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 □初信者懇談会 「幸せを求めて」 講師 ○田○夫 平成5年3月21日  ザ! 真如苑 その5 [671]-[679]より

<その1>
今日は「幸せを求めて」という事につきましてお話をさせて頂きたいと思います。
―前略―
この教えに結ばれる方は、皆さんやはり幸せを求めて入信されたと思うのです。導き親さんや経親さんから、「真如苑に入ったら救われますよ」という事で入信されたと思う訳ですけれども、当初どなたもが本当だろうかと、真如苑に入ったら本当に幸せになれるのだろうか、どうしたらその幸せになれるのだろうかという、まず疑問にぶつかると思うのです。どうして救われてゆくのかというお話を順序を追って一つ一つ疑問を出しながら、それに対して解決をしていきたいと思います。
 恐らく初信者の方の大半は、真如苑も仏教であるけれども、自分も家で仏教をしている、いろんな宗派の仏壇があって、お坊さんがお参りに来て下さるわけです。ご先祖を護ってくださる。けれども家の仏教ではいろんな問題は解決しなかった。なのに真如苑で、仏教で解決するという事、本当に仏教というのは救われる教えなのだろうか。一番根本的な疑問がそこに出てくると思うのです。勿論仏教をお説きになったお釈迦様は、苦しみ悩みを持つ衆生を救う為に教えをお説きになった訳で、当然それは仏教は救われていく教えである。救われる教えであると言うことは、はっきり言えるわけです。であればこそ二千五百年もの間、存在するだけの価値のある偉大な教えであったといえます。
―略―
お釈迦様は衆生を救う為にお説き下さった訳ですから、当然仏教で救われる。けれども確かに、家の仏教では救われなかったと言われる皆さんの答えも、これも事実ではないかと思えます。それは何故か。
同じ仏教でありながら、真如苑の仏教と家の仏教とどう違うのか、というところの違いです。はっきりしませんと納得できないと言う訳です。
日本の仏教というのは弘法大師や伝教大師が、真言宗、天台宗をおつくりになった頃は、厳しいご修行もされており、そして伝道、布教もなさった訳ですけれども、現在の仏教というのは
徳川幕府の時代に檀家制度を作られまして、いわゆる地方に沢山ありますお寺に、皆さんのお家全部をそれぞれのお寺に繋いで、そしてその地域の面倒を見させるということです。それによって幕府に謀叛を起こすものはないかという監視の役をお寺さんにさせたのです。お寺さんには皆の戸籍が全部あって、何の何べえは、どういう考えを持っている。過激な考えを持っているとか、幕府をひっくり返そうと考えているとか、そういう情報を集めるために檀家制度というのが出来まして、それで何百軒かづつ一つ一つのお寺さんに結ばれたのが檀家制度であるという訳です。そうしますと、その菩提寺のお寺さんは新たに修行する必要もないし、ちゃんと生活できるだけの檀家を貰っている訳ですから、そしてもうそこを越えますと、次の隣のお寺の檀家になっている訳ですから、布教も出来なくなる。ということは、もう頂いた檀家のお世話、お葬式だとか、法要とか、法事とかですね、そういう事をやるだけのお役になってしまったということです。お釈迦様の教えの中には、お葬式や法事のことなど何も説いていらっしゃらない訳で、日本の仏教はお釈迦様の教えと次第に違ったものになってきたと思われます。
檀家制度によって、本来の仏教の特色である、一人一人を説法して、そして救っていくお釈迦様の時代の仏教とは違うものになって、違う方面のお世話をするようなお立場になったのが、今の菩提寺ということになったわけです。
そのような中にあって、
真如教主様が偉大なのは、再びその仏教というものを、二千五百年まえに、お釈迦さまが人を救っていく為にお説きになった本来の仏教に戻されたという事です。実はそこに本来み仏様がお持ちになっている救いの力というものの存在があるのです。
教主様は厳しいご修行の中で、いろいろな霊能力のお力で、また伝統の法流というものを継がれる中で筆舌に尽くしがたいご修行の末、
元の二千五百年前のお釈迦様の仏教をもう一度呼び戻されたのであります。それが、真如苑の仏教と皆さんのお家の仏教の違いであると言えるのではないかと思います。
仏教の中でお釈迦様は因縁というものをお説きになっていらっしゃり、仏教といえば因縁という言葉が出てきます。中にはこの因縁という言葉そのものを、いやだと嫌っていらっしゃる方があると思いますが、仏教と言えば、因縁、その因縁を切れば幸せになっていけるというのが、一つの大きな救いの根本になっている訳です。
お釈迦様は、二千五百年前の三十五歳の十二月八日の明け方、菩提樹の下で悟りを開かれましたが、そのお悟りは
不変の真理(何時の世も、どの場所でもどの人間にもあてはまる変わることのない真理)即ち、因果の理というもの、因果応報と言われますけれども、この「因果の理」というものをお悟りになった訳です。

それが、大宇宙の法則であって、具体的に言えば、善因善果、悪因悪果
良い原因があれば良い結果が出てくるし、悪い原因があれば悪い結果が出てくる。りんごの種を蒔けばりんごが生まれてくるのであって、りんごの種を蒔いてもバナナが出ている訳はないのです。その不変の真理は、国が変わっても、時代が変わっても変わらない真理なのであるということです。 一切の事象というもの、苦しみも悲しみも喜びも悲しみにも必ず原因があるのです。皆さんの今お持ちになっている悩み苦しみ全てのものに原因があり、そしてその原因をなくさない限りは、悲しみ苦しみという結果が消えてなくなることはない。簡単に言えばそういう事をお悟りになった訳です。 因縁には良い因縁もあるのですが、その苦しい方の悩み苦しみのもとの因縁を切りなさい、なくしなさいと説かれたのです。そうしたら、悩み苦しみは無くなって幸せが得られるよ、という事です。これが仏教のお釈迦様のお悟りの根本なのです。
医学だってそうですね。病気になるには病気になる原因があるから病気になるのであって、お医者さんは、その原因を見つけて無くすから病気が治る訳でしょう。お医者さんは目に見える肉体に関して、顕微鏡あるいはコンピュータで探せる範囲の原因結果しか見つけられないけれども、お釈迦様はそうじゃあない。和合できないとか、いろんな事故に会いやすいとか、そういう目に見えないものにまで、全部原因があるから、そういう結果が出てくる。登校拒否も家庭内暴力も全てそういう事なのだというのが、仏教の教えの根本なのです。ですから、お釈迦様の考えは、ものすごく科学的な新宗教であると、そのように思わせていただきます。
それではその苦しみ悩みの因である因縁を切りなさい、とお釈迦様はおっしゃるけれども果たして消えるのでしょうか?それは消えるのですよ。因縁は切ることが出来るのです。
―略―
大般涅槃経の純陀品の、純陀という鍛冶屋の青年に残された教えの中に「煩悩に執われる事は蚕の繭のごとく自縛なり、身は苦しみの集まるところ。いかで、これを楽しみとせん・・・。離欲の正しき思惟は真実道を覚り、執着の存在を否定するものは(執着というのは煩悩から出てくるものです)直ちに涅槃を証すべし」このように書かれております。
煩悩を切りなさい、煩悩を断絶しなさいとお釈迦様はおっしゃるけれども、これはどういう事なのでしょうか?
人間は皆、煩悩を持っています。いろいろな欲望、もっとお金が欲しいとか、もっと美味しいものが食べたいとか、これを失いたくないとか・・・。その煩悩が原因で三業・身口意の三業を犯します。身体で犯す業、盗みとか、殺すとか、いろいろあるでしょう。お金が欲しいから人を殺して取るとか、皆煩悩から来ています。それから口で犯す業。霊感商法とか、人を騙してお金を取るとか、ウソをつくとかあるいは悪口を言う。その憎いという思う煩悩によって悪口が出てくる訳です。それから意業。惜しい・欲しいの心とか、怒りとか、そういう心で犯す業。そういう業を三業と言います。その三業が実は、悪因悪果の原因になっている訳です。だから三業の因であるところの煩悩を断ち切っていくということは、三業を犯さないという事。煩悩を断ち切ることによってこれ以上、盗んだり、悪口言ったり、ウソを言ったり腹を立てたりしない事、それを三業浄化と言うのですけれども、三業の因になるところの煩悩を絶つ事、即ち三業を犯さないようにしていくという事が浄めとなり、因縁切りになっていく訳です。煩悩尽き終わればと言うのは、その三業を犯さなくなるという事であります。
真如教主様は、苑歌によってわかりやすく、この事をお説き下さっています。
身口意の業の浄めも語をかえば、因縁切りの道と言うなり
真如教主様のご注釈に、身口意の三業を浄化する事は、即ち因縁消除の道である。そして、因縁を浄めて行くことが正しい仏法を修めることであり、更にいうなら運命を改革することである。夫婦喧嘩とか、親子喧嘩とか、一切の争いを無くして、本当に穏やかな心境になった時に、因縁は切れていく。そして運命も変わるのだよ、と教えてくださっています。

<その2>
では、その三業を浄化、これ以上三業を犯さないだけで因縁は完全に切れるのでしょうか。もしそれならば、簡単です。今日、この三業を犯すことの愚かさを聞いたからには、今日からは絶対にもちろん盗みなんかはしないでしょうけれども、人の悪口を言ったり、うそを言ったり、腹を立てたり、惜しみの心を出したり、そういう事をやめるよう、努力して因縁切りの幸せを求める第一歩を歩み始めるでしょう。
しかし、今日以降は良いとしても、今日以前にやってしまった三業はどうなるのでしょう。これは、もう一度フィルムを逆戻しにして、子供の時代からやり直しにしてという訳には参りません。今まで散々業を犯してきましたね。例えば、学生時代にキセル等軽い気持ちでやったと思いますが、それは盗みなのです。そういう過去の犯した業は一体どうなるのでしょう。もう消せない「宿業」という訳なのです。
又、自分だけでなく、ご先祖の業はどうなるのでしょう。
今日以降は自分で責任を持つとして、今日より以前の生まれてこのかたと、生まれる前のご先祖の業はどうなるのでしょう。「親の因果が子に報い」という訳ですから、それではどうしたらいいのだと言うことになります。この真如み教えでは、過去に犯した三業まで遡って浄めていく事が出来るのであります。もちろんそれには、それだけの取り組みをしていかなければなりません。ではどういう取り組みが必要なのでしょう。
教主様は苑歌で、「運命を変える秘伝は口にあり、悪口の出離第一としれ」とご教導下さっていますけれど、悪口を言わないだけでも運命は変わるんだよと。
それほど、業というものは、大きな影響力を持っているわけです。三業は勿論浄めれば因縁切りになりますが、運命を変える秘訣は口にあると言われています。悪口、人の悪口を言わないだけでも運命は変わるのだよと教えて下さっています。それほど、三業浄化というものは大切なのです。 しかし、これからは良いとしても、過去のものはどうしたら良いのでしょうか。もう消す事はできないのか?と心配になってきます。教主様は三つの歩み(真如教徒の修行の根本)によって過去の業も消す事が出来ると教えております。

出家には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)と六つの修行がありますが、真如苑は在家の教えですからその六つを要約して歓喜・ご奉仕・お救けの三つの歩みの修行をすればよろしいと教えております。
身業 身体で犯した業を逆上って浄めていくにはどうしたらいいかといいますと、この身体で犯した業というものは、この身体をみ仏様に捧げていく行いによって浄めていく事が出来るので、それが即ちご奉仕なのです。過去に犯した身業もご奉仕によって浄めさせて頂くことが出来るのです。
口業 散々人の悪口を言って、汚してきた口は、この尊い教えを他に語らせて頂くことによって浄まっていくのであります。
意業 心で犯した腹立ちとか、惜しい欲しい心は、歓喜(布施行)によって浄めていくことが出来ます。お金が命より大事な人、命の次に大事だと思っている人、執着の一番強いのがお金です。人が執着するお金をみ仏様に浄財として捧げていく。そうする事によって過去の心無い貪欲な自分の業も浄めていくことができるのであります。
即ち、この三つの歩みというのは、三業浄化の為の修行でありますけれども、逆にこれは大乗利他の心で三つの歩みを実践していく時、徳積みにもなっていく訳であります。三業浄化は悪因を消して、良い原因を作っていくことになります。善因善果、悪因悪果ですから、善因を増やし、悪果をなくしていけば、段々幸せになっていくことになります。
今まで自分中心だったから、この三業を犯した訳です。それを他の方のために三つの歩み、他の方のためにご奉仕をさせていただき、他の方のためにお救けをさせていただき、他の方のために歓喜をさせていただく、いわゆる罪滅ぼしをさせていただくことによって、悪因が消え、善因が増えることになる訳です。
段々わかってきましたが、先ほどちょっと、ふれました「徳と因縁」という問題を考えてみましょう。三つの歩みをすることによって、徳が積めると申しましたが、よく経親さんとか導き親さんとかから、「あなたは、徳がないから、いろいろな悪いことが起こるのですよ。」と言われた事があると思うのですが、人にはそれぞれ備わった徳というものがあります。因縁の逆ですね。
信仰というものは、「徳と因縁の戦い」であると言われております。徳が無い時は因縁が栄えるので、苦しみが多くなっていくのであります。そこで教えに入って三つの歩みを実践し利他に尽くすことによって、次第に徳が積まれてまいります。因縁と徳というのは、ばい菌と栄養みたいなもので、栄養がどんどんつきますと、ばい菌が死んでいくみたいなものですね。徳とどんどん積んでいきますと、因縁は衰えていく訳です。因縁だらけで苦しい中を一生懸命に徳と積んでいく努力、それが即ち徳と因縁の戦いです。真如苑の教えは、その徳を積んでいくという事が、一つの又、因縁を抑えていく方法にもなる訳です。例えば、身体で言えば栄養失調の時、栄養不良の時、すぐ風邪をひいたり、お腹をこわしたり、疲れたりしますね。それと同じように、徳がなかったらいろいろな不幸が次々と出てくる訳です。だけど人間うんと栄養をつけ、充分に栄養が足りたら、少々悪いものを食べてもお腹をこわさないし、薄着したって風邪もひかない。だから
栄養をつける事によって病気も治せる訳でしょう。ある程度、お薬も必要でしょうけれども、
まず体力をつけないことには手術もできないし、病気も治らない。その体力にあたるものが徳なのですよ。それはどうしたらできるかと言えば、三つの歩みなのですよ。

<その3>
歓喜積み、お救けこそは積み磨き、奉仕は磨く徳と知れ人
苑歌に言われているように歓喜というのは、積んでいく。徳を増やしていく方法であります。お救けというのは増やすと同時に磨いていく修行、二つの修行が出来る訳です。
ご奉仕は磨いていく修行であり、このように増やしながら磨いていく徳の力によって、因縁がだんだん押さえられていって、家の中もがらっと変わってくることになります。だから、三つの歩みというのは、三業浄化を遡ってする尊い修行であると同時に、徳を積んでいく事ができるのであります。
もっとわかりやすく言いますと、徳の器というのは皆さん生まれた時に、それぞれ持って生まれている訳です。オギャアと生まれた時に、小さな器に生まれてしまっているか、もっと大きな器を貰って生まれているかによって、その人の幸・不幸が決まってしまう訳です。ものすごく小さな器に生まれた人は、そのまま霊界に逆戻りしてしまう。大きな器に生まれた人は、何も努力しなくても、どんどん幸せになっていくのであります。子供の頃には、まだあまりわかりませんけれども、社会に出て4、5年経ってごらんなさい、ものすごく幸せになっている人と、ものすごく不幸になっている人があります。もう十年経つともっとその差が開いてきますね。どんなに努力しも、その器一杯の幸せしか入らない訳です。だから努力しても報われないというのは徳が足りない訳です。経親さんが「貴方は徳がないからいろいろ苦労があるのよ」と言われるのは真実なのです。その徳の器というものは、オチョコのようなものから、湯のみ茶碗、あるいは丼のようなものから、洗面器、バケツのようなものだったり、いろいろな大きさの人がいらっしゃる訳ですけれども、その器は変えられないのですよ。変えられないから運命と言われる訳ですよ。
しかしながら真如苑ではその変えられないはずの器を大きく変えていく事が出来る訳です。ですから教えを求めて徳積みをして、三つの歩みを重ねていった時に、だんだんとその家の状況が変わってくるのです。今まで、公団住宅なんて当たったことがないのに、真如苑に入信させてもらった途端当たったとかね。今までこぼれていたものが器が大きくなった分だけ入るようになった訳です。今まで逃げていた幸せが逃げなくなってくる。だから真如苑に入って一生懸命三つの歩みをしていけば、だんだん商売も繁盛してくるし、売上も伸びてくるし、というケースが多いのは、目には見えないけれども徳の器が大きくなった分だけ、今までこぼれていた幸せが入るようになってきている訳なのです。だから、真如苑は運命を変える事の出来る運命改革の教えと言われている所以であります。

運・不運とは結局徳があるか、ないかという事によって決まると思うのです。先ほど苑歌を示しましたけれども、歓喜は器を大きくしていく修行であり、ご奉仕はその器を磨く修行なのです。そして、お救けは、器を大きくしながら、なおかつ磨く修行といわれています。三つの歩みというのは、何も教団の真如教徒の数を増やせとか、お金を集めろとか、そういう事とは全然違う訳です。あくまでも教団の為ではなくて、自分の幸せのために自分の徳の器を大きくしていくために、させて頂くのであり、運命を変えて頂くためにする修行だという事です。それがわかりませんと、他の教えとの区別がなくなってしまい見分けがつかなくなってしまう訳です。
では、その因縁というのは全て三業からくるのか、そしてその三業を浄化し、三つの歩みを重ねて、遡って消してしまえば、完全に幸せになるかと言いますと、まだ何かあるのですね。それは何かと言えば、自分の業とか、ご先祖の業ばかりではなくて、たまたまそこに住み着いた土地の霊、地縛霊、処刑場の跡地と知らずに住み込んでしまったとか、お寺の後を仕事とはいえ掘り返して建築をしてしまったとか、「袖触れ合うのも他生の縁」というのでしょうか、何の因果でそこに穴を掘ったりしなければならなかったか、何でそこへ引越しして行ったのか分からない。やっぱり何かつながりがあるのでしょう。けれども、それは悪いことをしたからではなくて、たまたまそこへ住み込んでしまった、或いは、ご先祖様が良いか悪いかは別として、神仏を使いものにしたその祟りとか、或いは、ご夫婦で和合できないのは、背後霊がお互いにいがみ合って和合が出来ない。それは三業とは関係なく、背後霊が和合できないためであります。又、何かの拍子に人から怨みの念を受けた生霊というものもあり、或いは猟が好きで鉄砲を撃って沢山の動物を殺してきたために動物霊がかかってくるとか、そういうものも、やはり今、我々の苦しみの因になっているのです。それも真如苑では接心修行によってわからせて頂く事ができるのです。
現在、自分の腰が痛いとか、リュウマチとか或いは家庭内暴力だとか、商売がうまくいかないとか、そういういろいろな苦しみがありますけれども、その原因が何なのか、接心修行で教えていただけるのです。だから真如苑の教えは徹底的に苦しみの因を追及し、それを浄めていく事が出来るから救われる訳です。
その接心修行によって口が示され、自分では人の悪口を言った覚えはない、業は犯していないと思っても何げなく言った言葉によって相手が傷つけられていたら、これはやはり口業です。貴方が気づかずに言っている言葉が相手を傷つけているのですよ、とちゃんと教えてもらえる訳なのです。自分で気づかないことは、見逃してしまう。知らぬ間に三業を犯しているかもしれません。それも接心修行によって教えて下さってストップをかけて下さるのですから、幸せになる以外にない訳です。
この教えに入ったら苦しみのもとを全部、根こそぎ教えて下さる訳ですから、ちゃんと真面目に求めていれば、
即ちご霊言の通りに実践をし、教えを信じて、み心に添って良いことをしていれば、幸せになるはずなのです。それを疑ったり、反発したり自分勝手に解釈して求めると、なかなか解決しないのです。背後霊とか信仰障害霊だとかそうしたものは、お護摩とか、お施餓鬼によって浄めていただくことが出来る訳です。 そして、その接心修行。その素晴らしい接心修行は、世界中で真如苑にしかないものなのであります。初信の皆さんにとっては、ただお伺い的にいろいろ苦しみのもとを教えて貰えるのだという程度の解釈しかなく、深い意味はおわかりにならないかもしれませんけれども、これが本来の仏教の根本なのです。お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開いて、仏となられ、「誰でも修行によって仏になれるのだよ」と、その仏になる方法を四十五年の間、お説きになりました。
一般に人が亡くなると成仏したと言いますが、お釈迦様は生きている時に成仏しなさいと、お説きになったのが仏教なのです。だから、お釈迦様の説かれた教えの中には、葬式とか法事の事など一切ふれてありません。衆生一人一人が仏になっていった時に、幸せになれるのだよと。人は皆、仏になっていく素質を持っている。仏性という仏になる性をどんな人でも持っているからして、修行してこの世で仏になっていきなさいというのが、本来の仏教であり、その通りに修行できるのが、この真如苑の教えなのです。真如教主様は、二千五百年前のお釈迦様の説かれた真の仏教に遡って教えを開いて下さった訳であります。そしてそのために必要なのが、接心修行なのです。

<その4>
ちょっとこんがらがって来たかもしれませんね。因縁切りの教えと聞いて入ってきたら、仏になる教えだと言われて、今とまどっていらっしゃるかもしれませんが、仏になっていくことが幸せになってゆくことなのです。どんな形をしているか知れませんが、皆さん仏性を持っているのですよ。しかし、すぐに仏になれないのは、
その仏性を汚しているものが一杯ある訳です。それが、ご先祖様の業であり、自分が犯した業、いろいろな地縛霊だとか。いろんなものが、仏にさせまいとする汚れになってこびりついている訳です仏性に。だからその仏性にこびりついている汚れが、即ち因縁といわれるものであって、それが原因でいろいろな苦しみがある訳です。因縁は顔についているのではないのですよ。この仏性にくっついているのです。 顔ならば、鏡を見れば、ああここにあるな、とわかって取りますけれども、仏性を映す鏡はありません。しかし真如苑にはあるのです。霊能者なのです。霊能者が鏡なのですよ。
接心を頂くということは、霊能者の鏡に自分の仏性を映す事なのです。霊能鏡、ミーディアム。接心修行で座る。霊能者が前に来てくださる。その霊能者の鏡に自分の仏性がパッと映し出される訳です。そして
貴方の仏性にこういうものがくっついていますよ、汚れていますよと教えて下さいます。それは、ご先祖であったり、地縛霊であったり信仰障害霊であったり、また、三業であったりいろいろな事が映し出される。映し出されるものを霊能者は霊言として教えて下さる訳です。「水子が示されますよ」て、その通りそれをお施餓鬼するなり、お浄めするなり、三つの歩みをするなりして、一つ一つ教えられた汚れが取れていく訳なのです。汚れが取れるという事は、その因縁が無くなることなのです。
そしてだんだんその汚れが取れていったら、その中にある仏性が顔を出してくる訳です。
その顔の出し具合によって、大乗という霊位を頂き、歓喜という霊位を頂くことになります。もっと磨いて綺麗になったら大歓喜となり、もっと光ってきたら霊能者になれるのです。大乗を頂くという事は、仏様と人間の間の羅漢様になることです。五百羅漢とか十六羅漢とかありますね。歓喜を開くという事は菩薩の仲間入り、菩薩の初地、そして大歓喜を頂くという事は、菩薩の中の大菩薩に近づいてきている訳で、霊能を開くという事は即身成仏。この世で、ある一面が仏性が磨かれて霊能者になって、お釈迦様が、皆、仏に成りなさいとおっしゃっている通りの事が、実現する訳です。だから真如苑の教えは因縁切りの教えですけれども、成仏道の教えである。仏になっていく修行、教えであると言えるのです。 二千五百年前に、お釈迦様がお説きになった素晴らしい教えを、二千五百年経った今、始めて真如教主様が、この世に実現して下さった訳ですから、皆さんのお家の仏教とは根本的に違うのです。全く、他の信仰とこれほど違うかと思う程、違うのです。本当の仏教、お釈迦様が説かれた真に救われる教えであります。
その接心修行というのは、摂受院様が、昭和十一年二月四日に、おばあさまから伝わっている法華経の霊能を、伯母玉恵さまから、引き継がれて三代目の霊能者になられた。そしてそれが真如霊能の始まりであります。即ち、法華の霊能から、真如の霊能に変わった最初の霊能者になられた訳です。だから真如霊祖と摂受院様のことを申し上げます。そしてたった一人の偉大な摂受院様から今では、千何百人かの霊能者が生まれている訳です。その霊能者が皆さん一人一人に仏性開発(接心修行により仏性にくっついている汚れを教えて頂き、浄めて下さる)それが、因縁切りです。そして、その因縁が切れていったあかつきに、その人も霊能者になっていくのです。生きたままで、仏様、即身成仏、入我我入といわれておりますけれども、そういうようになっていく。だからご利益というのではなくて、完全な形での幸せ、生きたままで仏様になっていく幸せを得ていくことが出来るのであります。

真如苑は仏教です。他の皆さんのお家も仏教です。ですけれど、いろいろ違うところがあります。お釈迦様は、四十五年間ずっと教えを説いてこられて、
一切経という膨大なお経があります。けれども、その中で、八十歳の二月十五日に涅槃のお姿でもって、遺言の教えとしての全てを含めてお説きになったのが、大般涅槃経なのであります。そしてその大般涅槃経はどんな教えかと言いますと、涅槃経・聖行品に書かれているのですけれど、涅槃経は一切の大乗経典即ち皆さんのお家のお経やいろいろな宗派のお経(法華経・阿弥陀経・等々)それらの大乗経典に比べて、百倍・千倍・百千万倍の功徳成就があり、救いの力が大きいと言われています。だから皆さんのお家の仏教で救われなくたって、真如苑の教えで救われるのは当たり前なのです。お経の功徳が、百倍・千倍・百千万倍あるわけですから、しかもこのお経の中に二千五百年前の二月十五日に亡くなられたお釈迦様が今なお生きていらっしゃる訳です。涅槃経の中に他の菩薩摩訶薩と一緒に常住されているのです。私達は、仏教の膨大なお経の中の遺言として最後にお説きになり、今なおその中にお釈迦様が生きていらっしゃる涅槃経に結ばれたのであります。 だから、私達がやる事なす事、すべてに効果が現れてくるのです。悪い事をしたら、護法善神様(仏法を護り、仏教を志す人を護って下さる神様)のお叱りを受けるし、良い事をしたら、即その反応があらわれてくるのです。じゃあ今日からこの教えをやってみよう、命賭けてやってみようと決心されたら、今から変わる筈ですよ。何故ならば生きたお釈迦様が見てくださっているから。「本当にやるのだな。やるのなら変えてあげましょう」と両童子様が抜苦代受して下さるのです。
このお経は、お釈迦様が亡くなられてから二千五百年の間、誰一人として説けなかったのです。それを教主様がお説き下さったのであります。 お釈迦様は、大般涅槃経・四依品の中で、弟子の迦葉菩薩に次のように言い残されております。「この大般涅槃経は如来が入滅してから四十年ほどは盛んに流布され、説かれるであろう。しかし四十年を経たら地中に隠没してしまうであろう。そしてその後は無数の仏法の教徒と称するものはあるが、教義の深奥を極めることをせず、自己の趣味や好みに合わせて大乗経を宣揚し、又生活や利益のために説く者が多く、真の正法を普及するものはいない」と。そして、また「これ善男子よ、ひとたび地中に没したこの経典もずっと後の世に再び、この世に現れて、あたかも大雨が国土をうるおすように、大教化を与えるであろう」形は出家であっても、世間法的な物のみを追う破壊非律の徒にまじって仏道に励み、正法宣揚に燃え、正法興隆の時を待つ者がある。その説く者が出てくるその時に本当の仏法が栄えるであろう、と大般涅槃経四依品に、はっきり残されている訳です。 そしてそのお釈迦様の予言通りに真如教主様が、この世に現れ、誰一人説く事の出来なかった、あの弘法大師様ですら、涅槃経からいろは歌をお作りになっただけであります。
「諸行無常 是生滅法」というあの聖行品の一節から「いろはにほへと・・・・」と言うあのいろは歌をお作りになっただけで終わっています。 平家物語の一節、冒頭に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」あれも、涅槃経の一節です。けれども文学として残されているのであって、宗教として仏教として始めて説かれ残されたのは真如教主様だけであるという事です。
その真如教主様に巡り会えたという事が、そしてその真如教主様がお釈迦様と同じように、
全衆生、人類、地球、宇宙をも救いたいと願われて宇宙の創源におかえりになって、そしてその人類、地球、宇宙を救う総合道場の一環がもう、間もなく目の前に迫っています。
悠音精舎の落慶によってその予言は実現したことになる訳です。
そして真如苑の特色というのは、その大般涅槃経にあるのです。これはもう世界で真如苑しか無いし、真如教主様しか説けなかったのです。そして真如霊能というものがあって、これは接心修行、又いろいろな霊界のお力というものも、そこに顕現されておりますし、宝の三つ目に、伝統の法脈があります。大日如来様、弘法大師様から流れている真言伝統の法脈を真如教主様は醍醐寺にて相承されて、そしてそれを基盤に霊能と涅槃経を加えた真如法脈という新しい法脈を、とてつもない大きな救いのある法脈を確立されて、今私達が生かされていることを、よくよく知って頂きたいと思います。 両童子様が霊界に逝かれる事によって、抜苦代受という救いを頂き、又摂受院様のご遷化によって、他の教えを求めている人も、この教えを求める事が出来るようになり、摂受の大道が開かれ、そして又、真如教主様のご遷化によって真如教法の救いの極みと言われる済摂の大きな救いの力を今、我々に流して下さっているのです。
一時間たってしまいましたので、「幸せを求めて」という題でございましたけれども、本当に真如み教えで、本当に仏教で救われるのかという疑問が、少しはとけて頂けたのではないかと、少しでもおわかり頂けたら有り難いと思います。これで今日の初信者懇談会を終わらせて頂きます。







 【総 評】

 

>仏教は救われていく教えである。救われる教えであると言うことは、はっきり言えるわけです。
>であればこそ二千五百年もの間、存在するだけの価値のある偉大な教えであったといえます。

↑ まずはこのように仏教を 伝統ある偉大なご利益ある宗教であると 一旦持ち上げて います。
もちろん本来仏教の「救われる」は、病貧争から逃れられるという 新興宗教のご利益とはまったく違うものです。

>けれども家の仏教ではいろんな問題は解決しなかった。
>お釈迦様の教えの中には、お葬式や法事のことなど何も説いていらっしゃらない訳で、
>違う方面のお世話をするようなお立場になったのが、今の菩提寺ということになったわけです。

↑ そして 日本伝統仏教は本来の物でない、効果が無い、と下ろします。

>真如教主様が偉大なのは、再びその仏教というものを、
>二千五百年まえに、お釈迦さまが人を救っていく為にお説きになった本来の仏教に戻されたという事です。
>元の二千五百年前のお釈迦様の仏教をもう一度呼び戻されたのであります。

↑ さてこれはいかがでしょうか。 果して、真如苑は、本来の仏教に近いのでしょうか。それとも・・・・・・・

>仏教と言えば、因縁、その因縁を切れば幸せになっていけるというのが、一つの大きな救いの根本になっている訳です。

↑ 仏教における「因縁」とは「物事の関係性を顕す語」なので ご利益や災難などの「事象を顕す語」ではありません。
ですから 因縁を切ることは 仏教では出来ません。 全ては因と縁から生ずるからです。

>良い原因があれば良い結果が出てくるし、悪い原因があれば悪い結果が出てくる。
↑ これは合ってますね。 仏教は理論の教えです。

>その苦しい方の悩み苦しみのもとの因縁を切りなさい、なくしなさいと説かれたのです。
>そうしたら、悩み苦しみは無くなって幸せが得られるよ、という事です。
>和合できないとか、いろんな事故に会いやすいとか、そういう目に見えないものにまで、全部原因があるから、そういう結果が出てくる。

ここが 真如苑が仏教を汚した中枢部分ですね。 とは言っても、他の仏教系カルトも同じ罪です。
釈迦は 「迷信的不合理」を排除した宗教家として有名ですが 以下は彼の言葉です。

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比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。
「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、
鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、
のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
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ブッダは、人間苦を成立せしめる原因となり条件となっているものに対する無明(無知)を克服すること(知)
こそが救いの道であると考えた(縁起の思想)ため、
形而上学的見解(空想的ことがら)については、それは知ではないとして認めませんでした。
そのため、人間にとって有意義な「一切」とは、人間の知の及ぶ世界と内察できる心だけであり、
それ以外の「一切」を説こうとすると、根拠がないので単なる言葉だけに終わるであろうと説きました。
真如苑さんは、霊界の神秘的世界など人間の知の能力を超える事柄について、たくさん語られているわけです。

架空の因果関係を説いたりするような非科学的迷信的不合理は 法ということはできません。(P64)

ただし上記
>良い原因があれば良い結果が出てくるし、悪い原因があれば悪い結果が出てくる。
の部分も 必ずしも正解ではありません。善人が悲惨な目に遭うのがこの世の常。 それだと世の中が悪人ばかりになるので、
釈迦は「三世因果の法則」(業報思想)を 修行前提の「信仰」として 推奨しました。
ただし 何にも依らない「空」の立場に立つためには それに執着せず あたかも彼岸に到達するための乗り物のように「前提」として扱います。
現在・過去・未来の「三世」を認めないことは「邪見」とされますが 一方 「霊界」などという概念を 認めたり論じたりすること
もまた「身見」とされ 仏教では「悪」とされます。

この手の質問に対して釈尊がとった態度は徹頭徹尾「無記」であったと言われています (毒矢の例えなど)。

人間は皆、煩悩を持っています。 いろいろな欲望、
超能力が欲しいとか、宇宙を救いたいとか、ゴ利益が欲しいとか、絶対的な指導者に 付いて行きたいとか・・・。
その煩悩が原因で 釣られ、霊感商法に荷担してしまうことになります。

>過去の犯した業は一体どうなるのでしょう。もう消せない「宿業」という訳なのです。
>又、自分だけでなく、ご先祖の業はどうなるのでしょう。
>教主様は三つの歩み(真如教徒の修行の根本)によって過去の業も消す事が出来ると教えております。

さてさて 来ました。

自分と先祖の 過去の宿業を消すには 3つの 献金勧誘献身ですね。 上記内容に納得したなら
是非あなたも「実践」してください。もちろん過去の業が消えたかどうかは 確認できませんが。 それが霊感笑法というものです。
もう消せない!と言いつつ 『組織への3つの貢献でのみ救われる』と言う訳ですね。


ちなみに大分昔、ある青年が こんな事を言っていました。↓
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彼はそのとき、ナーランダ近郊のとある林の中にいた。 そこに村長がやって来て、彼に問いかけた。

「バラモンたちが言っているところによると、彼らが儀式を執り行えば、死者はたちまち天上界に再生するそうだ。
どうだ、お前も同じことができるか?」

彼に対する村長の態度は、いささか傲慢不遜であった。
しかし彼は、そんな不躾な質問に慣れていた。 別段顔色も変えずに、彼はこんなふうに応えた。

「その問いに答える前に、村長、私からひとつ質問したい。
湖があって、仮にその湖に大きな石を投げ込んだとしよう。 当然に、石は底に沈むだろう。
そしてその後で、人々が集まって、湖の周りで『石よ浮かべ、石よ浮かべ』と祈願するのだ。
すると、石は浮き上がってくるだろうか?」

「いいや、そんなことはない」

「村長よ、それと同じなんだよ。

生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後地獄に堕ちても、いくら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはない・・・。」

「それからね、村長。
今度は、ビンに油を入れて湖に投じたとしよう。 そして、ビンが割れたとする。
すると油が浮き上がってくる。 人々がそこで、『油よ沈め、油よ沈め』と祈願するのだ。 すると、油は沈むだろうか?」

「いいえ、そんなことはありません。 油は浮くに決まっています」

「それと同じことなんだよ。
生前に善行を積み重ねた者は、死後天上界に生まれ、地獄に堕ちることはない。 村長よ、これがあなたに対する解答である。」

彼はそう言い終えて、村長に向かってにっこりと微笑んだ。   (『南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ)
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さて。上記発言者が 偉い僧だか凡人だか、そんなことはどうでも良いのです。

血脈相承だか教授だか、そんな「執われ」から解き放たれるのが 「到涅槃」なのですから。
もちろん「血脈相承」というのは ウパニシャッドのシステムであり 仏教とは無関係です。

>ものすごく小さな器に生まれた人は、そのまま霊界に逆戻りしてしまう。
伊藤料童子さまの「夭逝」は器が小さかったということでしょうか。随分な言い方ですね。 ご都合主義に浸れるのが カルトの長所です。

>だから努力しても報われないというのは徳が足りない訳です。
献金や勧誘が足りないということですね。 確かなのは 能力が低い人は 報われないことが多いですね。 報われない・心に隙がある方は
カルトに入り 清浄風味の汚濁に包まれ 安心することが多いようです。 だからこそ「イケテナイ」と言われてしまいますが
組織はおだてて木に登らせますので それはかなり面白い学芸会です。

>今まで、公団住宅なんて当たったことがないのに、真如苑に入信させてもらった途端当たったとかね。
創価学会では「都営住宅」が当たりますね。 もちろん仏教では 何も当たりません。 そういうものではないです。

>三つの歩みというのは、何も教団の真如教徒の数を増やせとか、お金を集めろとか、そういう事とは全然違う訳です。
違うなら あえて違うと 言う必要も無いはずですよね。
>それがわかりませんと、他の教えとの区別がなくなってしまい見分けがつかなくなってしまう訳です。
まず呼び名が 違いますね。 構造的には
他の教え(キリスト教やオウムや創価)と ほぼ同じなので 区別がなくなってしまい見分けがつかなくなってしまう訳ですね。
似ているからこそ 違うとあえて 言う必要が発生します。

>たまたまそこに住み着いた土地の霊、地縛霊、処刑場の跡地と知らずに住み込んでしまったとか、
>沢山の動物を殺してきたために動物霊がかかってくるとか、そういうものも、やはり今、我々の苦しみの因になっているのです。
>それを疑ったり、反発したり自分勝手に解釈して求めると、なかなか解決しないのです。

妄想的因果関係を説いたりするような非科学的迷信的不合理は 法ということはできないのです。

>その素晴らしい接心修行は、世界中で真如苑にしかないものなのであります。
「真光」
にもありますし 日本の新興宗教には「多い」ですね。

>真如教主様は、二千五百年前のお釈迦様の説かれた真の仏教に遡って教えを開いて下さった訳であります。
訂正します。
真如教主様は、二千五百年前から説かれたいろんな仏教を再構成して捏造や手口も加えながら教えを開いて下さった訳であります。
特別な宗教という感じも 無いですね。
元々1つであったものを 大乗が儲けるために、8万4千にまで「増合」してしまったところに 問題が在ります。

>「この大般涅槃経は如来が入滅してから四十年ほどは盛んに流布され、説かれるであろう。
>そしてその後は無数の仏法の教徒と称するものはあるが、
>自己の趣味や好みに合わせて大乗経を宣揚し、又生活や利益のために説く者が多く、真の正法を普及するものはいない」と。

真の正法を普及するものはいない。どころか「自己の趣味や都合に合わせて」営利的に替える者ばかりですね。
日本人は仏教を知らないので 容易に信じます。
そもそも日本仏教は 輸入された時点から勘違いされていますし
中国からは だいぶ変えられた物が入ってきて さらに国内で再構成されました。もちろん全て 政治的理由です。

>あの弘法大師様ですら、いろは歌をお作りになっただけで終わっています。

大師にとって 密教>顕教ですから 言葉遊び以上の扱いはする気が無かっただけです。
始祖の権威を利用しつつそれよりも上だとのたまう。 それが「大乗精神」です。
キリスト教やら密教やら仏教やら空海やらの 権威を借りるのに「それを超えている」と言いたい訳ですね。

密教は仏教に「加上」されたものだというのに 涅槃経に帰依とは ずいぶん大胆です。
もちろんどう「大胆」なのか。信者には理解できません。 知らないからです。   

 

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