
伊予・土佐街道詳説
1. 街道の道程
伊予・土佐街道が他の街道と一番違うのは、街道の目指す最終地点が金毘羅宮の大門であると言うところです。
他の街道は町の入口を目指しますが、伊予・土佐街道は町中を通りません。残っている丁石なども、「大門へ○里」と刻まれています。
又、高松、丸亀、多度津、宇多津の街道は、港からスタートするので道は分りやすいのですが、阿波街道と同様、
伊予・土佐街道はその出発地点がはっきりしません。阿波は現在の徳島県です。伊予は愛媛県、土佐は高知県、
伊予・土佐街道はその二県を一緒に考えているようです。ここでは、香川県内のみの記述です。
他県の道程や諸々の事物については、地元の熱心な研究者の手に委ねたいと思っておりますので、ご了承下さい。
現在の愛媛県四国中央市は、伊予・土佐街道の合流地点でありました。川之江から讃岐へは、
徒歩では余木崎から燧灘に沿った海岸沿いの道を歩いて豊浜の箕浦に入ります。余木崎からは船便もあり、
それは箕浦の少し先の和田浜まで通じていました。箕浦から和田浜まではほんの少しの距離です。箕浦、和田浜から豊浜の町へ入ります。
本町東側の薬師堂から、そのまま北へ進めば観音寺から仁尾へ抜ける観音寺道、東にとれば阿波へと向かうまんだら道と
金毘羅へと向かう金毘羅街道になります。大野原白坂が次の分岐点です。
北へ進めば高瀬、金蔵寺へと進む古道で、伊予見峠が開通するまでは、金毘羅参詣の人達もこのまま北へ進みました。
伊予見峠が開通してからは、東に曲がって山本から一路牛屋口を目指します。現在の国道377号線とほぼ重なっています。
下記の表は国土地理院 1/25000の地図「観音寺」「福良見」「善通寺」を使用しました。ピンクの線が旧伊予・土佐街道の道程です。
一部未確認の箇所も敢えて連続して指示しました。
2. 街道の成立
川之江は古くからの街道の要所として発達し、港の機能も持っていました。松山方面からの人達は当然この地を目指して来ます。
一方土佐方面からの人達も、急峻な四国山脈越えをしてこの地を目指して来ます。土佐藩の参勤交代の時の本陣跡地も残っています。
松山藩はおそらく三津浜辺りからの船便で江戸へ向かったのではないでしょうか。
箕浦から出発して、豊浜、大野原、山本、伊予見峠、牛屋口、そして大門までの伊予・土佐街道は
伊予見峠が開通する事によって成立しました。伊予見峠が開通する前には、象頭山の裏手にあたる佐文峠という狭い厳しい道がありました。
佐文峠が開通する前は箕浦から讃岐平野の真中を通って直接金毘羅宮に到る道はありませんでした
。佐文峠は難所の一つとして知られ、開通後も本格的な道としてはあまり利用されなかったと思われます。
それでは、それ以前はどの道を利用して伊予、土佐の人達が金毘羅詣りに来ていたのか、多分往古からの南海道を
利用していたのではないかと思われます。箕浦から大野原白坂まで行き、白坂から北へ進んで高瀬、金蔵寺へと進む古道がありました。
多度津の南端の三井か、善通寺の北端の永井を通って金蔵寺に出て、金蔵寺から更に進んで、
丸亀の一里屋あたりで丸亀街道に合流したのではないかと思われます。多度津街道が整備されてからは、
永井で多度津街道に合流したとも考えられます。
古文書によって牛屋口が確認出来るのは、延享4年(1747)の「藤浪日記」が最初です。仁井田の医師土居宅吾の紀行文で、
ほぼ現在言われている街道を通過し、峠は「西口峠」として記述されています。その後、安永4年(1775)伊予の儒官
尾藤二洲の「遊象頭山記」では、峠は伊予見峠と記されています。これ以上詳しくはわかりませんが、
この頃には伊予見峠は開通していたようです。寛政年間(1789〜1801)の建立になる燈籠が街道では一番古い物です。
江戸時代中期、金毘羅詣でが盛んになる頃です。この頃が現在言われている伊予・土佐街道の成立と思われます。
3. 街道の発展
箕浦は良港として知られ、丸亀藩の番所もありました。この番所は現在高松の四国村に移設されております。
港の入口には弘化4年(1847)の元号が刻まれた金毘羅燈籠が今も残っております。
「こんぴら大門江七里」の丁石が港近くの道ふちに立っています。
| 箕浦にあった丸亀藩の番所 |
伊予と丸亀との境の石碑 |
8里17丁の石碑 |
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| 箕浦の燈籠 |
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和田浜も箕浦と並ぶ良港として知られ、讃岐三白の一つである綿の輸出港として、一時は多度津港と張り合う程の勢いでしたが、
多度津港の改修(1838年)でその勢いを失います。和田浜は高杉晋作が幕吏に追われて山口に帰った時の讃岐からの脱出港です。
高杉晋作は大門近くの料亭からこの街道をそのまま川之江まで歩き、一泊した翌日また和田浜まで戻ってここから山口へ帰ったようです。
豊浜の町は各街道の分岐点として栄えます。現在も沢山の史跡が残って今猶その面影を伝えています。
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豊浜の安永燈籠
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6里の丁石
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大野原には他の地域とは少し違った風習が残っています。金毘羅宮中興の祖と言われる別当宥山が
元禄4年(1691)入院、その実妹が大野原の庄屋平田正清(享保7年(1722)就任)に嫁いだ関係かも知れません。
平田一万石とも称された大庄屋で、周囲に長く大きな影響を及ぼします。金毘羅信仰が篤く、
祠自体が金毘羅さんと同様に看做されている地域です。燈籠の横にはお札を納める札入れの石塔や木製の箱などがあり、
他の街道沿いの町には無いものです。
山本町にも様々な史跡が残っております。
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新田町の辻
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新田町の道標
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山本町の辻と道標
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山本町の道標
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伊予見峠が開通して街道は大いに賑やかになります。 丁石や道標が整備され、常夜燈の役目をする石燈籠も沢山建立されます。
| 伊予見峠の丁石 |
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牛屋口には立派な鳥居も建ち、伊予、土佐の人々の寄進物が今も金毘羅宮の境内にも、街道沿いにも沢山残っています。
牛屋口には市が立ち、旅籠や料亭までありました。
県内に残った史跡は下記の表の通りです。(金刀比羅宮庶民信仰資料集より抜粋)
| NO |
種 類 |
所 在 地 |
建 立 年 |
彫 ら れ た 文 字 |
備 考 |
| 1 |
石燈籠 |
豊浜町箕浦 |
1847 弘化4年 |
施主 十方 |
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| 2 |
石燈籠 |
豊浜町堀切 |
1901 明治34年 |
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| 3 |
石燈籠 |
豊浜町堀切 |
1866 慶應2年 |
講中 |
自然石 |
| 4 |
札 納 |
豊浜町関谷 |
1905 明治38年 |
関谷氏子中 |
七福神社境内 |
| 5 |
石燈籠 |
豊浜町関谷 |
1879 明治12年 |
東組 |
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| 6 |
丁 石 |
豊浜町関谷 |
不明 |
金毘羅六里半 |
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| 7 |
石燈籠 |
豊浜町大平木 |
1798 寛政10年 |
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| 8 |
道 標 |
豊浜町和田浜 |
1859 安政6年 |
すぐ川口・いよ道・久わんのんじ道・ 右こんひら道・左琴弾山かはくち |
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| 9 |
丁 石 |
豊浜町和田浜 |
不明 |
こんぴら大門より六里 |
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| 10 |
石燈籠 |
豊浜町姫浜 |
1827 文政10年 |
金毘羅大権現・正八幡宮 いよ道・くわんおんじ道 |
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| 11 |
道 標 |
豊浜町姫浜 |
1875 明治8年 |
すぐ川口・いよ道・久わんのんじ道 |
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| 12 |
石燈籠 |
大野原町大鞘 |
1800 寛政12年 |
氏子中・講中・こんぴら道 金毘羅大権現・正八幡宮 |
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| 13 |
札 納 |
大野原町大鞘 |
不明 |
大鞘講中 |
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| 14 |
石燈籠 |
大野原町中姫 |
1796 寛政8年 |
金毘羅宮・三社氏宮 |
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| 15 |
札 納 |
大野原町中姫 |
不明 |
西組中・丸金のマーク |
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| 16 |
丁 石 |
大野原町中姫 |
不明 |
五里・与州松山浮穴郡南方村有志 |
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| 17 |
石燈籠 |
大野原町柏原 |
1796 寛政8年 |
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| 18 |
石燈籠 |
観音寺市常次 |
不明 |
若連中 |
自然石 |
| 19 |
石燈籠 |
観音寺市本庄 |
1814 文化11年 |
常次本庄講中 |
本庄公民館前 |
| 20 |
道 標 |
観音寺市粟井 |
1857 安政4年 |
施主森川重八、安藤善右エ門・直こんぴら道・ うんぺんじみち、まるがめみち |
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| 21 |
丁 石 |
観音寺市新田 |
不明 |
こんぴら大門より四里 |
管生神社旅所 |
| 22 |
石燈籠 |
山本町辻 |
1863 文久3年 |
世話人和泉屋平蔵他3名 |
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| 23 |
道 標 |
山本町辻 |
1864 元治元年 |
左かんおんじ道・正いよみち・ 右こんぴら、はしくら道 |
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| 24 |
丁 石 |
山本町辻 |
不明 |
こんぴら大門より三里 |
山本町役場に移転 |
| 25 |
石燈籠 |
山本町辻 |
1908 明治41年 |
山本境組一同 |
自然石 |
| 26 |
札納石碑 |
山本町辻 |
1925 大正14年 |
丸箸と丸金のマーク |
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| 27 |
石燈籠 |
山本町砂古 |
1799 寛政11年 |
金毘羅大権現、出雲大社 |
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| 28 |
石燈籠 |
山本町砂川 |
1814 文化11年 |
金毘羅大権現 |
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| 29 |
丁 石 |
山本町砂川 |
不明 |
こんぴら大門より弐里 |
砂川公民館前 |
| 30 |
丁 石 |
山本町五反地 |
弘化4年(1847) |
こんぴら大門より一里 |
伊予見峠頂上 |
| 31 |
道 標
|
仲南町佐文
|
不明
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にを・いよ
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4. 街道の消滅
他の街道と同様、鉄道網の発展とモーターリゼーションの進展により、街道は徐々にその役目を終えます。
琴平の町から放射線状に広がる道路や鉄道は、金刀比羅宮の隆昌には寄与しましたが、歩行者の為の道には
厳しい結果をもたらしました。昭和の始めには、護摩谷を抜ける新道が完成し、牛屋口の役目が完全に停止します。
これが事実上の伊予・土佐街道の消滅だと思われます。
この街道のインフラ整備は遅れ、街道沿いの金毘羅信仰にも守られ、他の街道よりはるかに多い史跡が見られるのもこの街道の特徴です。
最後に
データはまだ少しありますが、まだ見ていない史跡や歴史の裏に隠れた事物等がありますので、後日調査の上発表したいと思っております。
参考資料 1. 金刀比羅宮庶民信仰資料集
2. 香川県教育委員会 金毘羅参詣道U調査報告書
3. 町史「ことひら」全般
文責:三水会:橘 正範
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