元エホバの証人研究生の夫として

 

H.A.

 


 

いつものように、私は出社すべく玄関を出る時、妻から一通の手紙を手渡された。

 

恋愛期間ならばいざしらず、夫婦間でお互いの意志を手紙を通じてやりとりすることなどは無論なく、この中に書かれたものの事の大きさを感じつつ、受取った手紙をスーツのポケットにしまい込み、私は会社へ出かけた。それは、会社員の私34歳、専業主婦の妻33歳、幼稚園に通う5歳の長男と、まだ一日中母親にべったりの3歳長女の4人家族の96年9月末の朝の出来事であった。

 

通勤途中の駅で、私は手紙を開けて読んだ。そこには妻より「エホバの証人という信仰に魅かれており、日曜日に集会へ行かせて欲しい。」との告白と願いが綴られていた。 ここから、私とエホバの証人との関わりが始まった。 この時、私は大学時代に川崎市で輸血拒否によって幼い男子が亡くなった事件と、よく、子連れで家々を回り、宗教画を100〜200円程度で売り歩いている(現在は小冊子等を無償で配付している)宗教組織ということしか知らなかった。 決して良いイメージは持っていなかったので、ショックであった。 なぜ、こんな宗教か家庭に入って来たのかという憤りを覚えた。

 

思い起こせば、妻が1年半程前に「家に聖書のことを教えてくれる人が来た。」と話していたことがあった。妻が私に見せた聖書からの聖句と挿し絵が描かれていた子供向けの小さなカードは、以前に私が小学校の4年生頃に自ら進んで数ヶ月間、教会の日曜学校に通っていた当時に毎週もらった、似ているカードの記憶を蘇らせた。 「どこの教会?、なんていう宗派?」と尋ねたが、「言わなかった。」という妻の返答に、いささかおかしさを感じたが「宗教はお互いに話し合って決めなければいけないものだから、もう二度と家にあげてはいけない。」と伝えたことがあった。 私達夫婦は結婚のときに、特定の宗教を持っていなかったが「宗教はいつかは必要になるかもしれないが、お互い話し合って決めよう。」と話していた。

 

正直なところ私は、宗教による夫婦間の価値観の相違を恐れていたのだ。 オウム事件や統一教会の事件がマスコミで取り上げられるおりに私は「宗教の勧誘はあるか。」という問いに対して、妻は「無い。」と隠していたのである。 確かに妻は、その年の夏に様子がおかしかった。浅はかな考えで私は、四六時中子供と一緒にいるので育児に疲れているのかと勝手に解釈し、休日は子供を連れ出して遊び、妻をひとりにする時間を工面していた。

 

とにかく、今日は早めに帰宅し、帰りに本屋で少し情報を仕入れておこうと考えた。 大きな本屋でなければ、宗教のコーナーがないことも、この日に知った。数件の駅前の本屋を探し、やっと見つけた本屋には全宗教のカタログ的な書籍があった。 エホバの証人はキリスト教の「その他」というジャンルにくくられて書かれており、本の最後の方にわずか2頁程度でまとめられていた。その中に「マインドコントロールという見方もある。」と紹介されており、この文が心配を増大させた。 当時は、オウム真理教や統一協会の事件が未だ覚めやらぬ時期であり、このマインドコントロールという言葉は、危険を連想させるひとつのキーワードとして私の脳裏に刻まれていたのであった。 夜に寝ている妻を起こして話をした。先ずは、なにはともあれ手紙で打ち明けてくれたことに対して礼を述べた。 次に「自分の子どもの交通事故で輸血を要する際に、大切な命を失わせることについて、どう考えるのか?」という質問をした。妻は終始押し黙ったまま、返答がなかった。 その他、妻は一般的な宗教に関する質問にも、自分で考えて意見することをしなかった。 私の一方的な話となった。妻の考えを聞きたいのに、なんで何も言わないのかと、苛立ちを感じた。その後、ゆっくりと妻は1年程前から家庭学習を続けていたとのことをあかし、神が永遠の命を与えてくれることを信じ、この世はまもなくハルマゲドンで終末を迎えると語った。異常に思えた。狂気的なその思想が心配でたまらなかった。 エホバの証人について質問をしたが、詳細な話しについては「Nさん(長老婦人)に会って話を聞いて欲しい。」と願い入れたので、私は早速、電話し翌日にその長老夫妻に家に来てもらうことを約束した。

 

翌日の夜、長老夫妻を家に呼び話を聞いた。 外面が良い私は、夜遅くに来て頂いた長老夫妻に敬意を示し、穏やかに話した。 長老夫婦は、エホバの証人の組織の説明をしたが、私にとっては全くナンセンスな話としか思えなかった。 「半年、夫婦で聖書を学び考える時間を与えて欲しい。」と私は申し出たが、長老婦人より 「それは、単なる時間の引き延ばしであり、奥さんは隠れてもやり続ける。」と。 また、強い口調で「あなたは奥さんを奴隷にしている。」とも言われた。 長老夫妻との話の間、妻は押し黙ったままであった。 私は長老から渡された「知識」「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を読むことを約束したが、結局、こちらの要望は、なにひとつとして聞き入れてもらえなかった。

 

未だこの頃の妻は、信仰の浅い研究生であったので特に規制はなく、私は王国会館への集会参加は許可しない代わりに、私が行ってみることを約束した。 また近くのプロテスタント系の教会へ日曜日の礼拝に家族で行ったり、一緒にいろいろ調べようと話し合い、書店で売られている聖書(新共同訳)や三浦綾子さんの本も数冊、またヘブライ語訳の創世記の書籍などを買い求め読み、教会の水曜日の夜の祈祷会へも一緒に参加した。 しかし、これらは急速に聖書の解釈を知りたいと願う妻にとっては、おそらく物足らないものであったであろう。家に来て教えてくれるエホバの証人と会うことが、より真理で近道と思えたのであろう。教会には2回の参加で終ってしまった。 私は妻と約束した大国会館の日曜日の集会にひとりで出かけた。 青年ですらネクタイを着用し、髪の毛をキチンと分け、身なりを整えていた光景は、異様に思えたが、集会そのものは実に明るく活気に満ちていた。 集会は大きく分けると2部構成であり、後半は聖書研究と称するプログラムであった。 「目ざめよ」誌から質問が出され、小さな子供でさえも我先と言わんばかりに手を上げて答えていた。 びっくりであった。なぜ、こんな難しい訳のわからん質問に対し、子供が回答できるのかと。しかし、数分して気づいた。ページの下の問いは同じページの文中に答えが載っていた。単にそれを読んでいるのであった。 その繰り返しの幼稚な作業は、単なる暗記以前の作業に思え恐ろしく感じた。

 

帰って、妻にこの事を報告したが「批判的にしか見ていない。」と言われた。 私は図書館で「アメリカの生まれのキリスト教」という本や、やまぎし会やエホバの証人などの載った文庫本を借り、読みあさった。 もともと読書は苦手であったが、とにかく、妻が変貌してしまったこの組織に対する情報を得ることに必死であった。

 

そんなある日、私は神保町(神田にある書店街)で一冊の本を見つけた。 ウイリアム・ウッド先生の「エホバの証人の悲劇・マインドコントロールの実態」の本であった。私の探していた本は正しくこれであった。異端組織の偽りを一気に読み終えた。妻にも読むように願い、手渡した。 この本に記載されている組織の矛盾点を中心に、長老と3時間程度の話し合いを3回持つが、話し合いというよりはこちらの話しに対して、聖書から抽象的な解釈がなされ、論点が定まらずに終ってしまった。 「間違い探しの、揚げ足とりの話しばかりでは無駄である。議論はしたくない。」と長老夫妻は意見した。 3対1の話し合いは、とても辛かった。私には常識はおろが良識に思えることが全く通じず、反対に自分の方がおかしいのかと自らを疑うこともあった。

 

96年11月に私達は、近くのプロテスタント教会の牧師を尋ね時間を作っていただき、話しをした。 この時の妻の質問は

 (1)進化論についてどう考えるか?

 (2)なぜ教会は戦争を許しているのか?

 (3)偶像礼拝についてどう思うか?

等、妻の質問はおそらく司会者からの一方的に入れ込まれた知識で話しをしていたと思われる。1時間程話しをするが、妻にとっては納得の得られる回答がなかった様子であった。

 

それから、私達は2人で聖書を読み始めることとした。会社から帰宅後夜に読み合った。平均の帰宅時間は夜9時過ぎであり、しかも、子どもが寝静まる時間を待って一日目標10頁以上を決めて読んだ。夜中の3、4時まで議論となる日が続いたが、妻と共に本を読み合うことは、それなりに楽しかった。妻は私が示す聖書の箇所に対し「あなたはどう思うか。」の問いについては一切無言となり、簡単な感想を求めることすら1時間半も黙ったままの状態もあった。私は妻が自分で回答するまで我慢し待ち続けた。 そんなある日の朝、妻は泣きながら「間違えに気付いた。今日きちんとKさんとNさん(今まで教わっていた司会者と長老婦人)に断る。」と語った。誠に驚きであった。 私が読むように勧めた「エホバの証人の悲劇・マインドコントロールの実態」から組織の誤りに気が付いたというのである。 私はとても嬉しく、喜んだ。「会社を休んで、一緒に断ろう」と申しでるが、妻は「それは、嫌だ。自分ひとりできちんと話すから大丈夫。」と自分で蒔いた種は自分で刈り取ると強行的な態度であったので、心配はしていたものの妻を信じて出社した。 これが大きな間違いであった。 帰宅後、結果を尋ねると「私は反対者の意見に惑わされていた。」とその日の内に、逆に説得され、組織に引き戻されてしまっていた。 この組織には、妻が抱く疑問など「新しい光」であるとか、既にキチンと答えが用意されていたのだ。私は、一日の内に天から地へと引き降ろされた感じであった。 幾度も幾度も、悔やまれた。どうして会社を休んで一緒に話しをしなかったのだろうと。 妻が相手していたのは、勝てる訳のない組織だったことを今更ながら後悔した。 この日を境として、妻は私が勧める本を一切読まなくなり、夫婦間の聖書も「単に読んでいても解説なしでは理解ができない。」と言い、中断してしまった。 言い争うこと以外には、なにも出来ない日々が続いた。

 

97年3月にとうとう妻は、反対を押し切って集会に参加した。 その朝、私は集会に行かせまいと妻を羽交い締めにして説得したが「力づくで止めても無駄。こんなこと毎回続けれれるはずがない。」と妻は言った。 確かに自分でもそう思っていたし、なにより心配する子供の顔があり、2時間程の口論の末に手を放した。 長男はついて行くと言い、妻とともに集会へ出かけた。長女と私は、車で近くの動物園に行った。 ゆっくりと過ごせるはずの日曜日に、こんな辛い思いと失望感とでいたたまれなくなり、家に帰りたくなかった。このまま、数日間どこかへ旅行しようとも考えたが、幼い子供の「お腹空いた。家に帰りたい。」と子供ながらに私を気遣いながら泣く様子を見て、夜遅く家に戻った。妻と長男は心配して待っていた。家族みんなで泣いた。 私は今日のことを子供たちに謝り、妻にも幼い2人に謝るよう願った。 自分がなにをしているやら、情けなく、悲しくてたまらなかった。

 

この日から、妻の日曜日の集会参加は毎回となり、私は子供と午前中を過ごすようになった。毎週、毎週なるべく子供たちを飽きさせないよう、いろいろと企画を考えて疲れていても極力、外に出かけて遊んだ。 正直な話、子供たちには集会には絶対に行かせたくなかったので、無理をしてでも楽しませた。自分でも楽しい振りを演じていた。 妻の信仰は、一気にエスカレートしていった。 雛祭りを飾らない。家にあった亡くなった義父の所有していた仏壇を壊し処分する。 父の日や母の日は、ひとりだけ行かずに家に居る。誕生日を祝わない。また、娯楽TVを観ていると「情けない。」と罵る。 私達は、宗教の話になると決まって言い争いの状態であった。 組織の間違いを指摘すると「男は男どうしで話しなさい。」と非難するようになった。 これは、平日(火曜日)の昼間、私は嫌な予感がして、会社を休み帰宅した際に案の定、家に長老の婦人が来ており、その時に私がこの長老婦人にいろいろと質問をした時、婦人は「マザコンは家へ帰れ。」等、大声で私をなじった多くの言葉の中のひとつである。妻はこの長老婦人に対し多くの信頼を寄せていた。

 

男は男どうしでとの言葉を受け、再び長老と話し合いの時間を持ってもらい、妻を交えて話した。輸血拒否の問題と過去の幾度もの予言がはずれていることを中心に。長老から「無意味な議論だ。これ以上話しても仕方がない。」と一方的に打ち切られてしまった。妻は「男の話し会いの場に居たのは間違いだった」と言った。 私は妻に聞いてもらいたく、そのような話し合いをしたのだが、直接的にも間接的にも妻に話をすることが絶たれてしまった。

 

97年6月、妻が子どもへの布教していたことが発覚した。 夜、床に就くと子供が「神様の名前はエホバ。」とつぶやいた。ぎょっとした。 子供に尋ねると「ママが毎日、本を読んでいる」と聞かされた。 以前、「子供には関係ない。私は子供には(布教)しない。」と話していたにも係らず、子どもの自由意志を無視し、阻害する妻の行動に対し直ぐに止めるよう強く命じた。 しかし、妻は「信念であり、子どもにも大切なことだから。」と言い、止めずに続けた。 後でわかったことであるが、子供を夜の集会にも参加させていた。 私は仕事がら4月から6月は夜10時以降に帰宅していたので、当初気づかなかった。 そろそろ仕事が閑散期に入り、帰宅時間が早くなるのを見越した妻から明かされた。 それからの毎週金曜日は、どんなに仕事が忙しくとも。無理して7時前には帰宅し子供を集会に連れていかせないように努めた。

 

限界であった。誰ひとりとして相談出来なかった。会社関係はもちろん、親、友人にさえ、恥ずかしく馬鹿げた話し感じ、悩みをひとりで抱え込んでいた。 市の無料弁護士相談に出かけたが、宗教問題は「信仰の自由」があり難しいと言われた。 信仰の自由と同じく信仰の拒絶がなぜ、取り上げられないのかとも思った。拒絶も等しく信仰の自由というのであろうが、この宗教の家族という単位における拒絶と子供たちの健やかな成長を考えると、もう、なす術もなかった。 離婚を決意し、誰にも相談することなく家庭裁判所に離婚調停の提出をした。 提出の動機は、第一に子どもたちの保護であった。また少し時間と距離をおいてひとりになった妻と接すれば、間違いに気付くかもしれないという期待もあった。

 

97年7月に離婚調停の出頭命令通知が妻に届いた。妻はどうすべきかを長老婦人に問い合わせ、その週の金曜日の夜に、巡回監督が訪れた際に相談することとした。「夫から離婚の調停の申し出を受けているがどうすべきか?」と。 巡回監督は「聖書には夫に従いなさいという言葉もあります。あなたは夫を強く刺激していたのではありませんか?」と回答された。 これに対し妻は「当り前です。刺激をしていました。でも、そうするように教えられておりました。」と言った。 その後、長老が呼ばれ、妻は帰され長老は巡回監督に指導されたそうである。 家に帰った妻は涙ながらこの出来事を話した。 「本当は幼い子ども夜遅い 集会に参加させたくなかったけれど、そうしなさいと言われればそれに従うしかなかった。」と打ち明けた。 また「後日きっと長老が(私に)謝りに来るでしょう。」と話していたが謝罪はなかった。私は期待はしていなかったが、妻はこの、間違いの指導に対する長老夫妻の誠意の無さに失望をした様子であったが、日曜日の集会には以前と同様に通った。 この出来事があって、妻の態度は大きく変わった。 妻は子供には布教することを止め、平日夜の集会への参加は私の許可があるまでは、行かないと約束した。

 

穏便さを取り戻した妻との日常的な会話は、以前と変わらぬ様子になった。 妻は、子供を幼稚園で行われる誕生日会にも出席させ、七夕の笹は持って帰って来させなかったが、子供に対して信仰を押し付けることを止めた。 しかし、私が「夫に従えという聖句は以前私が示したもので、あなたにも考えるよう話した箇所である。同じことを後から巡回監督に言われて、考えが変わるのはおかしい。 あなたは、組織の言いなりになって振り回されている。」との意見や宗教的な話しには顔色を変え、強固な姿勢をとった。 妻は「エホバの証人の宗教には間違いがある。しかし、その教えは正しい」と矛盾した意見の中にも、信仰として強く真理を確信している様子であった。 「離婚の調停を取り下げて欲しい。」と妻よりの要望については、現状が直接的な解決(妻と子供をこの組織から救う)には何らなっていなかったが、一番の重の荷であった子供への布教がなくなり、離婚はあくまでも目的でなく手段であったので、調停を取り下げた。 正直、この時私は色々と条件を付け書面で残して、調停を取り下げようとも考えたが、敢えて妻を信じて条件を付けなかったが、妻は、その他に平日の夜の集会には参加しないことと、家庭聖書研究の中断を約束した。 だが、妻は「日曜日だけは、集会に行かせて欲しい。」と懇願し、私もそれを承諾した。

 

この時期、私にも大きな変化があった。 会社にインターネットが入り、前から一度調べてみたかった「エホバの証人」と検索キーに入力し、誰もいなくなったオフィスで探してみた。 あった、あった。そこにはずらりとおおくの情報がみごとに咲いていた。 一番最初のものを開けた。それは市川北教会の藤原牧師のホームページであった。 親切に地図も載っており、幸いにして、家から近い場所にその教会はあった。 元来、自信過剰であった私は、すっかり自分に対しての自信を失い、すさんでいたが勇気を出してその教会に電話をしてみた。 事情を話すと藤原牧師は、快く会ってくれた。

 

8月12日に妻の承諾を得て、家に来てもらい話をしていただいた。 4時間程度の話しで妻は次のことを話す。 復活を信じているか? 進化論を信じるか? 戦争になぜ参加をするのか? 葬式ではクリスチャンはどのように振る舞うべきか? 偶像礼拝についてはどう思うか?  妻は藤原牧師との話し合いでは、復活や人間の創造を神がなされたことを藤原牧師が信じていたことに、同調したものの葬儀方法で牧師が「クリスチャンとして神に対する節操を失わないかたちで、遺族の心境に配慮しつつ葬儀に参加する方法と、もっぱら葬儀の手伝いに徹する方法の2つがある。」との教えで妻はエホバの証人で習った「葬儀では手伝いに徹し、他の神に手を合わせることをしてはいけない。」との単純明快な回答しかあり得ないと、後で妻は私に語った。

 

私は8月からこの藤原牧師に付き、毎週水曜日に教会で行われる祈祷会に参加し聖書とエホバの証人の聖書解釈の違いなどを学んだ。妻には内緒で通い続けた。 藤原牧師には本当にお世話になった。親身になって様々な働きを施していただいた。 そして、「エホバの証人被害者集会」があると教えられ、参加した。 妻には「情けない」となじられながら、土曜日にこの被害者の会に行くことを伝えた。 とても、慰められた。全く同じ苦悩を抱いている人々が集っていた。自分の悩みは決して特有なものではないのだと実感した。その会でいろんな方のあかしを聞き、私は保護救出しか助かる方法がないように思われた。

 

また、藤原牧師の計らいで、元エホバの証人のK婦人を牧師と共に訪れ、証人の頃の話しや、今の妻の気持ちや日常の生活パターンを伺った。 元証人の話しは私には察することができない妻の心情を解き明かしていただき、参考になった。

 

この頃から、私のエホバの証人に対する思いが変化していた。 以前は、本音のところ自分が助かりたいという思いが、なによりも強かったと思う。 ある程度周囲の理解を得て、気持ちが落ち着くと、変わらぬ状況にいささか馴れててしまった感もあり、極端な話であるが、冷え切った夫婦関係のこの状況下での生活も、耐えようと思えば、耐えられるような気がしていた。 けれども、妻に一刻も早い救いが与えられるように願った。 このままでは妻が救われない。本人は唯一正しいと純粋に信じて行っていることが、実はとんでもない間違った道を歩んでいることを早く気付かせてやりたかった。 それが、子供の健やかなる成長につながると考えた。 夫婦互いにこのような、腫れ物にさわるような関係と、合い反する価値観の中で育つと子供の精神的育成に問題を与えかねないことを心配していた。

 

保護救出しかありえないかと決めていたが、その道で働かれている宣教師や牧師には、どうしても連絡を取ることが出来なかった。 電話番号も住所も知ていたが、あまりにも他力本願的で虫が良く思え、自分がなにかやるべきことがある気がして、ちゅうちょした。 結局のところなにも出来ずに、焦燥感だけが強くなっていた。 そしてなによりも、具体的な保護救出のことがなにひとつわかっていなかったことが、最大の原因であった。 98年2月に藤原牧師の紹介で奥様を救出された高山さんとお会いし、話しを伺った。 実際の体験者の話は、なによりましてありがたいものであった。私は誰にも聞くことが出来なかった具体的な話しや必要なものを全て尋ねた。高山さんはそれらひとつひとつの質問を、詳細に教えてくださった。また、大きな励ましを頂き本当に感謝であった。 この日、私の中で妻の保護救出が具体的なイメージを持った。 2週間後、私は勇気を出してカウンセラーのC先生に連絡を取ること出来た。 98年2月の夜に東京の会合に来られた、C先生にお合いした。 C先生は私の立場に立ってくださり、実に親身に相談に応じて頂いた。 私からお願いをしたのにもかかわらず、細めに連絡を入れていただき忙しい合間に 私のために時間を割いて会ってくださった。 保護救出の現場には多くの立会いが必要であるが、私の妻の両親は既に他界しており、保護救出の場に居合わせてくれる妻側の身内が誰ひとりいないという、難しい状況下でも先生は、それを察してくださり暖かい助言をいただいた。 私は、あわただしく救出の準備を駈け回り、親を説得し兄夫婦に説明し、父の友人で昔から、私のもうひとりの兄的存在であった人に話すなど、なんとか周囲の協力を得てギリギリで準備を整えた。 普段はあまり私の家庭の状況を話していなかったが、誰しも「なんで、そこまでやる必要があるのか。本当に家内が精神的に耐えられるのか。」と私の妻のことをみんな第一に考えて心配をしてくれたことが特に嬉しかった。

 

約1カ月のスケジュールを準備し、保護は伊豆の別荘で7月20日PM3:30に実行した。私達家族で旅行に出かけ、時間になると私と子供とで散歩に行くと別荘を出て、私の両親と友人が待ち受けて2人の子供を私の実家に連れ帰る計画であった。 代わりに、当初1週間分の食料と生活の必需品を携えて、父が救出に加わった。 この年にもなって、また親に世話になることが心苦しかったが、これから先の約1月の生活を覚悟し、真剣に協力してくれることがありがたかった。 別荘に戻って、真相を打ち明けると妻は意外にも冷静であり、返ってこちらの方が、気が動転させ興奮状態であった。 初日からC先生との話し合いに応じることができた。 初日は夜から約2時間の話し合いを持った。 先生が帰ると妻は、私への罵りと2泊3日の旅行と聞かされていたので、約束を入れていたことが果たせないことへの怒りに気持ちを高ぶらせていた。 「明日は帰る。」との一点張りで、私の話などは聞く余地もない様子であった。

 

2日目は、朝9時半から昼食をはさみ夜まで話し合いが続いた。 C先生より指摘される数々の誤りに関して妻は、「誤りの箇所だけしか見ていない。」とか「(真相を長老に)聞いてみないと分からない」等の抵抗を示していた。 しかし、ものみの塔の組織の書物や資料で、ひとつひとつ示されと個々の誤りについては、認めざるを得ない状況に追い込まれていた。 私から見ても妻はかなり疲労し、「約束があるから家に帰る」としきりに訴えてることが、現状からの逃避を切望しているように思えた。 妻は、過去の幾度となく預言が外れた事実や組織の見解の修正と嘘を知り、また、臓器移植などの禁止と解禁の歴史など、個々の誤りについて認めるようになった。 けれども、「これは誰による誤りですか?」の総括的な問いに対しては、「いいえ、新しい光があります。」と断言し、決して組織に非があることを認めなかった。 私はそんな妻に苛立ち、普通では考えられない論理の組み立て方に落胆を覚えたが、未だ2日目であることを思い、自分自身を落ち着くように努めていた。

 

3日目を迎え、朝に私が妻に組織の誤りを復習的に再度自分なりに整理して話たときは、妻は「しつこい。」と言ったきり全く聞く姿勢を見せず、私は「これは長期戦になるなぁー。」と覚悟をした。ズッシリと昨日と同じ重い空気が部屋全体にたち込めた。 しかし、この22日に妻は、目覚めた。 C先生の「もう、わかりましたね。」という問いに対して、妻は「はい」とうなずいた。それは、私にはとても不思議な光景であった。 どうしてわかったと、うなずくのだろうか。今朝まで全く理解していなかったのに。 「なんで?」という疑問と同時に、待ちこがれていた喜ばしいこの瞬間の訪れに私は、当惑した。 今朝の妻の態度と「絶対に今日こそは帰る。」との発言からは想像もつかないものであった。 その時、私はこの瞬間を高山さんも同様な感想を抱いていたことを思い出した。 妻がわかった振りをしているのではないことは、その後の明るい妻の態度で確信された。 C先生が私に話してくれたことだが、「2日目に奥さんはもう、気づいてましたよ。 ただ、プライドや気持ちの整理があって、どうしても素直にわかったことを告白できずにいたんですよ。」と教えてくれた。 妻は聖書を唯一正しいものと信じていた。「生活に役立つ知恵」として家庭聖書研究において、全てが聖書から話されることにより、聖書に沿った生き方こそが皆を幸せにする道と信仰を持ったのである。 この聖書を全て信じ、正しく理解している組織はものみの塔のエホバの証人だけであると純粋に確信していた。 だから妻は「ものみの塔聖書冊子協会が出版している[ギリシャ語聖書王国行間逐語訳]の現物の書籍で,聖書の訳が改ざんされている事実を知ったことで、わかった。」と後から打ち明けたことが理解できた。 この3日目の夜には元証人であった2人のご婦人を交え、楽しい夕食をし、いろんなことを話し合えたことで、妻は心から安堵感を得られたようであった。

 

その後、私たちはエホバの証人の間違いを指摘するビデオや本を読み、借りた別荘には結局6日間滞在をし、翌1週間を家で妻とともに過ごした。 妻は、未だ伝道をしていなく誤りを他の人に伝え導いていないことにホッとしていた。 それでも、幾人かの信仰を話した友人には、電話で間違いであったことを伝えていた。 長老には、研究生ではあるものの「もう勉強はしない」という内容の断り状とお礼を述べた手紙を渡した。 手紙を渡す前に、私達は長老に組織の聖書訳の改ざんの事実を伝えようと試みたが、長老は、書籍や資料を一切目にせず「私の信じるものは統治体からの教えです。もし疑問があるのなら、私にではなく統治体に手紙で質問してください。」とだけ言った。 妻が最も残念に思ったことは、一番お世話になった司会者や長老婦人に会って話しができなかったことであった。 今、妻は自分が悟ったこの偽りに多くの証人が気づき、そこから真理の道へと開放されることを切に望んでいる。 説得で教えられた資料などをコピーし、いつか証人の方々に話せる機会を待っている。

 

妻が生き返った思いがした。家庭が戻ってきたと感じた。

 

こんな、スムーズに行くなんて思ってもみなかったので、なんであんなにも悩み苦しんでいたのかと、長かった日々が恨めしく、また滑稽にも思えた。 この夏のすべて、決して自分ひとりでは果たし得ない結果に感謝している。 会社には8月3日から出社した。何年ぶりに味わうなにかとても清々しい気分であった。 当初、妻の虚無感やまた元の組織信仰に戻ってしまうという、心配が私の中から完全に無くなっていた訳ではなかったが、妻は、今でも聖書を正しい拠り所としており、その聖書がかいざんされている事実をハッキリと知り得、救出された喜びの感謝を皆に表明している様子と、なににもまして、一番大変であったのは自分で自分を生み直した妻であり、その思いを察し、知る程に心配も薄れた。 妻も本当に180度、全てが良く運んでいくように今は思える。 喜びが確実性をもって、日ごとに実感が増していく。 今回の保護救出の経験を通じて、やはり家族の愛がなければ為し得ないことであり、藤原牧師、高山さん、C先生をはじめ多くの真剣な協力がなければ成功しなかったことを痛感した。

 

なぜならば、ものみの塔組織の真の被害者は妻であり、

そして、真剣さにおいては私よりも遥かに妻の方が、周囲に良く思われていないことを知りつつも、信じることを貫くほどに強いものであったからである。

 

以  上

 




          
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