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□真如苑霊能者のありがたいお話  ザ! 真如苑 その5 より

 

 

[779]  06/01/14 21:13 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

今日は、霊能者のお話を聞いてみましょう。

護法善神さまについて

 私はね、特級教師っていって、誰にでも教化できるんだよ。だから、霊能とる日は何時でもここにいて、智流学院専門に、今は教化しているんだ。近頃はいろんなことがメチャクチャだからね。
今の教徒たちは、食事観念をお唱えしているかい?一人でやっても駄目なんだよ。
家族みんなでお唱えしなけりゃ、折角あんたがやったって、すぐに汚されてしまうんだから。何故、食事観念をお唱えするのか。それは、物に感謝できないような人を護法善神さまはご加護下さらないからだよ。物に感謝出来ないような人、それから例えば、履物を脱ぎっぱなしにするような人を護法善神さまは一番お嫌いになるね。護法善神さまのご加護をいただかなけりゃ祈れないんだよ。だから、みんな祈りがないんだね。みんな祈りがない。
私なんか導き親が教主さまだよ。祈る事ばかり教えていただいたものなんだ。
 あんた祈れているかい?例えば、読経中に妄念が湧くだろう?これはもうリブライなんだよ。
祈りでもなんでもない。「正しい信仰してませんよ」って霊界が教えて下さっているんだよ。信仰が欲しい、惜しいの信仰になっている証拠なんだよ。
 こういう時は、すぐに接心に取り組むんだよ。
「読経中に妄念が湧いてくるのですが、どんなふうに取り組んでいったらいいでしょうか」ってね。祈りのない時に向上接心なんかいただいても無駄なんだよ。祈りのない時にいただいて良いのは、向上相談接心だけ。向上相談接心をどんどんいただいて心を浄めていかなくちゃ。
接心というのは、心を浄めていただく為にいただくものなんだよ。祈りのない時、向上接心をいただいてもご霊言はいただけるよ。でも霊言のとおりには絶対行えないんだよ。行えないって事がリブライなんだよ。だから今度は「何故ご霊言のとおりに行えないんでしょうか」ってまた向上相談接心をいただかなきゃならなくなる。
申し訳ないだろう?
 その代わり向上接心なんかでいただいたご霊言が納得できないような時は、向上相談接心で何回も納得できるまでいただいていくんだよ。納得できないという事は、何か自分でも分からない、浄まっていないものがある証拠なんだから。
接心は心を清らかにしていただく為にいただくものなんだから。いつも心を清らかにして、祈りをもっていなけりゃ駄目なんだ。でなきゃみんな教主さまにご負担がかかっちゃうんだよ。あんたたちには分からないんだよ。
祈りがない時には、教えに結ばれていたって教徒でも何でもないんだ。法流が流れていないんだから。護法善神さまが法流を流してくださらないんだから。祈りのない時はご奉仕をしたって無駄だよ。そりゃ世間法と同じだ。修行にならないんだよ。お施餓鬼したって霊界に届きゃしないよ。
 教主さまは届けてくださるけど、霊界が断るからね。お施餓鬼したってご先祖は救われないままだ。

 

[780]  06/01/14 21:14 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

 昔、女房が髪の毛の抜ける病気にかかった事があって、すぐ教主さまに伺ったんだ。そしたら一言、祈りがないからだっておっしゃったけれど、祈りになってなかったんだ。それを教えて下さる霊界からのリブライだったんだよ。何時の間にか、欲しい、惜しいの信仰になっていたんだね。
 祈りがあれば、護法善神さまは絶えず信号で教えてくださる。苑歌があるだろう?
「何見てもみ法示さぬものはなし おのが心に菩提ありなば」って。あれは、祈りがあればこそ解る苑歌なんだよ。
例えば暗い道を通る時、「あっ、何か変だな」と感じるとか、それから夢。夢ってのは起きてしばらくすると忘れちまうものだけれど、いつまでも覚えているようなのは、こりゃリブライだからすぐに接心に取り組むこと。祈りがある時は、三つの歩みの、特にお救けなんて面白いように出来るものなんだ。どの人に教えをお取次ぎすべきかだってわかっちゃうんだよ。護法善神さまが教えてくださる。だから百発百中だよ。摂受院さまと両童子さまがお救けにどのくらいお力を下さるか知っているかい?そりゃものすごいものなんだよ。だって真如苑の教えは人をお救けしていく教えなんだから。その為にはいくらだってお力を下さるんだよ。お救けしたくていろいろ話しても、どうしても駄目だって人もいるよ。そういう人は霊性が人間より下の人は、人間がどうしても救えないんだ。これは、摂受院さまと両童子さまのお手を借りなければ無理なんだよ。なのに、それをなんとかお救けしようと頑張るから、我になって、そういう時は、かならず権威教化になってるもんだ。だから余計相手が反発する。当たり前のことだよ。だったらどうするか。
 
祈るんだよ。一生懸命その人の為に祈るんだよ。その人が一日も早く、この素晴らしい教えにご縁がいただけますようにって、これこそ他がための祈りだよ。朝夕のおつとめの時に、心中祈念の中に、その人の名前を入れて祈念していくんだ。真剣に続けると、そのうち、その人は「事象」をいただくよ。悪くなっていただくんじゃないんだ。浄まってきてやっと事象がいただけるようになったって事なんだよ。やっと霊性が人間格まで上がったってことなんだよ。そうすると、「あんたの事を思い出して、向こうから頼ってくる」よ。
事象をいただかないうちにお救けしてあげたいと思うけど、こればかりはしようがないね。話をするとすぐに結ばれて素直に一人で、こつこつ歩む人もいるだろ。そういう人は仏性が上品なんだよ。とにかくお救けが楽しみで楽しみでしようがないようにならなくちゃ、とても霊位向上、とくに歓喜や大歓喜なんていただけないよ。つまり、欲しい惜しいの信心だってことだからね。この教えは人をお救けしてく教えなんだからね。

 

[781]  06/01/14 21:15 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

 だいたい、今日副門を入って、護法善神さまのお社の前で何を拝んできた?笠法さまの前で「笠法さま」って拝んできただろう。

それが間違いなんだ。いいかい!「おん、ろうきゃ、ろうきゃ、きやらやそわか」の咒の前に何と書いてある?
諸天善神咒って書いてあるんだよ。つまり、笠法さまのお社には、諸々の地霊系の護法善神さまが祀られていて、その代表が笠法さまなんだよ。だから毎日ご守護下さる諸々の護法善神さまありがとうございますって「おんろうきゃ・・・」って唱えるんだよ。
 弁才天さまも同じ天霊系の護法善神さまだって、たくさんいらっしゃって、私たちを護って下さるんだよ。じゃあ、清龍大権現さまってどんな神さまか知っているかい?天界と地界の調和を司る神様ってことはわかるかもしれないけど、つまり、じゃあそれはどういう事なのかわかるかい?そういう事がわからなくて何を拝むんだい?
 いいかい、例えば、あんたが旅行をする。飛行機で行く。事故がなく無事に帰りたいと思うだろう。そこで「無事に帰れますようにと祈る」そのあんたの祈りを天界の護法善神さまに、どうぞよろしく頼むと伝えて下さるのが清龍大権現さまなんだよ。
天界ばかりじゃない、地界の護法善神さまにもちゃんと頼んでくれる。そのおかげで今日もあんたが生きているんだよ。
 第一、あんた方、合掌っていうのが出来ているかい?やってみな?そうじゃなくてあわせた手をもっと立てるんだよ。手首に抵抗がある位。教主さまがご謹刻になった聖徳太子さまのお像の合掌を見てごらん。そんなに寝かせてないよ。きちんと立てていらっしゃる。それから足。正座の時、右の足が上にきているかい。右は仏さまだから大切にするんだよ。踏みつけたりしちゃ駄目なんだ。そういう事がちゃんと出来てなけりゃ、とても正しい祈りは出来ないんだよ。

 ついでに双親さまの額。向かって右側が上手になる。だからお亡くなりになっている摂授院さまが右で教主さまが左なんだ。ご内陣も、右が上手。だから
教主さまはいつも左におられる。来賓や教徒の代表を右の上手に座らせて下さるんだよ。何でもなくあんた方は見ているだろうけれど、勿体ないことなんだよ。そういうところに教主さまのみ心は生きているんだよ。
 とにかくこの教えは霊能者にならなきゃ駄目なんだよ。私なんか二度霊能を相承させてもらった。一度はまこと教団時代、二度目は真如苑になってから。まこと教団時代の霊能は透視の霊能だった。財布はどこかなと思うと、引き出しが透けて中に財布があるのが見えちゃうんだから。霊能っていうのはすごい。そうなるとこの教えの正しさ、偉大さ、素晴らしさがよくわかるんだ。霊能を相承した時ってのはね、一口に言えばワクワクするような最高にうれしい気持ちなんだよ。

このお話は、ある日、精舎の片隅で、お年寄りの古い霊能者の方がお話してくださったものです。

 

[836]  06/01/21 13:57 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

再び、霊能者さんのお話を聞いてみましょう。

一如の道には、ほとんど書かれていない「信仰障害」についても触れてあります。
これは、お護摩地獄、お施餓鬼地獄を永遠に継続させる一つの原因です。
中には、脅し文句やS会批判、また、これぞMCテクニックと思われる部分があります。読むとムカつく人は、スルーして下さい。

○本○吉霊能のお話
平成八年十月二十七日発行「あんてな」より(平成八年九月七日広報部全体会合の特別講演)
目次
\桔,箸
⊃声匯嫁劼反仰障害
神社参拝による両面性
た斥佑砲寛己屬靴
ゾ錣亡螳丙仝徳の祈りを
ω魏してお誓いする
Щ劼匹發了の心のシミ
読経中に睡魔に襲われ最後まで読経できない理由
金剛三昧
空三昧
無相三昧
無願三昧
定―接心の肝要
三三昧
ご讃題と摂受院さま
飴偉蕕隼飴伊
餌膤い龍気┐梁膤い箸
押崢蟲」について

 

[837]  06/01/21 13:59 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

立教六十年と正法護持

正法とは
「正法護持と定記」という難しいテーマをいただいておりますけれども、正法と言うと、反対は邪法です。邪法は壊法(えほう)とも言います。
「純陀品」のなかには、「壊れるべき法も流転して憂いを生ぜしめ」という一句があります。
邪な宗教もこの世に存在することによって流転して、めぐりめぐって人々のいろいろな悩み、苦しみのもととなる。すなわち信仰障害によって、正法に結ばれるべき人もなかなか結ばれにくい逆縁となるのです。
正しい教え、正法は、因縁切りの教え、草取り信仰でなければならないわけです。因縁の雑草を取り除いて、幸せになっていくものです。一切の執着、煩悩、欲望を超越して、涅槃の境地へ至る、そういう涅槃へ導いて頂けるのが、正法です。
邪法は、ご利益信仰、自分がよければいいという、自分の自我を主張してご利益を願っていく信仰、因果の理を否定する宗教のことです。

 

神社参拝と信仰障害
入信間もない私の所属が、ある向上接心の場で、「あなたはお宮さんに手を合わせたことがありますね。合掌して神社にお祈りしている姿が示されますよ」とご霊言をいただいたと言うのです。それが障害となって、ノイローゼになったり、家庭的に問題があったり、肉体的にもあったわけですけれども、一方、その神さまに手を合わせたことによって、「あなたは命を救われていますね。高い所から落ちたことがあるでしょう」と言われたんです。そのときは思い出せなくて、家に帰って母親に聞いたら、「ああ、おまえは高校三年生の時に自転車で道路わきから溝へ落ちたことがあったでしょう。それが案外深い所で、三メートルもあるような崖だったけれど、ほとんど無傷で助かった。岩だらけで後から見たら、よくこれで無事に助かった、命があるのが不思議だった」と言われ、
そういう経験をしていることを思い出した。神様にあの時助けられたとはまったく気がつかなかったわけです。
お宮さんに手を合わせたのが七歳の七五三の時。子ども心に、丈夫で長生きできますようにと、神様にお願いしたんですね。お願いされた神様は、純真な子どもに手を合わせられて頼まれたわけですから、なんとか護ってあげなきゃならない。
ところが、どこの神様も氏子たちにたくさん拝まれて、何百年もの間にそうとうご利益を授けて、へとへとに疲れきっている。だけど神様は、頼まれたことは無理してでも約束を果たそうとしてくださる。それで、自転車で落ちたところを助けてくださったわけです。
いまは結婚して子育てをしているわけですが、それが一つの信仰障害ともなって、いまだに尾を引いて、ときどき精神的に落ち込むことがある。

 

神社参拝による両面性
だから、プラスの面とマイナスの面と両方受けているわけです。ご利益としていただいた面と、信仰障害としていただいてしまった面とあるわけです。
誰でも、そのように一生の間には、いろいろな神様、仏様に手を合わせて拝んだ経験があるわけです。忘れていても、また自分の代でなくても、たとえばお父さん、お母さんが、自分が生まれるときに氏神さまに手を合わせて「どうか安産で、丈夫で元気な頭の良い子が生まれますように」と、拝んでくださっていたと思うんですよ。また、そのお父さん、お母さんも、生まれるときに、おじいさん、おばあさんからもそのように安産祈願で祈られている。さらには七五三のときにも、丈夫に育ちますようにと。それから、いい学校に進学できますように、卒業するといい就職ができますように、いい人とめぐり会えますように。結婚すると、いい子種に恵まれますようにと、
一生の間には何回も何回もお願いしている。それが、三代、四代、五代になってくると、大きな因縁になってその家にのしかかってくるわけです。だから、一生懸命努力をしても、なかなか幸せになれない。商売がうまくいかない。なにかしらいつも病気をしている。家の中がもめるというような、そういう事象に見舞われなければならない状態になってくるんですね。

 

[838]  06/01/21 14:03 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

神様にご恩返しを
けれども、そうした神様があって、私たちの命がある。命があることによって真如み教えにご縁がつながった。ですから皆さん誰でも、氏神様なり屋敷神様なりのお力によって命があるわけですね。屋敷神様のお稲荷さんとか氏神様、あるいは天照大神とか須佐之男命とか、日本は神の国ですから、生まれた土地の氏神様、子どもの時に手を合わせた所の氏神様、引越しした場所の氏神様、また、結婚をして子育てをしているその土地の氏神様、そういうのが重なってきますから、そうした有縁の天神地祇を摂受させていただいて、お浄めさせていただくことによって、ご恩返しができるのです。
自分だけ真如教主さま、摂受院さまの教えに結ばれて幸せになろうとしても、そうはいかないのです。今までにいろいろお世話になって借りを作ってしまっているそうした神様たちも、共にこのみ教えに摂受させていただいて、お護摩で浄めさせていただいて、自分たちと共に向上して、救われていく。
神様のお浄めのお護摩をさせていただくことによって、その神様が弁才天さま、笠法さま、清龍権現さまという真如苑の護法善神さまに霊的につなげていただけるわけです。ご眷属(けんぞく)として、家来として。
そうすると、今まで屋敷だけを護ればよかった、今まで村だけを護っていればよかったという屋敷神様、氏神様が、今度は真如苑の護法善神さまとご縁がつながって、世界、人類、地球、宇宙を救う任務がいただけるわけです。今までの縄張りの狭いところを護っていた氏神様が、今度は護法善神さまとともに世界中を護る、人類全てを護って下さる、そういう働きに出世する、向上するわけです。ですから、神様にとってこれほど大きな出世はない。それもまた、神様たちの喜びであり、神様たちの神格向上であって、私達のお救けが広がっていく背後の力になって下さるわけです。

 

常に願以此功徳の祈りを
そういう目に見えない自分達の背後のものを浄めていただけるのです。お護摩の申込用紙の、弁才天さま、笠法さま、清龍大権現さまとお浄めに○をつけて、お護摩を申込させていただいて、そこに祈りを込める。「願わくは、このお護摩の功徳を以って普く一切の人たちをお救けできますように」と。お護摩、お施餓鬼の功徳、また、月々の歓喜の功徳、全てさせていただく時には、必ずこの祈り、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」。それを日本語で、
「願わくは、このお功徳を以って普く一切に及ぼし、我等とともに皆さんがお救けできますように」と、そういう祈りを常にさせていただくのです。
早朝奉仕に行った時も、この一掃き、一掃きの早朝奉仕の功徳を以って、願わくは一切の人たちをお救けできますようにと、そういう祈りをこめていくことにより、一日の早朝奉仕が、偉大な功徳力となって社会の浄化につながってゆくのです。
お施餓鬼もお護摩でも同じことです。たとえわずかなお奠供で申し込んだとしても、そのような祈りを込めることによって、その功徳が世界中に広がる。何百倍、何万倍にその功徳が広がっていくのです。ですから、少ないお奠供で多くの功徳をいただくには、そのいう祈りを込めることが一番必要なわけです。それが神様とのお付き合いの仕方です。
正法護持、法を護らせていただく。
すなわち、真如教主さま、摂受院さまの拓かれたこの尊いみ教えを護らせていただくということは、「法のために身を滅ぼすとも法は護るべし」という護法の精神を日々実践していくことです。法のために命を投げ出すということです。教えのために死んでいく、そういう祈り。真如教主さま、摂受院さまも、立教当初から、一人一人の信者さんを救うために、その都度我が身ささぐるがゆえに、この人の心と肉体を救わせたまえ、というように祈られて、一生貫かれたのです。
そういう身代わりになるという祈りです。自分はどうなってもいい、自分の寿命を縮めてもこの所属を救っていただきたいという祈り。所属のために水行をとらせていただいて心身を浄め、「密厳院発露懺悔の文」をお唱えてして、「この方の一切の罪、とがを、我に代わって懺悔させていただきます。どうか、私の命に代えてもこの方をお救いください。必ず一如教徒としてご恩報じの道に精進するように育てさせていただきますから」と真如霊界にお約束をしていく。そのまことが通じて奇蹟的なお力が誰方の上にも頂けるのです。
そういう祈りを深めることによって、そして自分を捨てきっていくことによって、自分の寿命をいただくことができるんです。
身を滅ぼすということは肉体的な生命だけではなく物質的なものを捨てきって、メンツとか名誉とか地位とか財産とか、あるいは自分の趣味など一切の執着を捨てきって、お救けひとすじに精進させていただくという祈りです。

 

[839]  06/01/21 14:04 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

懺悔してお誓いする
正法を護るということは、一切の汚れを離れ、知らず知らずに犯した罪、あるいは意識して犯した罪、両方とも懺悔させていただいてお誓いする。人間は、毎日毎日意識的にあるいは無意識的に罪を作っているわけです。それも積もり積もって大きな因縁になっているわけですから、懺悔させていただく。それが正法護持につながるわけです。
ある経の方で、旦那さんが夜中に足が痛くて「あいてて」と言って、足の筋肉がつまって大声をあげて飛び起きる。それが一晩に、一回、二回と毎晩のように続く。奥さんが起きて「南無真如一如大般涅槃経」とお唱えしながらさすってあげるとおさまるんです。どうしてそんなに足が痛くなるのか奥さんが思惟させていただいた時に、「ああ、この亭主は『一如の道』をふんずけた事があった」と気がついた。奥さんは一生懸命精進しているが、旦那さんが反対している。『一如の道』を、なんだこんなものといって、踏みつけたことがあったんですね。そうしたら、そっちの足だけ痛くなる。順現、順次、順後、順不定と言いますけれど、奥さんが精進している功徳によってそういう結果が現れ、気づかせていただくことができた。旦那さんに言ったら、「そういうものなのかな。それは申し訳なかった」とわかってくれたということです。そのように意識して犯した罪も懺悔によって救われていくのです。また、ある方が向上接心で「あなたは足が痛くありませんか」と示され、
「痛いです」と言ったら、「法具を粗末にした方がいますね。その業によって足が痛いんですよ」って。その奥さんは「私は方具を粗末にした記憶はありません」と言ったら、「あなたではなくて身近な方です」と。そして思い出したのが、母親は熱心に教えを求めていたんですけれども、あるとき父親が酔っぱらって帰ってきて、御尊影を取り出して足で蹴飛ばしたことがあった。一週間くらい経ったら、その父親が高血圧で倒れて、それから寝たきりになってしまったのです。
亡くなる時には胃がんで苦しんで亡くなったわけですが、あまりの苦しみにまわりの人たちが、何とかしてあげたいと言うけれども、手の施しようがない。「殺してくれ。こんなに苦しいんだったら、早く死にたい、死なせてくれ」。だけど霊界では受け入れてくださらない。罪の深い人は、死にたくても死なせてくださらない。霊界からお迎えがきてくれないのです。あまりの苦しみを見かねて母親が、「私に免じてどうか主人のためにご祈念をお願いしていただきたい。私がその分しっかり精進いたしますから」ということで、ご祈念をお願いした。そうしたらすぐ心臓が止まって霊界に行かれた、ということです。
この世で一番苦しいことは、死ぬ苦しみではなくて、死にたいのにお迎えがこない、そういうのが一番苦しいそうです。

 

子どものときの心のシミ

また、ある方は、家族中歩んでいるけれども、どうしても一人、息子だけが教えを好きになれない。まわりじゅう精進しているけれども、息子だけどういうわけか歩めない。それで接心をいただいたら、幼い日に心が汚されてしまっている、ということでした。
昭和二十五年に教主さまが逮捕されて法難事件が起こりましたが、法難事件のニュース映画を子どもの時に観たんですね。あのころは、テレビがなかったから、映画館で観るか、新聞で見るかなんです。映画はだいたい劇映画で、その間にニュース映画があった。そのニュース映画に、真如教主さまが手錠をかけられて、連行されていくお姿が映り、その時子ども心に、あれは悪いおじちゃんだなって、そう心に焼きついてしまったんです。それから四十五、六年経っているわけですが、いまだに心のシミは取れないんですね。そのために素直に教えが入らない。これも家族の方たちが代わって懺悔文をあげさせていただいたり、お浄めのお護摩をさせていただいて、護法善神さまのお怒りを解いていかないと、教えが魂にしみこまないのです。そのように、何年経っても、何十年経っても、身口意の業は残るんです。

 

[840]  06/01/21 14:05 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

読経中に睡魔に襲われて、最後まで読経できない理由
また、ある方はすぐ眠くなってしまう。読経が始まると睡魔に襲われて眠くなってしまう。自分で読経していながら、ある一定のところまでくると欠伸が出てしまい、眠ってしまって、最後まで「朝夕のおつとめ」を続けられなくなってしまう。集会していても眠ってしまう。経親さんがその方に駆遣呵責しているときでも眠ってしまう。それで怒られてるんだけれども、
大事なときにどうして眠ってしまうのか相談接心をいただいたら、「幼いころ霊的に汚れたところに行ったことがあるでしょう」と示されたんです。それは物心ついた頃、おばあちゃんがS会の信心をやっていて、お父さんとお母さんは大嫌いだったんだけれども、おばあちゃんが熱心だったのです。そのおばあちゃんに手を引かれてS会の会合に行ったらしいんです。かすかに記憶に残っているのが、広々としたところに大勢ガヤガヤと集まってお題目みたいなものを唱えているところなんです。邪宗の会合の場所へ子どもの時に足を踏み込んだだけでも、もう霊的な汚れが魂にしみこんでしまうのですね。
そういうことを観念させていただいて、人間の意識の奥のマナ識に蓄積されている本人も気がつかな心身の汚れを懺悔の祈り、お浄めのお護摩で浄めさせていただくのです。
身・口・意の三業が残っているために、祈りが深まらなかったり、読経しようとすると欠伸が出たり、雑念妄想におそわれて心がとんでもないことを考えてしまったり、祈りを継続できないのです。そういったものを一つ一つ懺悔させていただくのが読経であり、早朝奉仕であり、日々の三つの歩みです。無意識のうちにつんできた過去の私の業を浄めさせていただく、そういう気持ちで、「密厳院発露懺悔の文」を、寒修行でなくても時間があればお唱えさせていただくのです。それで自分の信心も深まってくると思います。

 

金剛三昧
三昧、祈り。祈りを深めるということは、教主さま、摂受院さま、両童子さま、護法善神さまと一体となるそういう祈りです。
涅槃経における三昧は、金剛三昧です。金剛三昧というのは、大般涅槃経の三昧ですが、
『一如の道』にもあちらこちらに出ていますけれど、「衆生をして首楞厳(しゅりょうごん)を得しめんが為の故に、衆生をして金剛三昧を得しめんが為の故に、衆生をして陀羅尼を得しめんが為の故に・・・」と「獅子吼菩薩品」にずっと続いていますが、こうした金剛三昧が不動三昧、不動心です。不動心を持つことが霊能を拓くことです。
どんなことがあってもくずれない信心、そういった不動心を確立するためには、金剛三昧を得てゆくことです。三昧を三つに分けると、空三昧、無相三昧、無願三昧です。

 

空三昧
空三昧は、心を「空」にしてなんでも受け入れる。自分の執着、煩悩、一切の執われを全部「空」にして、無我の境地になり、なんでも百パーセント受け入れていく。なんでも「はい」の一言で受け入れていくのが、空三昧。これは、接心を重ねていくことによって到達できる境地です。接心を頂くとみな素直になる。ご亭主の言うことは跳ね返しても、ご霊言は素直に「はい」と受け入れられる。接心を頂きながら霊能者と喧嘩をしている人は見たことがないですね。だいたいが素直になってしまうのです。
私の経では、一人、接心中に霊能者に反発した人がいますけれども、頑固な親父さんだったのです。「あなたは我が強いですね。頑固ですね」というご霊言で、そうしたら怒ってしまって、「そんなことは言われなくても百も承知だ。それを直してもらうためにきてるんじゃねえか」と。それで腹を立ててサッと立って諏訪の森に行って、仲間が接心を終わって出てくるのをタバコを吸いながら待っていた。それきりその人は、導き親さんがいくら誘っても「もういい」と言って、来なかったのです。もうあの世へ行ってしまいました。
なかにはそういう人もいますけれども、だいたいにおいて、ご霊言ですと誰でも素直になれるのですね。だから旦那さんの言うことでも、お姑さんの言うことでも、ご霊言と思えば「はい」と言えるはずなのです。「そんなことを言っても、こうじゃないか、ああじゃないか」と言うことは、自分の方が偉くなって相手を批判したり、責めてしまうわけです。そうすると、空三昧には程遠いということです。空気のように、何を言われてもニコニコ、無抵抗でなんでも素直に受け入れていく。ただし、受け入れっぱなしではなく、実行が伴わなくては本当の「はい」ではありません。

 

[841]  06/01/21 14:06 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

無相三昧
二番目が無相三昧。無相三昧は、聞きっぱなしではなく、他人ごとではない自分ごととして実践していく見返りの三昧です。すなわち無相接心です。
無相ということは相手が無いと書いて無相。相手ではない、自分なのだ。百パーセント自分なのだと。悪いのは相手ではなくて、足りないのはみな自分なのだと。人を責める心が少しでもあると、その部分の見返りができません。相手は鏡と思うと、全部見返りが出来るわけです。鏡の前で、私はこんな汚れた顔ではないのにと鏡のせいにしてしまうようでは、無相三昧とはいえないですね。そのまま百パーセント自分の姿なのだと無相に受け入れて、見返らせていただく三昧、それが無相三昧。それは、「すみません」という言葉にも通じます。なんでも「すみません。すみません。私が悪いのです」と懺悔の祈り。最初の空三昧は、南無の祈りです。素直に受け入れていく南無の祈り。それから無相三昧が見返りの祈り、懺悔の祈りです。

 

無願三昧
そして三番目が無願三昧。
無願というのは、喜びの三昧です。無願というのは願いが無いと書いて、無願です。これ以上の願いはない、これ以上の喜びはない、最高の喜び、最高の感謝。感謝ということは、実践が伴っていかなければなりません。大乗の実践、実践に燃え立つ三昧です。「ありがとうございます」なんでも「ありがとうございます」。何を見ても「ありがとうごぞいます」。旦那様に蹴飛ばされても、「ありがとうございます。こんな私でも蹴飛ばして下さって、前世の業の罪滅ぼしをさせて下さって」と、そういう三昧です。よいこと、悪いこと、両方に感謝して、喜びにしていく。それによって、霊能が拓けるのです。ですから、「はい」「すみません」「ありがとうございます」のこの三つを身につけて、何事によらず、必ず一言ごとに「はい、すみません、ありがとうございます」と、一日のうちに何十回も何百回でも口に出していれば、教主さま、摂受院さまと一体になることができる。
教主さまもいつも「ありがとう、ありがとう」とおっしゃり、最後の言葉も「ありがとう」でした。またなんでも「はい、はい」、どんな初信者にも「はい」、身近でお仕えしている若い女性の方に対してもなんでも「はい、はい」と聞いて下さった。摂受院さまも常に
「ごくろうさま、すみません、すみません」と。
「はい、すみません、ありがとう」は仏さまの印なのです。その三つが本当に全身で言えるようになれば、もう生きた仏さまです。

 

定―接心の肝要
空三昧、無相三昧、無願三昧というのが、「一如の道」の五十八ページの下の段に出ています。「善男子、定相とは空三昧と名づけ、慧相とは無願三昧と名づけ、捨相とは無相三昧と名づく」
定相とは、−「定」ということは、接心です。接心を頂くとみな、素直になって「空」になって「はい」と言えるからです。慧相とは、智慧波羅密の相。智慧波羅密ということは、お救けです。
お救けができた時の喜びは最高の喜びなのです。また、所属が向上した時の喜び、歩んでくださった時の喜びは、最高の喜び。その智慧波羅密、それが無願三昧、
このうえない喜びです。
それから「捨相」とは無相三昧。「捨相」というのは、すべてを捨ててしまう。自分ではない他人ではない。自分と人との区別を捨ててしまう。すべて、他人事ではない自分事として、相手を鏡にして受け入れていく。それが捨相、無相三昧。自分と他人の差別があるからいろいろ問題が起こってくるんですね。その自分と他人の差別を捨ててしまう。怨親平等の気持ちになっていくことが、無相三昧です。

 

三三昧(さんざんまい)
それから六十四ページの下の段の四行目に「空・無相・無願」と書いてある。「空・無相・
無願の法」というのは、空三昧・無相三昧・無願三昧の三三昧です。それが金剛三昧の内容ですね。
「空」というのが「はい」無相三昧が「すみません」無願三昧が「ありがとうございます」。「空」になれると歓喜、無相になれると大歓喜、無願になれると霊能とそういうご親教を頂いた記憶があります。

 

[842]  06/01/21 14:07 *mWed5hXHWmu*aQzfVZYj3q

ご讃題と摂受院さま
ご讃題「南無真如一如大般涅槃経」は、昭和四十二年九月六日に制定されたものです。昭和四十二年八月六日に摂受院さまはご遷化された。それから一ヶ月たった月のご命日の九月六日に、摂受院さまがご生前におっしゃられたようになったのです。「南無真如一如・南無大般涅槃経」と南無が二つついていた。私たちが入信当初、手にした「朝夕のおつとめ」には、「南無真如一如・南無大般涅槃経」と二行に書いてあったのです。
真如のみ仏に帰依する、また、大般涅槃経の教えに帰依する。仏と法は一体のものだから、「南無」を一つにしたほうがいいんじゃありませんか、摂受院さまのご意見だったようですけれど、それを教主さまが容れられて、昭和四十二年九月六日に、「南無」を一つにして「南無真如一如大般涅槃経」というご讃題を制定されたわけです。
それからいちだんと摂受のお力も強まり、みなさんの祈りも深まり、教団が発展してきたわけです。

 

三礼と三三昧
「南無真如一如と尊きみほとけを念じ奉る」と朝夕三礼させていただく、必ず「南無」ですね。信心は「南無」ですね。信心は「南無」で始まり「南無」で終わる。
「南無」ということは、自分を無にして仏さまに絶対帰依、自分をゼロにして仏さまを全面的に受け入れる。それが「南無真如一如と尊きみほとけを念じ奉る」。「南無南無」というのが無条件の受け入れ、絶対帰依です。それが空三昧。
「懺愧懺悔六根罪障」というのは、懺悔の見返り、「すみません、すみません」という無相三昧。
「おんさらば、たたぎやた、はんなまんなのうきやろみ」。仏足頂礼で仏さまの前に五体を投げ出して、喜んで仏さまの歩まれた道を実践してまいります、という無願三昧。
ですから、「朝夕のおつとめ」の中にもそうした三三昧が組み込まれているわけですから、真心込めて祈りを込めて三礼をさせていただく。それによって金剛三昧がだんだん身についてくるんです。仏さまに三礼、旦那さまに三礼、お姑さんに三礼、子どもにも三礼。すべて、この世の中で自分自身が一番低いところにいるんだ、そしてまわりはみな何かを私に教えて下さる存在なんだ、み仏さまが姿を変えて私に修行を与えてくださっているお姿なんだって、
まわり全部高くみて、自分をもっと低いところにおく。それが大般涅槃の大海の教えです。
大海は世の中で一番低い所にあって、どんな流れでも全部のみこんでいく。教主さま、摂受院さまのみ心も大海ですから、すべての流れを摂受して下さっているわけです。だから私たちもその大海の一つになって、なんでも受け入れていく。祈り一つに受け止めていく。
「うちのお母さん変わったね。仏さまのようだね」って。夫からも我が子からも言って貰えるようになれば、霊位も向上できると思います。そのように自分を限りなく下げていくことによって向上ができる。うちのお母さんは怒ったことがない、どんなひどいことを言われても怒ったことがない。いつもニコニコ受け入れてくださる。大きな懐に包まれてしまう、愚痴もこぼしたことがない。「女性十七訓」を地でいっている・・・。そういう境涯を目指し取り組んでいってください。

 

「定記」について
それができている方が、継主さまですね。継主さまは、教主さま、摂受院さまから一番ご信頼があつかったし、仏さまの性をおもちになっておられます。
「定記」によって跡継ぎが定められたわけですけれど、継主さまは正真正銘のみ仏さまです。ですから理屈抜きで、継主さまのお姿を拝しただけでみなさん和やかな心になったり、生きる希望が湧いてくる。また長年の持病が治ったり、心に抱えていた悩みが解消したり、継主さまのお姿を拝しただけで涙がこぼれる。それがみ仏さまである証拠です。
「定記」というのは、一言で言えば、継主さまだけが絶対のみ仏さま、私たちの礼拝の対象であるということです。おひとりですべてを束ねられて、教主さま、摂受院さま、両童子さま、護法善神さまの徳をすべて束ねられておられる、生きたみ仏さま、実体身を持たれたみ仏さまですね。そういう認識で継主さまに絶対帰依していく。
すべてを代表されているわけです。真如苑苑主、真澄寺主座、代表役員。ですからすべてのことは、表の継主さま。裏は真玲さまです。表の継主さまのすべてということは、表でもあり、裏も兼ねることができるということです。裏が表になることはできません。表の継主さまがすべてのすべてを束ねておられるということですから、そのように解釈させていただけばいいと思います。

 

 


 

【総 評】

 

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<私なんか導き親が教主さまだよ。祈る事ばかり教えていただいたものなんだ>

だからお話の内容が「空洞」なのですね。 そしてたしか 祈っても解決しませんよ。というのが仏教だったはずですが。

 

<教主さまは届けてくださるけど、霊界が断るからね。お施餓鬼したってご先祖は救われないままだ>

はたしてじっさいは 届けてくださったのですか? あるいは教主伊藤の届出では 突き返されたということでしょうか。

 

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<朝夕のおつとめの時に、心中祈念の中に、その人の名前を入れて祈念していくんだ。真剣に続けると、そのうち、その人は事象をいただくよ。悪くなっていただくんじゃないんだ。浄まってきてやっと「事象」がいただけるようになったって事なんだよ。やっと霊性が人間格まで上がったってことなんだよ。そうすると、「あんたの事を思い出して、向こうから頼ってくる」よ。>

怖いですね。 その人のために祈るのだか マインドコントロールされ昇進のために勧誘するのだか分かりませんが 信者が勧誘したいと真剣に名前を詠んであげると その人に「事象」という災難が降り掛かり この宗教を「頼ってくる」んですか。。。怖いですね。

 

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<ある経の方で、旦那さんが夜中に足が痛くて「あいてて」と言って、足の筋肉がつまって大声をあげて飛び起きる。「南無真如一如大般涅槃経」とお唱えしながらさすってあげるとおさまるんです。どうしてそんなに足が痛くなるのか奥さんが思惟させていただいた時に、「ああ、この亭主は『一如の道』をふんづけた事があった」と気がついた。>

呪文唱えると 痛みが治まるんですか。 それじつは「マッチポンプ」なんじゃないですか? 入信していなければ呪いがかからずそんなことにはならなかったのかも。 真如苑教書をふんづけると足痛くなるんですか。 では今度 燃やしてみましょう。 ところで釈迦仏教では 呪文はたしか排斥されていたと思いますが どうなんですかね。

 

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<あるとき父親が酔っぱらって帰ってきて、御尊影を取り出して足で蹴飛ばしたことがあった。一週間くらい経ったら、その父親が高血圧で倒れて、それから寝たきりになってしまったのです。亡くなる時には胃がんで苦しんで亡くなったわけですが、あまりの苦しみにまわりの人たちが、何とかしてあげたいと言うけれども、手の施しようがない。「殺してくれ。こんなに苦しいんだったら、早く死にたい」。だけど霊界では受け入れてくださらない。罪の深い人は、死にたくても死なせてくださらない。霊界からお迎えがきてくれないのです。>

あまりの苦しみでも「真如苑のグッズを蹴飛ばす」と「死ねない」のですか。 私は長生きするつもりですから 踏付けさらにちり紙交換に出しますね。 業者も喜ぶ 。

 

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<「あなたは我が強いですね。頑固ですね」というご霊言で、怒ってしまって、「そんなことは言われなくても百も承知だ。それを直してもらうためにきてるんじゃねえか」と。その人はもうあの世へ行ってしまいました。

馬鹿なオヤジですね。 その手口を分析し ネットで事細かに丸裸にしてあげた方が「面白い」のに。 どうせ怒るなら、その手口の悪質さに反応して欲しいところです。 ところでこのオヤジは お迎えが来てあの世へ逝けたのですか。 つまり「霊界では受け入れてくださった」のでしょう。  ただそれが変な霊界だと 逆に可哀相です。

 

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「実践実践」と繰り返し説かれていますが これはもちろん 献金勧誘献身の勧めです。 もちろん 「組織への献金勧誘献身」です。 また、「素直に受け入れ」というのも ありがちなカルトの常套句ですね。 偶然でしょうか。。

 

上記説法を要約しますと

信者様が祈ると 被勧誘者には「事象」と呼ばれる災難が降り→信者様を頼って入信する。 教団の教書を踏んづけるとその足が痛くなったり 高血圧で倒れ ガンになるが 長生きする。 教団の「呪文」を唱えたり 教団の言うとおり献金勧誘献身すれば 死ぬ。 教団に歯向かうと 死ぬ。 となります。 面白いですね。

 

 

そして

>継主さまのお姿を拝しただけで涙がこぼれる。それがみ仏さまである証拠です。

とありますが 実際まったく 涙はこぼれません。 これは証拠があります。

 

 

END

 


 

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