上覧あるべし用意せよと仰出されけり。さて日限至れば鉄炮の作者は支度調えて御先へ参り香西の浜に台をすえ、おきの方へ玉を放つべき用意しけり。 それより十四五間程右のかたに御仮屋をこしらへ御幕など引回し御上覧ありけり。仰出さるるは沖の方へうてとありければおそれいり候とて鉄炮を台にのせ火口を切てはなてば海上二町ばかり大火となって見えければ太守御悦喜えっきまじくて今一つ放つべしと仰られける。 おそれいりてひと玉を込、既に火を放たんとせし時黄衣おうえちゃく鬚髪ひんぱつ雪のごとくなる老翁の来り給いて太守公の御肩をって引立二十間あまり外へ連去つれさりける。太守は夢のごとく思召けり候。次に並居ける人々も是をしらず。其時彼鉄炮をはなしければ即時に筒破れて火は守公の仮屋へ飛きたりけり。人々周章あわてさわぎ御仮屋にかけつき見るに御座の毛盤など皆やけけり。太守は二十間ばかり外より召れければ皆々走り付御容体ようだいなにと伺いけるに更に別条なしと仰せられければ各よろこび初の小屋へ入給いて、ややありて仰けるは 扨々さてさて不思儀の事なり。先に鉄炮の筒裂けんとする時に黄衣おうえを着たる老翁来たりたまい身共を引立のけけるをゆめのごとく覚えしが打仰うちあおのき見ければかき消ように失給えり。是ひとえに権現の冥護みょうごなること 心肝に銘じけるとて其後ますます信敬おこたらず蔵経等御寄附種々さたさたなし給いける。また度々加護をこうむらせ給う事多かりしとなり。

* さきの高松の太守・・・初代高松藩主松平頼重(1622―1695)
* 黄衣おうえ・・・黄色はもと天子の服の色、転じて道士、僧侶の衣服、 神官の衣装。



第五  次の太守公(号源節公)擁護をこうむり給う事


太守が江戸たつの口の屋敷に居た時、遥か先の町で火災が起こった。朝のうちはそれほど大火に成るようではなかったが、風が強く、次第に大火となって隣の屋敷まで火が来てしまった。近習の衆が目黒屋敷へ移るように勧め駕籠を用意したが、その時御殿の上を見ると、白装束を着た眞人しんじん金幣きんぺいをもって火を防いでいたが、門の前に出るとその眞人しんじんは掻き消すようにいなくなっていた。この事を太守公に申上げれば、偏に神威の冥助なりと敬信益々となりました。

* 次の太守公・・・高松藩第二代松平頼常(1652―1704)



第六  京極殿御屋敷類焼の時不思儀の事


京極殿は大権現と弘法大師を深く信仰していましたので、江戸愛宕下の御屋敷は八十年来火災にあう事を逃れてきたが、ある時近所より大火がおこり類焼に遇ってしまった。その時他の屋敷から見ていた人が言うには、人々が消しにかかっていた時老眞人しんじん黄衣おうえを着た老僧の二人が燃えさかる炎を打払いながら暫く防いでいたが、天運つきて焼亡してしまった。或人が言うには、老僧と見えたのは弘法大師で眞人しんじんと見えたのは大権現であった。

* 眞人しんじん・・・真理を悟った人



第七  豫州松山の武士海上にて風難をのがるる事


松山の侍何甲という人、家来四五人をつれて上方に登る時、讃岐の沖で俄に大風が吹き、大波が船を漂わして前後に他の船が見えなくなってしまった。余りに強い波風なので、船頭も水夫も最早命も危ういという時、かの武士懐中より大権現の御守を取り出し、心中深く礼誓し、今般の難を救い給え、寸志を奉ると、年来秘蔵の脇指を海中に投げ入れれば、不思議な事にほどなく波風静まり、船中の人々有難い擁護だと感涙を流し悦んだ。やがて宇多津に着き、まず御礼参りしようと神酒等を用意して侍を初めとして参詣した。拝殿で皆は蘇生した心地がして、有難さが心肝にしみて、礼拝合掌がやむ事なかった。かの武士が拝殿の中を見ると海中に奉った脇指が神前に歴然としてあり、余りにも有難く、感涙を流し、身の毛もよだつばかりであった。是より益々信仰厚く数度の参詣を怠る事はなかった。



第八  苗田村の住人冥罰にて死せし事


享保初めの頃、十月の祭会の芝居に亀屋四郎次郎という歌舞伎の座元が評判となっていたが、十日の昼、木戸で苗田村の者に横道おうどうの働きがあり、山の係が来て修めた。ところが、夜の部が近づいて苗田村の者共が昼の遺恨を晴らさんと、二十人余りが白浴衣に鉢巻、もとどりに合図の白い紙をつけ、刀を抜いて討ち入ってきた。ところが、刀のつかの部分が落とそうとした看板にひっかかり、無理やり引っ張ると、後に居た頭取に刀が突き徹り死んでしまった。悪党共はその死骸を戸板にのせて早々と帰っていったので役者の者共は悦んだ。或人が言った事だが、彼等が来る少し前に本社の上に黒雲が飛出て、芝居小屋の上へ流れてきた。悪党共が狼藉中は小屋を取包むように見えたが、頭取が突き殺されると黒雲は山の方へ飛び去ってしまった。かの四郎次郎は平生金毘羅さんを深く信敬していたので難を遁れたので、偏に大権現の擁護である。悪党共は冥罰でたちまち死んでしまった。多門院もいつも用意してあるけれども、抜かぬ太刀の高名こうみょうと言うべきで、無難に治まったのは有難く不思議な事である。

* 横道おうどう・・・正しくない行為



第九  高松米屋市蔵利生をこうむる事


高松城下の米屋市蔵には病身の一人息子が居たが、ある日その子供が行方不明となってしまった。父母は嘆き悲しんだが、日頃から信仰している金毘羅大権現に居場所を示し給えと代参を立てた。代参の手代が拝殿のむしろを見ればその子が茫然として立っているので、手代はうれしかったが、どうして来たのかその子に委しく尋ねた。子供の言うには、昨日暮方に老翁が一人来て面白い所を見せ、授ける物があると言うので、その袖につかまるとすぐにここに来てしまった、授けられたのは手の裏深く書かれた壽福の二文字で、どこへも行くなと言われたのでこゝに居ます。手代は不思儀な事と同道して帰ったが、子供は元気で賢くなったので両親一属の者は非常に悦んだ。この委細を聞く人々は益々信仰するようになった。



第十  松尾山一の坂にて戸祭氏難をのがるる事


高松の家臣戸祭某甲という者、翌朝に金毘羅大権現に参詣するので支度するようにと家来に申付けていたが、夜半の夢に八十位の老翁が来て明日の参詣は無用だと丁寧に告げられた。まだ夜が浅かったのでもう一度寝入ったが、すぐ下人に起こされたので驚いてしまったが、しかしそのまま出立した。途中で夢の事を思い出して気疲れしたが、そのまゝ参詣して一の坂へ来た。そこへどこからか手負いの猪が表れ、あやうく見えたが身をかわし後より頭を一太刀に切落した。見ていた人々は驚きめたが、血が出て不浄となったので参詣を止めて帰ってしまった。夢の中で参詣無用と言われたのはこの様な災難を知らしめたものだ。






文責:三水会:橘 正範

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