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<オウム真理教の教え>

 

 

 

□ オウムでは、自己の成した、身の行い、口の行い、心の行いの成した結果が、人間の幸福や不幸の原因となると

□ 今生で積んだカルマのほとんどは、今生では返ってこないで、来世に現れてしまう

□ 真理の法を他の人に伝えるという布施です。これは、三つの布施の内で最もレベルが高い布施

□ もしそこに、自己の利益が少しでも存在するなら、それは愛ではない。

□ ◎驚異 不治の病が治った

□ これは深入りしたら恐いぞ、とんでもないことになるぞ、世間ではとても生きていけなくなるぞ(笑い)

□ 大きな愛をくださった麻原と、優しさと忍耐を持って支えてくださったオウムのスタッフの方々に心から感謝申し上げ

□ 現代医学を持ってしても癒すことのできないこの病が、オウムにおける特殊な治療によって、これほど簡単に癒されてしまった

□ 物事に執着せず、自分にも執着せず、生かされてあることに気づき、慈悲に生きること。そんなようなことを釈尊は勧めた

 

 

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地獄に生まれ変わる条件は、心における嫌悪、言葉における悪口、そして行為における暴力・殺生である。

また、真理に対する妨害や、真理と称して間違った教えを説いた者なども地獄に落ちるとされている。

オウム真理教を簡単にいうと、絶対的な自由、幸福、歓喜であると言えます。

 

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前回、この世は「無常」であるから、「苦」が生じると申しました。しかし、この世には、苦しみの多い人もおれば、そうでない人もいることも事実です。例えば、あした食べる物が無くて、餓死していく人や、アメリカ辺りには想像を絶するような大きな家に住み、安楽に暮らしている大富豪などいます。このような極端な例はともかくとしても、同じ人間でありながら、生まれながらにして、少なからず不平等が存在します。

 

このような人間の幸福や不幸は、どのような原因によって、決定されるのでしょうか?

 

ある宗教では、悪霊の仕業であるとか、先祖の祟りであるとか、水子霊の祟りなどと自分以外に、原因を求めますが、

オウムでは、自己の成した、身の行い、口の行い、心の行いの成した結果が、人間の幸福や不幸の原因となると、説いています。

 

その行為のことを、カルマと言います。これは悪いカルマとよいカルマが存在します。

 

悪いカルマ、例えば、身の行いとして、殺人を犯したとします。すると、同じ様に殺されるというカルマを積んだことになります。

口の行いとして、悪口を言ったとします。すると、同じ様に悪口を言われるカルマを積んだことになります。

心の行いとして、怒ったとします。すると、同じ様に怒られるというカルマを積んだことになります。

 

また、オウム真理教では、生まれ変わり(輪廻転生)を説きます。

したがって、生きている間は、もちろんのこと、死後もカルマは存在し、来世を決定します。ちなみに、解脱の状態というのは、輪廻転生を越える(生まれ変らない)ことを意味します。

 

次に、良い行いを成した場合はどうでしょうか?これは、良いカルマを積むこと、特に功徳(くどく)を積んだと言います。

身の行いとして、困っている人にお金をあげたとします、すると、困ったときにお金が入ってくるという功徳を積んだことになります。

口の行いとして、苦しんでいる人にやさしい言葉を掛け、安らがせたとした場合、同じ様に、安らがせられるという功徳を積んだことになります。

心の行いとして、すべての人が幸福になるように、祈った場合、幸福な気持ちになるという功徳を積んだことになります。

以上のように、成したことはすべて自分に返るといった、至極簡単な、それでいて深遠なる教えなのです。これをカルマの法則と言います。

 

幸福な人生を送るには、カルマの法則を利用して、身の行い、口の行い、心の行いに対して、悪いことを今すぐ止め、良いことをドンドンすれば、幸福は自ずとやってくるというものです。

 

「人は死ぬ、絶対死ぬ、必ず死ぬ、死は避けられない。」という事実は、別に宗教を信じなくても、絶対的な真理です。

死後の世界を認めるか、否か、によって、宗教と無宗教とに分かれてくるかと思います。少なくとも宗教と言われるものは、死後の世界を認めていると思います。

 

オウム真理教では、輪廻転生つまり、生まれ変わりを説いています。

人が死ぬと、生前の行い(カルマ)によって、死後の世界が決定します。良いことを行ってきた人は、喜びの多い世界へ、逆に悪いことを行ってきた人は、苦しみの多い世界へ転生します。

 

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 前回のカルマの法則によって、悪業を積めば不幸になり、善業を積めば、幸福になると申し上げました。

 では、何が悪業になって、善業になるのでしょうか?

 

社会的な規範や、道徳など、また、その国の法律にしたがった、人から賞賛される 生き方が最も善行を積んだと言えるのでしょうか?また、破った場合、悪業を積んだと言えるのでしょうか?

それは違います、なぜなら、時代が違うとまったく正反対になってしまうこともあるからです。例えば、戦争中などは、敵をたくさん殺すことが、社会的な善であったと言えますが、平和な時代ですと、ただ単なる殺人を犯したことになってしまい ます。これは、国によっても全然違います、例えば、海外では、車は右側を走っていますが、日本では、当然左側ですよね。

 

このように、時代や場所が違っても不変的な戒めや善行が求められます。それは一 般に仏教など言われている、在家信徒が守らなければならない、五戒などが挙げられます。

 

 1.不殺生 生き物を殺さない

 2.不偸盗 盗まない

 3.不邪淫 愛の無いセックスをしない

 4.不妄語 嘘をつかない

 5.不飲酒 酒やタバコ、麻薬、シンナーなどの心を乱すようなものをやらない

 

 善行を積む場合は、この五つの戒めを積極的に実践します。

 

 1.生き物を殺さず、生き物全てに対して慈しみをもつ。

 2.盗まず、積極的に施し、優しい心を持って同胞と接する。

 3.愛の無いセックスをせず、異性を自己のものと見ず、心から和合する。

 4.嘘をつかず、いつも正しい言葉を話す。

 5.自己の心を薬物によって乱さず、絶えず安定した優しい心を持って周りと和合する。

 

 以上のことを完璧に守った場合、どうなるでしょう。

 

 不殺生によって、地獄に生まれ変わらなくなります。なぜなら、地獄は嫌悪を背景とした世界で、

 嫌悪の行き着く先は殺生に他ならないからです。

 

 不偸盗によって、餓鬼に生まれ変わらなくなります。なぜなら、餓鬼はむさぼりを背景とした世界で、

 むさぼりの行き着く先は盗みに他ならないからです。

 

 不妄語によって、動物に生まれ変わらなくなります。なぜなら、動物は楽しみのみを求める世界で、

 平気で嘘をつき、物事を瞹昧に見る傾向があるからです。

 

 不邪淫によって、人間に生まれ変わらなくなります。なぜなら、人間は情を背景とした世界で、

 情によって、愛の伴わないセックスをするからです。

 

 不飲酒によって、阿修羅に生まれ変わらなくなります。なぜなら、阿修羅は闘争を背景とした世界で、

 酒を飲めば気が大きくなり、闘争を求める性格になるからです。

 

 この五戒を完全に守ることによって、楽しみのみの世界である天界にしか生まれ変わらなくなります。

 

 在家信徒(家にいながら修行する)の最終目標は、天界止まりであると言えます。

 

 出家修行者(家を出て、全ての時間を修行に費やす)の目標は、天界を遥かに超えた世界で、輪廻の束縛を超えることになります。

 

「カルマの法則」とは、わかりやすく述べれば「自己のなしたことは、善いことであれ悪いことであれ必ず返ってくる」

という教えです。例えば、自分のみに悪いことが起きた場合、それは過去、あるいは過去世において自分がなした悪行が結果となって現れたことにすぎないということです。

これを言うと、「おかしい。そんなことはない。だって、悪いことをしたって、ノウノウと生きている人間もたくさんいるじゃないか。」とおっしゃる方が恐らくいらっしゃるでしょう。確かに表面だけをとらえればそう見えることもあります。

 

ここでもう一つ説明しなければならないのは、普通、特に現代では、

今生で積んだカルマのほとんどは、今生では返ってこないで、来世に現れてしまうということです。

 

ちょっと考えてみて下さい。私達は、生まれたときから既に不平等な条件のもとにあります。ある人は大金持ちの家に生まれ、ある人は貧しい家に生まれます。ある人の身体は健康です。このように、生まれた瞬間から個体差が存在するということは、人間の力の及ばない何らかの法則が働いているとしか考えられないのではないでしょうか。そして、まさにその法則こそが「カルマ」なのです。

 

このカルマの法則は、先程も述べたように覚者サキャ神賢もお説きになりました。いえ、覚者サキャ神賢だけでなく、ティローパ、ミラレパ、(いずれもチベット密教の成就者)、シャンカラ、パタンジャリ(ヨーガの成就者)など聖者として名を残している人々は、一人の例外もなくこの教えを説いているのです。確かに現代の一般の人々には、目に見えないものですからなかなか信じ難いことでしょう。しかし、修行者は皆口をそろえてカルマは実存すると断言します。なぜなら修行をしていくと、ヨーガ理論でいうタマス(物事の現象化を遅らせる愚鈍なエネルギー)が取り除かれていき、サットヴァ(すべてのものを照らし出す善性のエネルギー)が活性化され、その結果カルマが早く返るようになりその存在を実感できるようにな

るからです。たとえ否定しようとも「カルマの法則」は歴然と存在しているのです。

 

 

◆輪廻転生

 

そして、そのカルマによって、人は死んだ後、自らにふさわしい世界に行きます。そこで生を受け、時が来れば死に、また次の世界にカルマに従い転生するのです。これが「輪廻転生」です。

 

この輪廻転生観については、人によって賛否両論いろいろあります。しかし、例えばチベットの政治・宗教上の指導者であるダライ・ラマ法王のように輪廻転生を証明するような実例が数多くあり、また死後の世界が存在しないことを実証した人はいまだかつて一人もいないことから「輪廻転生はある」と考える方が自然でしょう。

 

◆功徳とは?

 

では、善業とは何でしょうか。善業とは、功徳と言い換えることもでき、悪業と正反対のものを指します。つまり、「エゴから離れた、他を利する行為・言葉・心の働き」のことをいうのです。

 

わかりやすい具体的な例としては、財施・安心施・真理施という「三つの布施」が挙げられるでしょう。

 

初めの財施は、文字どおりお金や物を施すことです。これは公共施設に対する布施や、貧しくて食べられない人に対する布施、真理の法の体現者やその団体への布施などいろいろなものがありますが、真理に対する布施が最も功徳となるといわれています。

 

次に安心施は、他に対して安らぎを施す布施です。これも、他に対して安らぎを与えるときの自分の状態によって効果が違っています。苦痛がないとき他に安らぎを施してとしてもあまり功徳になりませんが、苦しくてたまらないとき、それでも他の苦痛を取り除いてあげたならば、それは大きな功徳となります。

 

そして、最後の真理施は、真理の法を他の人に伝えるという布施です。これは、三つの布施の内で最もレベルが高い布施です。

 

これらの布施は、エゴから離れた行為であるため、煩悩を弱め、心を軽く明るくし、精神レベル・霊的レベル共に高い次元に結び付ける働きがあるのです。

 

「煩悩から離れた状態とは、呼吸がほとんどなく、本当に心が軽く、また、自己の内側から発する光で周りが明るくなるのでしょうか。成就する前の日と1日にして、一変して周りの状態が変わって見える、そんな感じがします。苦しみはすべて自己が作り出してきたものだということが、今はっきり認識することができます。」

 

−煩悩が止滅した寂静の境地。彼らはまさに”人間を超えた”のだと言えるでしょう。

 

人が殺生を行う場合、たとえば、ゴキブリを殺す場合、「汚い、邪魔物は殺せ!!」という、怒りを背景とした心の働きが支配的になります。

ゴキブリも痛みや、苦しみを感じるわけですから、その苦しみが殺した人に内在するようになります。それは殺生のカルマとなって、いつの日か同じ様な、痛みや苦しみが返ってきます。それを何度も繰り返すならば、苦しみのみの世界である地獄界との縁を強めます。死後、殺生のカルマが落ち切るまで地獄で、苦しみ続けるようになります。

 

 また、重い完璧な殺生となるには、5つの条件があります。

 

 1.殺す目標を決めてあること。

 2.殺すことに喜びをおぼえること。

 3.残酷であること。

 4.殺したという事実があること。

 5.「ああ、自分は殺したんだ」ということに喜びを持つこと。

 この内の一つでもなければ、ずいぶん殺生のカルマも軽くなるのです。

 

「幸福」他人のことを本当に思いやることができたときその人は最高の幸福をつかむことができる。

    なぜならば、心の豊かさこそ、幸福の源だからである。

 

「慈悲」すべての人の喜びを知り、すべての人の悲しみを知る。そして、すべての人の喜びを増大させ、

    すべての人の悲しみを取り除く。これこそ真の慈悲である。

 

「愛」 自己の利益をすべて投げ出し、相手の本当の成長を願い努力する行為、これを愛という。

    もしそこに、自己の利益が少しでも存在するなら、それは愛ではない。

 

「真理」一切のこだわりを捨て、すべてをありのままに見つめ。

    そして、そのありのままに見つめた中から法則を発見し、本当に幸福になる法則を実践すること、

    これが真理である。

 

    私たちが今持っている観念というものを、あるいはイメージというものを消滅しきったならば、本当の純粋な私達が登場する。

 

    私達の本性というものは、本当の姿というものは、すべてをありのままに正確に認識し、判断する力、

        そしてありのままにものを映し出す力、生まれながらにして、これらを持っている。

 

◎驚異 不治の病が治った

 

ここに、一つの体験談がある。重症筋無力症という難病を克服した、オウム真理教の信徒である田端純子さん(54歳)の体験談である。彼女は、オウムの医学理論にのっとった治療によって、ついに不治の病を超えることが出来た。まずはその喜びの声を聞いてみたい。

 

「私の病は重症筋無力症と言いまして、現代医学では、プレドニンという非常に副作用の強い薬を大量に投与して押さえこむという、厚生省指定の難病です。

最初に発病したのは5年前。まずまぶたが落ちてきて、ろれつが回らなくなり、全身のあらゆる筋肉が動かなくなってきました。そして呼吸困難に陥って、救急車で運ばれ入院しました。最悪の場合、呼吸不全、そして死が待っていたのです。

現代医学では、肋骨の奥にある胸線という臓器を取れば安定する場合もあるということで、肋骨を開き、背中の皮が見えるほどの大手術をしましたけれど、何の効き目もありませんでした。呼吸困難は何度もくり返し襲ってきました。

私の生きてきた人生というのは、幼少から虚弱ではありましたけれども、やさしい家庭に守られた幸せな家庭に育ち、結婚にも恵まれ、病弱ながら、素晴らしい主人にも支えられ、二児に囲まれた幸せなもので、一見順調にみえるものでした。

けれども13年前、二人の子供のうち長男を7歳でなくしました。激症肝炎でした...。それから10年、3年前にその子供をなくしたという悲しみを共に耐えた主人にも、また先立たれました。

一気に大きな悲しみとたくさんの荷物が私を襲ってきました。生きる糧を探ること、残された年老いた姑と娘を不治の病を抱えながら背負うことになったのです。

病の方は刻々と悪化し、再度呼吸困難となり、両鼻と口から3本の管を通し、機械につながれた生活となりました。管にたまる痰を取るため24時間吸引しつづける苦しさは、筆舌に尽くしがたいものでした。

その時入院した都立の専門病院の医長さんがオウムの信徒さんで、「生死を超える」オウム真理教を勧められたのが私とオウムとの出会いです。

正直いってチンプンカンプンでした。ただ、なぜかわからないながら、弱いと言うことで自分のことだけを考えて生きてきた人生に対して、すごい罪悪感でいっぱいになり、強く打ちのめされたのを覚えています。

 

まず、オウムに入ってみよう、入ってみなければわからないではないか、もし万が一治りでもしたらめっけものではないか−−−こんな、今にして思うと大変不心得極まりない動機で入信しました。

薬の大量投与で少し回復したかにみえた時期、ミラレパ正悟師にお電話でシークレット・ヨーガ(個別相談)を受けるように勧められ、そのときいきなり麻原から大きな愛で、○○○を300時間受けなさいといわれたのです。

それがびっくりするような効果がありまして、都立病院の先生が不思議だとおっしゃるぐらい、あっという間に回復し、100ミリ投与されていたプレドニンは60ミリまで落とすことが出来ました。2ヶ月くらいで60ミリに落とすことなどということは驚異的なことだったのです。そして、一時退院することが出来、仕事にも復帰することが出来ました。

 

つづく

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前回に引き続き、今回も難病を克服された方の体験談をUPしていきたいと思います。

 

ところが、そのとき私は魔境だったのでしょうか。これは本物だなと思えば思うほど、これは深入りしたら恐いぞ、とんでもないことになるぞ、世間ではとても生きていけなくなるぞ(笑い)−−−そんな気持ちになって、いったんオウムから離れようと思ったのです。そして、修行にも出ない半年を過ごしました。

 

すると案の定、見る見るうちに病気は悪化し、またもや救急車でもとの病院に放り込まれてしまいました。

 

再び機械で生きる生活をし、薬の大量投与で何とか動けるようになった頃に、○○○がやっと出来、昨年7月に転院しました。そして半年、今の元気な私がここにあります。

現代医学と熱のヨーガ、そして、おしみないオウム真理教...、目を見張る治療と修行の毎日でした。

肉体と共に心のプロセスも進みました。見ていただければおわかりのように、皆さんより私の方が顔色がいいのではないかと思えるほどになりました。(笑い)

 

気持ちが軽くなったと同時に、気が付いたときにはダルドリー・シッディは起きるは、トゥモはおきるは、全身が至福感に浸るは、いきなり肉げいが出来るはと、様々な体験をしていたのです。

そして何よりも、自分のことで精一杯だった私が、他のために自分を殺すこと、お布施にバクティーにと功徳を積むことが何よりも一番楽しいという価値観の私に変わっていました。

○○○は本当によく治るので、後から入院してきた人が次々と28人も先に退院してしまい、あせった時期もありましたが、深く大きかった悲しみは、今は安堵感に変わり、執着していた常識や物、情が煩わしくさえ思えるようになりました。まだまだ現世とのギャップに悩んだりしますが、せいぜい功徳を積むことで乗り越え、すべてに聖無頓着の域に達することが出来たらと念じています。

100ミリに始まり、4年間に60ミリからどうしても減らすことが出来なかったプレドニンも、今は1日15ミリに減り、14種類飲んでいた薬は4種類になりました。後はゼロになるまで頑張るだけです。

不幸な目に遭ったこと、そして3万人に一人という難病を与えられたことで、並々ならぬ苦しみを味わったことを心からありがたく思います。そしてとうとう退院の予定も立ちました。

 

これから完治をめざし、人生の目的として、病人のための窓口として、全国各支部に体験談の行脚をして歩きたい。そして手記を、オウムで締めくくられる人生を本に書いてみたい、それをライフ・ワークとしたいなと、今はそう思っています。

 

大きな愛をくさった麻原と、優しさと忍耐を持って支えてくださったオウムのスタッフの方々に心から感謝申し上げて終わりたいと思います。本当にありがとうございました。(拍手)。」

 

1991年1月6日 新東京本部

 

 

まぶたが垂れ、物が二重にみえる。そしゃく筋が低下して物をかめなくなり、舌筋の麻痺によって口に含んだ食物を飲み込めなくなる。上肢・下肢の筋力が低下して、着物の着脱や歯磨きなどの日常生活における動作に支障をきたし、「腰砕け」の状態で転倒する。呼吸筋の麻痺によって呼吸困難を引き起こし、ひどくなると死亡する。

これが重症筋無力症の主な症状である。我が国では、1972年に特定疾患治療研究対象疾患(いわゆる「難病」)に指定されている。発症率は10万人にわずか3人。原因は不明で、しかも治療法が見確立という恐ろしい病気である。

 

現代医学を持ってしても癒すことのできないこの病が、オウムにおける特殊な治療によって、これほど簡単に癒されてしまったことにみなさんは驚かれるに違いない。

あるいは、「一体どうして?」と不思議に思われることだろう。

 

実は、この奇跡の背景には、仏教ヨーガが提唱されている優れた医学理論があるのである。無限の可能性を秘めた医学理論が...それが「三体質と五大エレメント」の理論なのである。

 

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ところで、オウムには冒頭に揚げた重症筋無力症の治療例ばかりでなく、末期の肝臓癌の癌細胞が特殊な治療によってすべて壊死したという例や、老人性痴呆症が大きく改善されている例、あるいはウイルス性肝炎・リューマチ・喘息などが軽快したというように、現代医学にとっては驚異としか思えないような治療例がたくさん存在している。これらの事実は、オウムの医学理論が病の本質をとらえ、それに対して正確なアプローチをしていることを表わしているのではないだろうか....。

 

つづく

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

尊氏:五大エレメントの理論というのは何であるかというと、例えば水元素優位だと消化不良を起こすよね。あるいは火元素優位だと−−−先程の胆汁体質とすごく関連があるんだけれども−−−炎症が起きるとか、あるいは高熱が出るとかね、こういうものがあるよね。4番目の風というのは、三体質の風とまったく同じ働きであると。で、例えば地元素の病としては癌があるでしょ。火元素、水元素と地元素のバランスが狂っているからだよね。ということは、五大エレメントのコントロールをすること、三体質をコントロールすることによって病は癒えるというのが仏教的ヨーガ理論であると。

 

(問い)この理論でいくと、例えば重症筋無力症の治療については、その原因をどのようにとらえ、どのような治療が行われたのでしょうか。

 

尊氏:要するにエネルギー不足。風元素の不足で力がなくなっていくわけだね。ということは当然火元素に影響与えるだろうと。で、火元素に影響が出ているということは水元素はどうかと見ていくわけでしょ。そして、例えば水元素に影響がないとしましょう。そうすると、その人は火元素の病であると。よって火元素を強めればいいじゃないかと。で、火元素を強めさせるわけだよね。それで、火元素が強まるとどうなるかというと、今度は風元素に火元素が還元されるよね。風元素に還元されるとどうなるかというと、体にエネルギーが満ちてくるよね。そうすると無力が有力になってくるよね。力がある状態になってくるよね。そういうことだよね。

 

(問い)例えば凡夫の目から見ると、そういうふうに地・水・火・風・空といった五つの元素で人体を割り切るというのは、すごく乱暴に見えると思うんですが、結局本質はそこに帰するということでしょうか。

 

尊氏:例えば肉体の構成を分解すると、まず固体成分と、液体成分と、熱成分と、それからエネルギーと、あるいは呼吸による風ね、それからあと空間と。この五つしかないじゃないかと。確かにこれは、言われてみればそれしかないんだよ。必ずそのカテゴリーのどこかに入るんですよ。それに、その五大エレメントと三つの体質だけでヨーガ理論を割り切っているわけじゃないよね。それを複雑に絡み合わせているよね。

 

(問い)そういった五大エレメントの理論が出てきた背景というのは?

 

尊氏:瞑想です。つまり全智になるわけでしょ。解脱の最後は。そこから出てきてるんだよ。修行をどんどん続けていくうちに、三界を見渡すようになるよね。三界を見渡せると、自分の内側も全部見えるわけだよね、外から。そこから出ているんだよ。

 

つづく

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

(問い)尊氏も前々からおっしゃていましたけれども、西洋医学を全面的に否定なさっているわけじゃないですね。

 

尊氏:そうです。西洋医学大いに結構だと思います。ただし西洋医学のメリットが生かされていれば大いに結構だと思います。つまり西洋医学のメリットというのは、しっかり検査が出来ているかどうかと。例えば、信徒さんの病に関してお伺い書がよくあがってくるんだけど、そこで私は神通力によってその状態をパッと見て、これは問題がおかしいと。まあ前回もあったんだけどね。例えば名古屋の信徒さんで、卵巣が腫れていると。明日手術するという話しがあって、パッと神通力で見ておかしいということで、○○○(直弟子)に電話させて、調べさせて手術をまず止めたんだよ。そしたら実際卵巣に水がたまっていただけで、手術しなくて正解だったとかね。

 つまりそれは何かというと、現代の検査技術がまだ100パーセントではないと。そういう意味でいったらすごく危険性を含んだ医学であると言えるんじゃないかと。まあ端的な例だよね、これは。

 

だから逆の言い方をすれば、しっかりとした生理学のドクターが、しっかりとした検査をすることによって、しっかりとした対処が出来る−−−これはもう素晴らしいことだと思うね。それと今度は、体のエレメントを調整していく東洋医学的なもの、それから、エレメントに影響を与えるアストラルのデータを変える。あるいはコーザルのデータを変えるということがなされれば、すごい医学が出来上がると思うね。

 

その例としてはこういう例があるんだよ。死にかかっている人に「欲如意足」のテープを聞かせると、そうすると復活するんだよね。それはコーザルのデータが変わるからだと思うんだよ。アストラルとコーザルのデータが。ところが、もし一般の病院でやっていれば、当然もっと早く死んでるだろうと思うね。つまりオウムだからこそ、そこで延命がかなりできたんだと思うね。一般病院だとプラーナも弱いし、心の働きも濁っているから、アストラルと現象界の遮断が起きやすいと。だから例えば「欲如意足」のテープを使ったとしても−−−使わないよりずっといいけど−−−でも効果が半減するだろうね。

 

尊氏:先程の重症筋無力症の人も、それと同じことをやっているわけだよ。単純に火元素を強めたわけではなくて、例えば○○○でマントラを入れることによってデータを消すと。そして同時に火元素を強めると。例えばあの「欲如意足」を聞かせるのもアストラル医学の一つだね、あれは。

 

六道は心の状態を言っているのです。人間は心は、様々な状態に変化しています。今は渇望に苦しんでいますが、満足したら、怠惰になってぐたぐたしている、何かあれば怒りに包まれます。

 

こうしたことを延々と繰り返すのが、人間です。しかし、これは苦の生活です。いつも何かに追いまくられ、執着し、怒り、渇望します。欲望を満たすわずかな瞬間だけ我々は満足しますが、すぐにまた同じように欲に駆られて動き始めます。満たされる状態が長く続けば、今度は飽きて来ます。退屈に襲われるのです。

 

 地獄、どうしようもない苦しみの連続する世界。

 餓鬼、愚かさゆえの欲求不満や、精神的飢餓の世界。

 畜生、欲望に支配され、人間的な節度を失った世界。

 修羅、怒りにみち、争いばかりをする世界。

 人間、悩み、愚かさ、疑い、不信に支配された世界。

 天上、欲望が満たされ、怠惰になり、退屈し、虚しさに苦しむ世界。

 

人はこれらの中を点々とします。六道を輪廻するのです。救いはこれらの世界から脱することにあります。その方法を釈尊は説いたのです。

 

物事に執着せず、自分にも執着せず、生かされてあることに気づき、慈悲に生きること。そんなようなことを釈尊は勧めたわけです。

 

つづく

 

 


 

 

□カルト テクスト

 

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