阿波街道詳説

1.  緒言

「讃岐男に阿波女」という言葉があります。讃岐と阿波との深い関係を物語る言葉です。「讃岐男と阿波女が一緒になって幸せな家庭を築く」というのが一般的な解釈のようです。「遊び好きな讃岐男には働き者の阿波女が必要」という解釈もあるようです。「喋り好きな讃岐男には寡黙な阿波女が似合う」という解釈もあるようです。「働き者の讃岐男を女房になった寡黙な阿波女が支える」という解釈も出来そうです。いずれにしても、阿波女を褒め称えている言葉には違いありません。
讃岐と阿波の境は、一部海岸ぶちを除いて、殆んどが四国山脈(讃岐山脈、阿波山脈、阿讃山脈とも言う)を越える峠です。その峠毎に阿波街道があったと言っても過言ではありません。阿波の人達は、金毘羅大権現への参詣道としてより、物を売ったり買ったりする生活の道としてこの峠道を利用しました。借耕牛(かりこうし:後記)の風習があったのがこの阿波街道です。
ここでは主として、琴平の町にもっとも影響が大きく、しかも最も賑わった「三頭峠」越えの道を阿波街道として説明します。他の街道については別の機会をお待ちください。

讃岐から阿波へと通じる峠道のリストを東より西に掲載します。

   一般的な峠の名称讃岐側の地域名 → 阿波側の地域名
 1大坂峠引田 馬宿 峠 大坂 板野
 2一本松越引田 川股 峠 板野
 3荒倉峠引田 峠 畑 板野
 4鵜の田尾峠白鳥 西山 峠 平間
 5境目峠寒川 日下 峠 大影 川島
 6菅谷峠長尾 額 多和 峠 御所野
 7清水峠長尾 額 中山 峠 西俣
 8大滝寺越塩江 枌谷 峠 中尾
 9相栗峠塩江 焼堂 峠 清田
10寒風越明神 久保谷 川奥 峠 野田井 貞光
11三頭峠琴平鞘橋 岸上 炭所西 内田 明神 久保谷 峠 東原 貞光
12二双峠明神 谷田 峠 谷口 半田
13滝奥越明神 真鈴 峠 蝉谷 半田
14真鈴峠明神 真鈴 峠 蝉谷 半田
15東山越福良見 塩入 塩入峠 小見 辻
16猪鼻峠財田 峠 池田
17六地蔵越山本辻 河内 峠 上野呂内
18曼陀峠萩原 海老済 峠 佐野
19唐谷峠唐谷 峠 伊予石ノ口 土佐及び阿波の西の方


2.  街道の道程

上記地図は昭和4年大阪毎日新聞発行の地図を使用しました。この頃までは旧道がかなり残っていました。今ではその後のインフラ整備に伴い、その殆んどが消滅したり道幅を拡げられたりしています。
琴平町内から三頭峠まで、現在でも通行できる道筋を以下に説明します。

現在の「一の橋」が、阿波街道が他の街道と合流する地点です。明治38年まで、この場所に鞘橋が架かっていました。この橋の東の麓から川沿いの道を南へ進み、金沢町、阿波町、金刀比羅宮神事場へと続きます。金沢町は昔は阿波町の一部でした。阿波町は町内でもっとも旧街道の風情を残しています。その阿波町の真中どころに、文化3年(1806)建立の燈籠があります。この燈籠のすぐ西に移設された鞘橋があります。ここから真っ直ぐ南へ進むと、箸蔵寺へと続く道ですが、三頭峠に行くにはここから少し先で東に折れます。

文化3年(1806)の銘の燈籠 鞘橋を東から見る

「庚申堂」という珍しい地名の場所から道なりに「五条」へ、「五条」から「久保」へと道はゆったりと曲りながら続いています。
「久保」には延喜式に出てくる古い神社が鎮座しています。久保神社は地元の人には「くぼのみや」と呼ばれています。久保神社の境内には香川県指定の保存木があり、近くから移設された金毘羅燈籠を見る事ができます。久保神社から南のお旅所へ続く道は塩入峠へと続く別の阿波街道です。

久保宮神社 久保神社内の燈籠 久保神社から南へ続く道

久保神社から金倉川北側の道を東へ東へと進みます。途中で川の姿が見えなくなり、「吉野」へと出ます。「吉野」から土器川まで進むと「炭所西」になります。土器川の左岸の道は現在の国道438号線です。

炭所西の合流地点 炭所西の燈籠

炭所大橋の東の扇山山麓には、元の位置から移動された街道一大きなお化け燈籠があります。

炭所西のお化け大燈籠

国道438号線沿いには、「中通」、「内田」、「造田」、「川東」、「明神」などの部落があり、史跡を散見できます。道の駅「ことなみ」までに、細い道で昔の峠道へと続く道がありますが、現在では殆んど使われておりません。危険ですので、先達が居ない時は行かない方が無難です。

中通の燈籠 天川神社の燈籠 内田の燈籠

道の駅「ことなみ」を過ぎ、三頭トンネル、野田ノ井トンネルを出てすぐ右に曲り山道に入ります。既に徳島県内です。

三頭トンネル 野田ノ井トンネル 曲り道(右へ)

野田ノ井トンネルを出てすぐ右に曲った道は、山道を右に左にとゆるやかに登り、道路案内の標示があります。

道路案内の標示1

この交差点は別の阿波街道「二又越」との合流地点です。左に曲るのが本来の道ですが、寄り道してでも見るべき物があります。右に曲って少し行くと道路右下に土砂に埋まった無残な鳥居が見えてきます。

土砂に埋まった無残な鳥居

額に「金毘羅大権現」と深く刻まれた大きな奉納鳥居です。元々の場所がここであったのか、道路整備のため移動されたのか、資料がないので定かではありません。中端まで土砂に埋まり、笠木にはツタが絡まり、胸が痛くなる無残な光景です。平成3年発表の真鍋新七氏のデータを記載しておきます。

仮名称立見山鳥居
建立時期安政6年(1859)
中央高さ3メートル60
柱間2メートル80

長年この状態のようです。寄進者や世話人など、柱の根元部分に刻まれていたかも知れませんが不明です。

元に戻って交差点を左に曲るとすぐ三頭山の頂上です。頂上はかなり広く、バスもゆったりと停める事ができます。この日(平成19年11月20日)、多分地元の小学生でしょうか、2台のバスで遠足に来ていました。故郷の知識を小さいときから学習することはもっともっと奨励されてもいいのではないかなと感じられました。
頂上から左に行くとハングライダーの基地があり、眺望は絶景です。

三頭山の頂上(前回の訪問時) ハングライダー基地からの眺望

頂上から美馬方面へ下る道があり、少し行くと右側に標識があります。車はここまでしか行けません。ここからは歩いて山道を登ります。

道路案内の標示2

山道は狭くて、勾配のある箇所が多く、今歩いてもこの道を牛馬が通ったとは思われないような道です。石仏を刻んだ丁石が等間隔で並んでいます。

峠への山道(前回の訪問時)

頂上では天狗地蔵と乳房地蔵の一対の地蔵様と大きな鳥居が待っています。金毘羅大門から十七里、かなりの距離があり、ここで一泊するための旅籠もあったと言われ、その残滓も何とか判別出来ます。

鳥居 旅籠跡 県境の杭

天狗地蔵 乳房地蔵 大門から17里の丁石

香川県と徳島県との境界杭があり、ここから先が阿波側になり、緩やかな道と書かれた本などが多いようですが、見る限りは細くて無理なような感じです。


3.  街道の成立

この街道の史跡の特徴は、自然石で作られた所謂「おばけ燈籠」が目立つ事です。当然のように建立の日付は刻まれていません。年号のはっきり分かるのを下表に記載します。

和   暦西 暦種 類場  所備考
文化 2年1805燈 籠川東昭和40年に西へ移動
文化 6年1809燈 籠造田 
文化13年1816燈 籠炭所西 
文政11年1828石 仏炭所西 
天保 9年1838燈 籠五条  
弘化 2年1845石 仏川東 
嘉永 6年1853造田 
安政 4年1857鳥 居峠の頂上 
安政 5年1858燈 籠造田 
文久 2年1862石 仏川東 
文久 2年1862石 仏川東 
元治元年1864燈 籠吉野 

文化2年の年号の燈籠は、長い棹を持った簡素な形式の燈籠です。この頃には既に金毘羅街道として機能していたと思われますが、道筋は険しく、細く、借耕牛の風習がこの頃より始まったとしても、その為の牛馬が安全に、容易に通行できるような道だったとはとても考えられません。 難渋する旅人を見かねたのが僧智典です。丸亀街道を修復した大原東野の後を追うようにして、智典はこの道の修復事業を行います。元治元年(1864)から改修にかかり、多くの人達の協力のもと、慶応3年(1867)に成就しました。これがこの三頭峠越えの阿波街道の成立だと思われます。

智典による道路建設の石碑

智典の石碑など 石碑の銘文
当山此川中央ヲ以テ阿野鶏足郡境勝浦川東両村ニ接シ
往昔ヨリ谷間三頭山越通行之往還岩石間関小路旅人苦慮ス
牛馬@Aノ実況ナレハ局外ヨリ之ヲ観下スルタヘス
東西奔走シ精神ヲ凝ラシテ十方之喜捨ヲ以テ
国境ヨリ明神落合マテ六拾丁ヲ鉾鑿セラレタリ
元治元年三星霜ヲ経テ慶応三年仲秋営業ス
発起人 大麻村茶堂智典  以下省略


注 @・・ケツA・・テキ 足偏の決と足偏の陽の文字です。
智典は元治元年には大麻村茶堂に居たようです。大麻村茶堂とは、多度津街道の原御堂の事と思われます。原御堂には丸亀街道を修復した大原東野の蕪村の句を刻んだ石碑が残っています。不思議な巡り合わせでしょうか、当然の帰結でしょうか・・・。


4.  街道の発展

智典による道路改修事業以降、着実に歩行者は増し、金毘羅大権現への参詣者以外に阿波の人々は商売を兼ねてこの道を行き来しました。金毘羅の街道口にあたる阿波町の由来は、阿波からの参詣者よりも阿波から来た人達との商売が主とした事から来るようです。阿波町は商店や職人達の町として、大いに賑わい大いに発展しました。 三頭峠以外の峠道でも、改修が施された道はそれなりに発展しますが、一番発展したのがこの街道であったと言っても過言ではないと思われます。 街道には道標や丁石、石仏、燈籠などの石造物が盛んに設置され、今もその姿を留めております。その殆んどが阿波の人々と地元の人達の寄進物です。 借耕牛の説明をします。 阿波の北方つまり吉野川の北岸である阿讃山脈の傾斜地一帯は牧草に恵まれていたため、田畑を耕す牛がよく育った地域でした。一方土地の狭い讃岐では、牛の飼料にさえ苦労する地域でした。そこで、田植えの始まる初夏と、麦まき時の初冬に阿波から耕牛を借りる風習が生まれ、この牛の事を「借耕牛」と呼ぶようになりました。この風習は文政年間(1818〜1829)の頃より始まったと伝わっています。ピークは大正時代から昭和の初期で、年間一万頭もの牛が「オイコさん」と呼ばれる仲介人に追われて、阿波街道を通って讃岐の地へ出稼ぎにやって来ました。農繁期が終わると、お礼の米を背負って同じ街道を帰っていったところから「米牛」という別名も有りました。街道の讃岐側や讃岐の村々の入口には、牛の品定めをするための牛市場が開催され、大変な賑わいでした。この風習も昭和30年以降、耕運機など農機具の普及により自然と消滅しました。


5.  街道の消滅

どの金毘羅街道も、その参詣者の道中姿が消えるのは明治の中頃以降であり、鉄道と道路網の整備が最も大きな要因であり、この街道もその例外とはなりませんでした。 大久保ェ之丞の提唱した四国新道は明治4年(1890)に猪鼻峠を越えて開通しました。それでも、借耕牛の風習が残っていたため、まだまだ歩行者も多かったのですが、その道路とほぼ平行した鉄道が漸く昭和4年(1929)に池田、琴平間に敷設されると、その借耕牛の多くは、鉄道の貨車に載せられて讃岐まで来るようになりました。最終的には鉄道の発達と農業の機械化の二つの要因が街道としての役目を消滅させたと思われます。 伊予・土佐街道と同様インフラ整備が遅れたためか、随所随所に史跡を留め、生活道路としての昔ながらの役目を果たしているのが現在のこの道です。




文責:三水会:橘 正範

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