原御堂の訪問

平成19年7月2日、原御堂を訪問しました。
多度津街道にある原御堂は江戸時代の名所図会にも載っている有名な場所です。
善通寺市大麻町にあります。当主の80歳になられる大原さんの暖かい歓迎を受けて調査させていただきました。
郷土史家が時折訪れるそうです。真鍋新七さんや川合信雄さんの話を伺いました。両人とも既に幽明境を異にしております。

原御堂の玄関

目的は大原東野(おおはらとうや)の石碑です。

大原東野は奈良県興福寺前の旅籠の長男として生まれた江戸時代後期の日本画家で、 山水花鳥に優れ、人物画をもっとも得意としました。
名は民聲、東野は号です。「対相四言」、 「唐土名勝図会」、「絵本西遊記」等が現存しています。
苗田の大原家には「十二仏画」、「花鳥図」などの絵が保存されていますし、原御堂には、東野の絵を基にした石碑が残っている事が知られています。
又、その石碑には与謝蕪村の句に象頭山の輪郭が 刻まれている事も知られています。

東野は幼少から絵を描く事を好み、20歳を越える頃家業を弟に譲り、絵筆を携えて旅に出ます。
33歳頃浪速に住むこと数年、「名数画譜」で名声を築き、金毘羅宮に来た時、丸山応挙の「瀑布図」に出会います。
そこで象頭山を見る事が出来る 苗田の地を終の棲家と定め、30年余りを暮らすようになります。

絵師として名の高かった東野ですが、一方、金毘羅街道に強い愛着を持っていました。日頃からこの街道の荒れようを嘆いていましたが、 ある時一念発起、 街道の修復を志します。
丸亀から金毘羅の入口まで、工数に応じて絵を描き人夫賃に充てました。東野の修復した街道の場所などについては確とした記録は残っていませんが、満足する結果であった事は石碑に刻まれて残っています。
大原東野の石碑・・・石碑の古い写真には、下に丸い基礎がありましたが、埋まってしまっていました。

象頭山向拝 句碑と山の輪郭

正面には「象頭山向拝」、右面には家紋と「施主大原東野」、左面に句碑と山の輪郭、 裏面に石工名中村半右衛門が刻まれているとの事でしたが、正面以外は殆んど判読不能の状態です。
左面の句碑には「象の目の・・・」と山の輪郭、東野○、夜半翁と刻んであると聞き及んでいましたが、 それも殆んど判読不能の状態です。

石碑の全体図 上の句の部分 下の絵の部分

「象の目の笑い」と「山」「羅」は何とか判読できますが、「笑いそめたり山さくら」でしょうか、 もしくは「笑いかけたり山可津羅」でしょうか?
又、この句は一体誰の句でしょうか?本当に与謝蕪村の句なのでしょうか?
蕪村が金毘羅さんを訪れたのは明和3、4年(1766、67)、東野は明和8年の生まれですから、句が作られてから句碑の建立まで40年経っています。
句の下には象頭山の山肌が刻まれております。 尚、石碑は元々この場所に建っていたのではない、との事でした。
以下は私の仮説です。

今迄判明している事実は下記の通りです。


         記

1. 大原東野は苗田に住んでいて、象頭山を遠眼鏡で旅人に見せていた。
2. 藤棚と蟲塚は明治になって北神苑に移設された。
3. 石碑は元々この場所に建っていたのではない。
4. 蕪村の句は「山可津羅」と刻まれている様に見える。
5. 原御堂は丸亀街道ではなく、多度津街道にある。
6. 原御堂の大原さんと東野の子孫にあたる苗田の大原さんとは親戚関係がない。
7. 俳句の季語に「山可津羅」と言う言葉はない。

 以上の事実を踏まえて大胆な仮説を立てて見ました。

1. 石碑は元々苗田の藤棚で旅人に遠眼鏡を見せていた場所に建っていた。
2. 「象頭山向拝」の下に「所」という文字があれば、百点満点ですが・・・。
3. 藤棚と蟲塚が移設された時、石碑だけはその用途がなくなったので廃棄され、それがたまたま原御堂の大原さん宅へ行った。
   若しくは、苗田の大原さんと原御堂の大原さんとは古い親戚関係で、用済みの石碑を原御堂の大原さんに預けた。
4. 「山可津羅」の意味は、「山の端に懸かる雲」の例文があり、石碑に刻まれた象頭山稜線の図にぴったりする。
5. 蕪村の句は「山桜」であり、東野はその「桜」を「可津羅」に変更して
  使用した。
6. 若しくは、蕪村の句は元々「山可津羅」であり、古く殆んど使用例のない季語なので、いつのまにか「山桜」で通用してしまって現在に至っている。

以上5.と6.はどちらか現在では不明です。私としては、6.の方が正しい様な気がします。
尚、金毘羅さんには「山かつら」の名前を持つかつらの木があり、神事に使用しているとの情報もあります。
詳しく調べると面白い事が分かりました。金刀比羅宮の倭舞(やまとまい)に「やまかつら」という題目がありますが、この題目を伝えた春日神社の富田光美、静子夫妻は大原東野の実家である奈良の旅籠からの手紙を大原家へこの時一緒に持って来たようです。
手紙などの古い書類が苗田の大原家に残っています。

**後日判明した事を報告します。
文政10年(1827)頃編纂された「金毘羅山名勝図会」に大原東野の「原御堂」と「象頭山」の絵が掲載されていました。ここには、石碑に刻まれたような象頭山の山肌と蕪村の句が二つ載っています。
三日月の・・・の句は巷間知られているものですが、肝心の象の目の・・・の句は「象の目のわらひそめけり徒多可川羅」と書かれているようです。多分、石工はこの図を基に石碑を作ったのではないでしょうか?

東野の画いた「原御堂」 東野の画いた「象頭山」

原御堂の本来の場所には、芭蕉の句碑と石仏が残っていました。

芭蕉の句碑 表 芭蕉の句碑 裏

芭蕉の句碑拓本 拓本下部拡大


正面歌碑  「世を旅にしろかく小田の行きもどり」   はせを翁
裏面 寛政五稔癸丑年十月日 是れ庵代連中排

文化2年丸亀の阿波屋甚七寄進の石仏がありました。そして、芭蕉の歌碑の後には古い鐘楼が残っておりました。   

石の仏像 鐘楼



以上 文責:三水会:橘 正範

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