長谷川佐太郎

1. 概説

長谷川佐太郎の写真 長谷川佐太郎の功徳碑

長谷川佐太郎は文政10年(1827)榎井の豪農の家に生まれ、幕末から明治にかけての激動の時代に生き、満濃池修復の大事業に家財を傾けて完成させた篤志家であります。一方勤皇の志士日柳燕石等と交流し、幕吏に追われた桂小五郎を自宅に匿うなど、幕末には勤皇運動にも挺身しました。
満濃池の堤に建てられた功徳碑にはその生涯が詳しく語られています。漢字かな混じり文でその内約を紹介します。旧字体は新字体に変更(國→国、盡→尽など)、無い字は別記しております。現在では使われない表現は下記に注釈をつけました。


   松坡しょうは長谷川はせがわおう功徳こうとく
                   従一位勲一等侯爵山縣有朋やまがたありとも篆額てんがく



道にこころざし徳にり仁にり芸に遊ぶとはけだし長谷川おうのことをう也。 おう名は信之のぶゆきあざな忠卿ちゅうきょうごう松坡しょうは佐太郎さたろうしょうす。 讃岐那珂郡榎井えない村の豪農なり。こういみな和信かずのぶ為光ためみつ氏也。 おうの人となり温良にして義気有り好んで人の急を救う。 つとに王室の式微しきびを憂い日柳燕石くさなぎえんせき美馬君田みまくんでん等と協力し広く天下の士と交わる。 松本謙三郎まつもとけんざぶろう藤本ふじもと津之助つのすけ久阪義助くさかぎすけ等先後して来りて事を議す。 文久3年(1863)大和やまときょあり。おうと燕石、軍資ぐんしととのまさおもむたすけんとす。 事の敗れたるを聞きて果たせず。 かつら小五郎こごろう木戸きど孝允こういん)多度津に来たる。おう之を婚家こんかき、密議夜を徹す。 高杉晋作たかすぎしんさくあとくらまし来たり投ず。 おうと燕石君田等との庇護ひごつぶさに至る。 既にして事あらわれ逮捕はなはだ急なり。晋作をしてふるい去らしむ。燕石、君田獄に下る。おうは幸いにまぬかるるをえ、ひそかに両家族を扶助す。 王政中興ちゅうこうに及びおう京都に至る。知友多くは顕職けんしょくに列し、おうに士官を勧む。おう固辞して帰る。素よりこころざしもっぱら満濃池を修むるにあり。
池は国中第一の巨浸きょしんなり。古くより木閘もっこうを施し三十歳毎に改造するをれいとなす。嘉永中(1850前後)れいを変じて雑石ぞうせきたたんでせきす。 浸漏竇しんろうとうを生じ水勢蕩蕩とうとうとして堤防を決裂けつれつせしめ盧舎ろしゃ人畜じんちく漂没ひょうぼつせしむ。数十村にわた田畴でんちゅうおおむね荒蕪こうぶに付く。 自来14年旱@かんろうしきりいたり万民せいやすんぜず。 おう慨然がいぜんとして修治を計画しAしばしば上書して切に請う。明治3年(1870)正月、工を起こすにBゆるしを得たり。高松藩松崎佐敏まつざきすけとし、倉敷県大参事島田しまだ泰夫やすおおうこころざしたすけ5たび月をけみして竣を告ぐ。単工144、996人なり。荒蕪こうぶたちまち良田と化し、黎民れいみん農に励み、五稼ごか均しくみのる。 藩侯おうの功を賞し称姓帯刀を許しかつ米若干つつみを賜う。おう撰ばれて区長となり後満濃池神野かんの神社神官となる。 27年(1894)正七位に叙せられる。
おう多年国事に尽瘁じんすい儲蓄ちょちくを傾けかつ満濃池を修めて家産を蕩尽とうじんし遂に無一物となるもまたCCくくいずくんぞ洋洋いずくんぞとして心のゆく所をほしいままにし書画を楽しみ俳句を好み敢えて得喪とくそうもって意に介せず。 尚義を聞けば即ちはしり、仁を聞けば即ち起こつ。偉なりとう可し。 28年(1895)満濃池水利組合は有功記念章をおうに贈りかつおうの為に賀宴を開く。会する者350余人、詩歌連俳しいかれんはいを寄せておうの徳をしょうする者もまたさん無し。 29年(1896)11月朝廷おうの功を賞して藍綬褒章及び金50円を賜うと云う。郷人みなじんおもい義をしたい、あいはかりて碑を建てんとして文をわれに請う。すなわじょくるにことばもってす。


大宝たいほう(700年)始めて万農池を築き、弘仁(821年)勅を奉じて空海治む。
寛永(1631年)補修してやや整うと雖も、嘉永(1850年)塁石るいせき累卵るいらんあやうし
安政(1855年)の蟻穴、千丈を破る。慶應(1865年)の旱潦かんりょう、万家飢ゆ。
松坡老叟ろうそうたもとを振って起つ。あに、国土の為に家貲かしを惜しまん。
おもいふかくしてせきいたして農は野にち、 前をけ後を善くして策わすれたる無し。
かっ亡友ぼうゆういた祠宇しういとなみ、義にはしるにDなんぞあえて嫌疑をおそれん。
富を去り貧にりて天性てんせいしたがい、忠を尽し国に報ゆる心す所なり。
臚伝ろでん顕達けんたつに遭わず、由来(長谷川佐太郎おうは)天爵てんしゃくの人であり、大宗師だいそうしなり。

明治29年(1896) 従二位勲二等子爵 品川しながわ弥二郎やじろう

                       衣笠豪谷きぬがさごうこく


篆額てんがく・・・碑の上部に篆書体でタイトルを書く事。 こう・・・亡き父。 ・・・母。荒蕪こうぶ・・・荒れ果てた様子。 累卵るいらんあやうし・・・卵を積み重ねたような危険な状態。 家貲かし・・・家財。 臚伝ろでん・・・自分の伝記が連なり並ぶことを期待する  天爵てんしゃく・・・天から授かった爵位から転じて、生まれつき備えている徳望。


@・・さんずいに勞の字、GTコード022454です。
A・・尸に婁の字、GTコード009814です。
B・・名のロの部分がレと刻まれています。GTコードは不明です。文脈から判断すると允の字だと思われます。
C・・足へんに禹の字、GTコード050346です。「くく」と続けて「一人行く様」を表しています。
D・・言へんに巨の字、GTコード047496です。

@ A B C D


   この功徳碑が建てられたのは昭和6年(1931)、揮毫されて以来35年の歳月が流れて後、ようやく陽の目を見た事になります。


2. 上記記載の人物概説

山縣有朋やまがたありとも(1838〜1922)

山口県萩市に生まれ、松下村塾に学ぶ。明治維新後は内相、首相を歴任、日清日露の戦争には司令官、参謀総長として参戦した。

松本謙三郎まつもとけんざぶろう奎堂けいどう)(1830−1863)

刈谷藩士。18歳のとき槍術稽古で左眼を失明。藤本鉄石、吉村寅太郎ら尊攘激派の志士と交わる。文久3年(1863)天皇大和行幸の詔が出たのを機に天誅組を組織して大和五条の幕府代官所を襲撃。政変によって形勢急変し、自刃した。

藤本ふじもと津之助つのすけ(1816−1863)

備前国東川原村に生まれる。幕末の尊攘派志士。和歌、漢詩に優れ、書画を能くし、とくに国典に通じていた。 文久3年(1863)の大和の挙に土佐の吉村寅太郎、三河の松本奎堂らと行動を共にする。政変によって形勢急変し戦死した。

久阪義助くさかぎすけ玄瑞げんずい)(1840−1864)

山口県萩市に生まれる。松下村塾では高杉晋作と並び称される。吉田松陰の義理の弟にあたる。蛤御門の変にて戦死。

かつら小五郎こごろう木戸きど孝允こういん)(1833〜1877)

山口県萩市に生まれる。西郷隆盛との薩長連合を締結、倒幕に大きく寄与した。明治維新後は参議となった。

高杉晋作たかすぎしんさく(1839〜1867)

山口県萩市に生まれる。松下村塾では久阪義助と並び称される。奇兵隊を組織した倒幕運動の中心人物。

日柳燕石くさなぎえんせき(1817〜1868)

榎井村旗岡の豪農の子として生まれる。幼少より学を好み、奈良松荘、三井雪航に師事、勤皇詩人として名を馳せた。高杉晋作を匿った罪で高松藩の獄舎に囚われたが、松平金岳の計らいで解放され、北越征討軍に従軍、越後柏崎にて没。

美馬君田みまくんでん(1812〜1874)

阿波重清村に生まれる。一時僧呂となるが、嘉永元年(1854)琴平の町に転居、還俗して燕石らと国事に奔走する。燕石とは常に行動を共にし、高杉晋作の件での逮捕、釈放も同じであった。獄中の病気のため上洛を果たせず、これが燕石との最後の機会となった。君田の筆による燕石の書き物も多い。

松崎佐敏まつざきすけとし(渋右衛門)(1827〜1869)

江戸小石川の高松藩邸で生まれる。高松藩尊皇派の藩士で、幕末には藩論が佐幕に傾いて入獄の憂き目にあった。その獄中では交流があった日柳燕石と密かに満濃池修築の計画を練った。満濃池は安政元年に決壊、出獄後は藩の農政長として佐太郎と共にその復旧に奔走、現地を踏査し木造底樋管に代えて、岩山を石穴で貫く画期的工法を実現させた。 明治2年9月8日高松城内桜の馬場にて、旧佐幕派集団に謀殺され43歳の生涯を閉じました。明治5年佐太郎により満濃池池畔の神野神社境内に祭られ、後に松崎神社となり、佐太郎も合祀されています。

神野神社

島田しまだ泰夫やすお

当時の倉敷県の大参事。詳細は不明です。

品川しながわ弥二郎やじろう(1843〜1900)

山口県萩市に足軽の子として生まれ、15才で松下村塾に入塾。明治維新後は政府高官となりヨーロッパ諸国に駐在、外交で活躍、またその後、内務大臣を歴任しました。また、山縣有朋の義理の甥(妻静子は有朋の姉寿子の長女)となり、陰に陽に叔父有朋の恩恵少なからずあったと言われております。


宮さん宮さん御馬の前にひらひらするのは何じゃいなトコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないかトコトンヤレトンヤレナ
一天板万乗の一天板万乗の帝王に手向かいする奴をトコトンヤレトンヤレナ
狙い外さず狙い外さずどんどん撃ち出す薩長土トコトンヤレトンヤレナ
音に聞こえし関東武士(さむらい)どっちに逃げたと問うたればトコトンヤレトンヤレナ
城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげなトコトンヤレトンヤレナ



この歌は日本で最初の「軍歌」といわれ、作詞は品川弥二郎、作曲大村益次郎という。宮さんとは、東征大総督の「有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王」を指す。大門の額の文字を書いた人物です。


3. 経歴

上記功徳碑の補足説明です。
文政10年(1827)5月、榎井の造り酒屋「新吉しんよし」の長男として生まれました。幼名は忠太郎、父は佐太郎和信、祖父は佐太郎栄信と言い、三代共佐太郎の名です。号として使用した松坡しょうはの坡は「池の堤」を表し、佐太郎の号として相応しい号と言えるようです。

当時の榎井は、池御領と呼ばれる幕府直轄地であり、満濃池の維持管理の為の年貢を供出する天領でした。佐太郎は若い頃から商家の教育を受け、酒のもととなる米を作る百姓の実状や、番頭が小作人を励ます姿などを見て育ちました。

讃岐勤皇の魁とも言える奈良松荘の門下では、日柳燕石や美馬君田、井上文郁、後藤田水などと深く交流し、勤皇の志を固めました。日柳燕石は10歳年上の同郷人であり、家屋敷を売り払っても理想を追求した燕石に対し、その信条に惹かれ、佐太郎は最後まで惜しみなく経済的支援を続けました。功徳碑に書かれている通りです。

嘉永6年(1853)、榎井の庄屋長谷川喜平次により満濃池の導水管工事が完成しますが、翌年の安政元年6月の地震により地盤が緩み、7月には堤が決壊し、農民が満濃池の水を利用することが出来なくなりました。特に慶応2年(1866)8月の大雨による洪水により農民の困窮は底を突いてしまいました。この時日柳燕石、美馬君田は 高松藩の獄中で苦吟していました。後に佐太郎と共に満濃池を修築する事になる松崎渋右衛門も獄中にあり、燕石と共に満濃池の実情を知ってその修築計画を練っております。

日柳燕石の家にも沢山の勤皇の志士が訪れますが、佐太郎の所も同様でした。特に長州との縁が深く、燕石が高杉晋作を匿った罪で捕縛された事は良く知られています。佐太郎も桂小五郎などと交流があり、呑象楼と同様なからくり部屋が 現在の丸尾本店(凱陣)には残っております。佐太郎が使っていた七畳半の居間の天井裏には縄梯子で、数人が隠れられるようになっていますし、客間の床の間にはからくりがあり通路を通って床の間の裏に3、4人入れる隠れ部屋があります。

桂小五郎(?)が匿われていることを嗅ぎ付けた捕吏が長谷川佐太郎宅へ押しかけ、佐太郎の妻の髪を引っ張りまわし行方を尋ねたが一言ももらしませんでした。小五郎は酒樽の中に身を隠し、役人が去ってから無事逃れたと言います。無事に逃げ延びた時の佐太郎の詠んだ短冊が今も丸尾本店に残っています。

ぬれものは無事に届いてしぐれけり

讃岐には、大小多くのため池がありますが、現在でも全国一の規模を誇る満濃池があります。満濃池は後述しますが、築造以来たびたび決壊しました。雨が少なく大きな川のない讃岐では昔から渇水と洪水、まさに水との戦いでした。
佐太郎が28歳の安政元年(1854)7月にも決壊し、郡内の村々が水浸しとなり、佐太郎の酒蔵の一部が倒れるほどの被害となりました。日柳燕石と共に炊き出しを行った事が記録に残っております。

その後毎年のように農民は干ばつの被害に悩まされ、佐太郎はこの窮状を見かね、私財を投じて慶応4年(1868)から再三に渡り直訴しました。

慶応4年(1868)の直訴状

時代は幕末から明治への動乱の時期であり、 満濃池の水利の問題などもあり、農民達の不満も爆発寸前でありましたが、佐太郎は説得しねばり強く窮状を訴えました。 明治2年、やっと高松藩執政松崎渋右衛門、倉敷県参事島田泰夫の同意を取り付け着工にこぎつけました。 念願の堤防修築工事ができたのが明治9年6月のことでした。軒原のきはら庄蔵しょうぞうの功績も大きかったのですが、ここでは敢えて取り上げません。
記録によると、修築工事に従事した人夫延14万996人、資料に明確なものだけで2万8千円が費やされ、その上佐太郎は私財を投入しています。約2万両と言われておりますが、明確なものだけで次の通りです。佐太郎は燕石への政治献金、そして満濃池の修築に私財を投入し、完全に私財を使い果たしました。

堤防修築請願費 800両
各藩県紛議調定費2500両
工事人夫奨励費1000両
工事監督費4800両
合 計9100両

満濃池は22年間決壊したままだった事になります。
明治5年4月香川県第58区戸長に任じられましたが、翌5月には依願退職しました。同年8月には共に修築に携わりその結果を見る事なく無念の死を遂げた松崎渋右衛門の祠を堤の西隅に建立しました。渋右衛門は無残にも暗殺されたわけですが、覚悟していたのか辞世の句を認めてあったようです。渋右衛門の子孫の方に残っていた石碑が現在満濃池の畔に移設されています。

松崎渋右衛門辞世の句 松崎渋右衛門辞世の句説明板

明治10年6月愛媛県(当時香川県はまだ出来ていません)第6大区4小区長に任じられましたが、これまた数日後には辞任しました。
明治13年12月那珂多度郡県会議員に当選、明治27年5月正七位に叙せられました。翌28年4月には満濃池水利組合より有功記念章を贈られ賀宴が開かれました。明治29年11月藍綬褒章を賜わりました。
晩年佐太郎夫婦には後継ぎが途絶え、酒番頭だった丸尾忠太氏に見守られながら酒蔵の見える離れ座敷で暮らし、明治31年(1898)1月7日、72歳で不帰の人となりました。大正4年に松崎神社に合祀されました。

佐太郎の墓と説明板

丸尾忠太氏は、佐太郎を身近に影から助けてこられた方で、酒の権利を買受け、長谷川佐太郎の精神を受け継ぎ酒造りを続け、現在の「丸尾酒造」に至っています。凱陣はその名も有名な酒で、昔ながらの製法で作られています。
佐太郎の寄進した旗岡神社の鳥居と大井神社の狛犬の写真を掲載します。

旗岡神社の鳥居 大井神社の狛犬



4. 満濃池について

  満濃池の規模

土堰堤では日本一。満濃池の貯水量は1,540万立米です。参考までに早明浦ダムの有効貯水量は31,600万立米、満濃池の約20倍です。

  築堤の歴史

大宝年間(701〜704) 国守道守朝臣による築造。文献に表れる最初のものだが、溜池の規模は不明。
弘仁12年(825) 空海による修築。
仁寿2〜3年(852〜853) 国守弘宗王による復旧。

このうち空海の修築は、当時の『太政官符』に記述が遺されている。道守朝臣および弘宗王に関する記事は『満濃池後碑文』にみられるが、この文献はかなり後代(1020年)に書かれたものであり、また空海の事績を無視している点など疑問が多い。

寛永8年(1631) 土木技術家、西嶋八兵衛による築造。400年以上にわたり廃池となっていたものを、藩主の命により復興した。
明治3年(1870) 長谷川佐太郎らによる修築。
昭和15〜34年(1940〜1959)6mの嵩上げ工事により、現在の堤防が築造された。

配水塔手前にうっすらと見えるのが現在確認できる旧の堤防です。(長谷川佐太郎らによる修築)
昭和15年〜34年の嵩上げ工事6mの嵩上げ工事により、現在の堤防が築造された。
これらの工事に代表される幾度もの修築・改修により、満濃池は現在、貯水量1,540万t を誇る日本一の農業用溜池となったのである。

  現在の満濃池

毎年6月13日は、満濃池ではその年初めて池の水を流す「ゆる抜き」の神事が行われる。
ゆる抜きとは、樋管(取水管)の栓を開けて、溜池の水を流し落とすことを意味している。
樋管は水を流す重要な設備であり、溜池の生命ともいわれてきた。現在は取水塔を通して水を流しているが、昔の満濃池には堤防の底に埋設した底樋そこひと、堤防内側の斜面 に敷設した竪樋たてひとがあり、2つの樋管は池の底でつなが っていた。
竪樋には数ヵ所の取水穴があり、その上に櫓を組み、揺木ゆるぎ(筆木)と呼 ばれる栓を上から順に開いて計画的な配水を行った。大きな溜池では、上層と下層とで水温にかなりの差が生じる。竪樋と櫓は、稲作に適した水温の高い上層水から流すための巧 みな仕組みでもあった。
樋管を通って満濃池を流れ出た水は、平野に網の目のように張りめぐらされた用水路を通り、田へ、あるいは子池、孫池と呼ばれる下流にある数10もの小さな池へと供給される。現在その受益面積は、地元まんのう町のみならず、丸亀市、善通寺市、多度津町、琴平町の2市3町を含む4,600haに及んでいる。
ゆる抜きは、その広大な地域を潤す最初の水(仕付水)を 流すもので、讃岐地方に田植えの始まりを告げる行事でもある。

  満濃池の証文揺(ゆる)……274年前の証文

満濃池は、古来樋門として竪樋と底樋が設けられ、それと連結する五個の矢倉が建てられていた。 矢倉は下部より一番、二番と数えて最上部を五番矢倉といった。 それらの矢倉のうち、池水は水掛かり一般に広く灌漑されていたが、 二番、一番の底水の矢倉は那珂郡上の郷、すなわち公文村以南に限ってこれを専用するものとした。 寛永19年(1642)の「水懸かり覚書」の中に、(満濃池二番、一番の矢倉は、那珂郡上の郷に留め申し候事)と規定している。 旱魃に際しては、この専用水を上郷の村高に割付けして特配した。命の水であったからその取扱は厳重であった。 水路のうち分水する要所には、「股守」という監視人をつけて盗用されることを防ぎ、各村においても急を要する田より順次に灌漑することを固く協定し、 村役人の連署で池御料三か村に対し、これを厳守する旨の誓約書を出している。この誓約書は一、二番矢倉の配水ごとに差し出すのが例となっていたから、 下世話にこれを「証文揺(ゆる)」と云っていた。その誓約書は次のようなものであった。


満濃池二番矢倉水落し申すに付書物の事
一、股守村々請所のところ少しも懈怠なく付け置き申すべく候 若し懈怠の村へ水下され候はずとも少しも申分御座なく候随分油断すまじく候
一、村々寄合割符(わりふ)申す請水の儀に御座候間 割符の外少しも水盗み申すまじく候 尚又村へ請込み申す水大切にし其村の役人村方見分の上痛み申す田より次第に甲乙なく引水仕るべく候事
一、毎日組頭一人宛池下まで罷越し 股守共に堅く申付け油断仕るまじく候事
右の通り相背き申す間敷候 若し相背く者これ有る村へは水一日一夜取り申す間敷候 もっとも水これ有り候ところは御見分の上水取申す間敷候いたずらなる儀仕り水下されず候て田焼け申し候とも少しも申分御座なく候
その為書物件の如し   享保18年(1733)丑年7月27日
                 公文村大政所  庄 惣兵衛 印
                 高篠村政所     新治郎 印
                 四条村政所     八三郎 印
                 岸上村政所     嘉次郎 印
                 吉野下村政所    伝兵衛 印  
                 吉野上村政所   五左衛門 印  
                 真野村政所      新七 印
   石川  午八  殿
   石川 紋右衛門 殿
   守屋七郎左衛門 殿




参考文献 1.  町史ことひら4巻 平成9年 発行者:琴平町
       2. 長谷川佐太郎翁 昭和18年 岡田唯吉著述

文責:三水会:森 義幸
写真協力、補筆:橘 正範

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