資料集 中国人強制連行朝鮮人強制連行教科書問題靖国問題日本軍「慰安婦」問題関東大震災朝鮮人中国人虐殺南京大虐殺
沖縄戦戦後責任在日朝鮮人
南京大虐殺  Record of Nanking Massacre

夏淑琴さん名誉毀損裁判

インタビュー
被害の状況(新路口事件)
裁判の経過
判決文
  要旨
  全文
判決の解析
・マスコミの報道状況
資料紹介
  


資料

崇善堂資料集成
 
歩兵第9連隊第11中隊陣中日誌 昭和12年8月24日〜13年4月23日


ティンパーリ『戦争とは何か』出版経緯

NEW 岡田酉次『日中戦争裏方記

NEW 岩崎昌治陣中書簡
  


岡田酉次『日中戦争裏方記』

資料名
岡田酉次『日中戦争裏方記』(東洋経済新報社、昭和49年3月20日)
解説
岡田 酉次(おかだ ゆうじ、1897年(明治30年)- )、三重県鈴鹿市出身。南京攻略戦当時、参謀として上海派遣軍司令部に在籍する。
上海派遣軍組織図

P109-115
15 裏方さん南京攻略に参加

 昭和一二年一〇月頃まできわめて頑強に抵抗を続けた呉淞上陸部隊前面の中国兵も、大場鎮・蘇州河の線で破れると急に浮き足立ち、派遣軍各部隊はこれを急追一一月一九日頃には常熟・蘇州・嘉興の線に向かって前進することができた。この戦況好転に乗じ一気に南京をも攻略することは、よく敵蒋政権の死命をも制す−−との現地軍報告に接した参謀本部では、この問題を中心に今後の作戦をいかに指導すべきかにつき、慎重熟議を開始した。

 しかるに、たまたま一一月五日抗州湾に上陸した第十軍(柳川兵団)では、同月一九日朝全力を挙げて南京に向かって進撃するよう隷下各部隊に発令していた。そこで参謀本部でも、種々検討勘案のうえ、従来上海派遣軍に示されていた作戦地域の最前線蘇州・嘉興の線を改めて撤廃する旨の指令を出したのである。このことは政略的には従来の事件不拡大方針の変更であり、その放棄にも通じた。そこで中支派遣軍でも勇躍競って首都南京の攻略に向かって堂々進撃したのである。蘇州・嘉興の線を突破して兵を進めることは、きわめて重大な問題である。ちょっと考えてみても、この処置は明らかに事件の不拡大という基本方針から逸脱するが、一歩譲って考えたとしても、首都南京を攻略せんとする限りどうしてもこれを全面和平のチャンスとしてとらえなければなるまい。攻撃開始前からあらかじめ和平への見通しをつけておくか、少なくとも所要の政治工作が作戦に呼応して進められ、政戦両略の間で呼吸が合わなければ、無二の戦機を逸するだけでなく長期戦の泥沼に足を入れる懸念も大きいからである。これについては、松井石根派遣軍司令官が以前から、敗走する中国軍に追尾して南京城への追撃に移りたい旨の意見を具申しており、中央では陸軍省や参謀本部を中心に種々討議されていたのも当然である。

 討議の中枢参謀本部では不拡大方針の放棄を極度に重視し、多田参謀本部次長は強く消極論を主張したが、石原将軍の後任下村定作戦部長は追撃積極論を唱え、いわば二派に分かれて激論の末ついに積極論が採決されてしまったのである。私など派遣軍特務部にあっても、何とかこの作戦に応ずべく政治工作に手を打ったが、作戦は予想以上に迅速に進み、遂にタイミングが間に合わなかったのは千載の痛恨事であった。

 この首都南京攻略は、単に和平へのチャンスとなり得なかったのみならず、不幸、一部に起こった一般住民に対する大虐殺のニュースが中国の世論をかきたて、対日国際情勢を悪化させたと同時に、中国側をして抗日戦線の結成をさらに強化せしめる結果となったのである。

 私はこの作戦には経済・金融担当のスタッフ原田達治(東洋経済出身)等を同道、朝香宮軍司令部に加わって南京に向かった。南京入城のうえはいち早く南京市内政府系金融諸機関を接収すること、新しく占頭都市で放出される軍票の実状を調査する任務についた。すでに述べたごとく、柳川兵団が杭州に上陸した一一月五日依頼、中支派遣の全部隊は日銀券に代えて軍票を専用するよう決められていたのであるから、首都南京に多数の部隊が集中する際の軍票放出の適否は、今後の軍票対策に至大の影響を及ぼすと判断したからである。

 ちょうど南京陥落の前日の夕刻、私は朝香宮軍司令部とともに南京東方の温泉街湯山に宿営したが、以下その夜突発した戦況の思い出を一、二つづってみよう。

 当時華中方面に派遣されていた諸部隊の最高司令部として、従来のそれであった上海派遣軍司令部の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官として松井石根大将が引き続きこれに当たり、上海派遣軍と第十軍(柳川兵団)とをあわせ指揮することとなり、空席となった上海派遣軍司令官には別に朝香宮鳩彦王中将が着任した。この夜同司令部は、かなりの戦災を受けている一温泉旅館の建物に陣取ったが、黄昏ともなる頃司令部の衛兵所に一騒動が持ち上がった。三方面からする日本軍の挟撃にあい、逃げ道を失い湯山に迷い込んできた敵の小部隊が司令部の西北方に現われ、たまたま陣地構築で右往左往する日本兵を認めて、司令部に機関銃撃を加えてきたのである。特に当軍司令官は新たに着任したばかりの朝香宮殿下とあって、副官のあわてようもまた格別である。もちろん司令部には騎馬衛兵が若干いるのであるが、進んでこれを撃退するだけの兵力ではない。副官は隷下砲兵隊の援助を求めようとしたが近傍にはいないらしく、結局近くで布陣していた高射砲を引張り出し、対空ならぬ水平の方向に発砲させてとにかく敵部隊を沈黙させた。この時数名の敵兵が捕虜になったとのニュースが伝わると、特に下士官連中がおっとり刀でこれに殺到せんとする光景を見せつけられ、戦場ならではの思いを深くした。おそらく伝来家宝の日本刀や高価を払って仕込んできた腰の軍刀がうづいていたのであろう。いずれにしても戦場の夢ははかなかった。

 今度の私の従軍にも、いつものとおり中村国一というボディガードが車に同乗していた。正式には陸軍軍属中支那派遣軍特務部付中村国一である。他の章でも触れたと思うが、かれは私の育った桑名市の出身で、同地出身の代議士にして陸軍政務次官をしていた加藤粂四郎が、私あての紹介状を持たせて上海へ送り込んできた人物である。いつも私を呼ぶに″武官″をもってし、さながら殿様に仕える小姓のごとく丁重かつ献身的に奉仕してくれた。彼はきわめて放胆な男で、上海到着後も私への紹介状を持ちながら一向に来訪せず、海軍陸戦隊の行なう市内の敗残兵や便衣隊の戸別討伐に興味を持ち、しばらくこれに参加して上海の邦人間で有名になっていた。在留邦人の話では、自らは武器一つ身にまとわず常に討伐兵の先頭に立って討伐に当たるという勇敢さであったという。

 当夜も彼は私のため一浴槽を探し出し、湯の取替えやら清掃までやって、いままさに私を迎えようとしていたところへ、別の一老軍人が入浴にきた。彼は大音声で老軍人の入浴を阻止しつつ「この湯は武官の入らぬうちはだれにも入浴はさせられない」と怒鳴った。この老軍人とは、私の上司、派遣軍参謀長の塚田攻中将であったが、後日この話を同将軍から聞かされたうえ、「君は実に良い部下を持っているな」といわれ、汗顔の思いをしたが、中村の怒号でおとなしく他の浴槽に足を運んでいったというこの将軍の態度にも、一種の風格を惑じたのである。

 翌朝は戦況も緊迫していたので、原田一行を残し中村のみ同乗させて前衛部隊まで追尾し、南京城一番乗りを志して前進した。南京城壁に接近するにつれ、敵が打ち出す銃弾は頻繁となり、やむなく前衛部隊と本隊との中間にあって、断続的に前進あるいは後退した。敵弾の飛来がますます繁くなると、中村国一は俄然危いと叫んで私を自動車座席の足場に横臥させ、敷いてきた毛布を頭から私にかぶせて馬乗りになり、自らは、しこの御楯とならんかなの風情であった。今は亡き彼の人柄と当時のことを思い浮かべ、吹き出したくもなる次第である。

 前進につれて通路の両側には死屍累々として目を覆わしめるものがあり、やっと城壁から逃れ出た中国兵士達−−眼前で降服する者あるいは捕虜となって後送される者あり、また小広場では数珠つなぎのまま互いに身を寄せ合って茫然自失している敗残兵があるなど−−を至るところで見かけたが、その中には少数の女性さえまじっているのに気づいた。死に直面する人間の心理は格別で、かかる凄絶な情況における興奮は心理状態を一層激化させて、あるいは世論を騒がせたあの日本武士道にもあるまじき南京虐殺につながって行ったのかもしれない。

 当日の南京城攻略戦では、向かって右から第一六師団、第九師団、第三師団先遣隊、第一一四師団、および第六師団が数本の道路より進撃し、別に第一三師団と岡崎支隊が遠く迂回して背後から南京城に迫った。これらはいずれも城門への一番乗りを競って攻め込んだのである。想像するに、それは統一ある指揮のもと一糸乱れぬ前進攻撃というよりは、我れ勝ちに先を争って急進する運動会のリレー競走を思わしめるものであったろう。

 私は硝煙のなか屍を避けつつ中華門から入城、まず最寄りの交通銀行本店へ飛び込んだ。銀行の内部は混乱というよりもむしろ森閑としており、行員らはあらかじめ計画的に奥地に退避したものと判断された。従って金庫内には重要資産もなければ重要帳簿等も全く見当たらなかった。

 市内では随所に火災を見、道路上も混乱するなかを、やっと次の中国銀行その他を探し当てたが、行内はいずれも交通銀行の場合と同様であった。引き続き部隊は敗残兵の掃討や治安対策に当たったが、夜ともなると焼け残りの火焔が真紅に空をこがし、寒さも寒しで露営の夢もつかの間のうちに明けて行った。

 翌日は早朝より、光華門城壁への一番乗りで戦死を遂げた私の中学時代の同窓伊藤善光大隊長を城壁外に弔った。

 この頃になるど、比較的戦禍を免れた城外や近郊では、いずれの都市占領の場合にも見られる泥棒市場がボツボツ立ち始めるのを見受けた。金融専門の宗像久敬(日銀上海駐在代表兼軍顧問)、藤松正憲(同補佐。現足利銀行会長)ならびに替地大三(同補佐。現高千穂交易役員)等に急遽救援を求めて軍票対策に取りかかった。

 平時でも見かける例ではあるが、中国ではこうした混乱の際、盗難品を持って集まる難民による市場が生まれる。通称「泥棒市場」と呼ばれる所以であろう。かつて他の市場で安価な花瓶を宗像氏の鑑定で買い求めたことがあったが、彼はロンドソ駐在中の余暇に、同市の博物館において東洋から持ち去られた中国古陶器の研究をした通人である。もとより今回の場合は、良き掘り出しものがな、などという心のゆとりも計画もなかったが、紙巻煙草の一本売りをするこれらの市場において、日本兵士達の差し出す軍票に住民達がどんな反応を示すかが、私どもの視察の目的だったのである。時に日本兵から無理に押しつけられて手渡される軍票も、一両日の経過と日本製民需品による軍票物資交換所が開設されるにつれ、俄然これら市場から一般流通面へと流れ始めるのであった。

 市内掃討の一段落とともに南京入城式が行なわれるというので、私も特務部員として乗馬姿で一世一代の入場武に参列できるものと心待ちしたが、南京攻略前後における蒋政権側の動向など諸情勢報告のため急遽帰国することとなり、まことに心残りであった。後日松井大将の乗馬姿の入城写真を見、また将軍から戴いた入城詩の揮毫(口絵に掲出)を見るにつけ、この入城式こそは、同将軍にとっても一世一代の盛事となったに違いないと思うのである。アジアを憂え中国を愛していた彼ほどの将軍の隷下部隊から、あのいまわしい南京虐殺事件が発生したとすると、死んでも死に切れない心の痛みがあったろうと痛恨に堪えない。

←BACK

 


このページのトップへ

Copyright (C) 2005 sengo-sekinin.com