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☆ 仏教とは?

 

仏教といえば 南無阿弥陀仏・仏壇・線香・お彼岸・と連想されますが これらはほんとうは仏教ではありません。日本の大乗仏教です。 呪文を唱えたり火を祈ったり先祖供養したりすることを 釈迦(ガウタマ・シッダールタ)(B.C.560-480)さんは勧めてもいないようです。 もちろんそんなことを勧めるお経は沢山ありますが 釈迦さんの勧めではないようです。 それは、実際は大昔のことなので分からないのですが 近代になり 多くの解明が成されて来ています。 「大乗非仏」という 江戸時代の学者「富永仲基」氏からの説が有名で これは、後世に造られた「大乗経典」の多くが捏造である、という仮説の元に「増合」によりその原初の意味合いが増やされ「加上」によりそれ以前の思想の上に新たな要素が加えられしかもそれが「正統」として装われているありさまを叙述したものですが 仏教もまさにこのようにして今日に伝わってしまっているようです。 

 


 

☆ 仏教の歴史

 

「先祖供養」をその本旨とする日本の各宗派は、中国や朝鮮によってもたらされた「大乗仏教」です。インドから北西部のヒンドゥークシ山脈を越えてシルクロードを通り、さみだれ的に伝えられてきた経文や仏像によって形成されていく「北伝仏教」と言われているものです。これに対し、スリランカやタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシア、ネパール、バングラデシュ、インドなどで行われている仏教は日本では教科書で「小乗仏教」という名で教えられている南方経由の仏教。そして、最後にチベットやモンゴル、ネパールやインドの一部、また日本の真言宗と天台宗の一部はいわゆる「密教」と呼ばれている仏教です。このように、今世界中で行われている仏教を大きく3つに色分けすることができます。 これらのうち、お釈迦様の時代に一番近い仏教を行っているのが上座部仏教であり、これはお釈迦様が亡くなられてから後100年くらいにおこなわれるようになったもの。それに対し、私たちの日本仏教も入る大乗仏教というのは仏滅後500年を経た時代の要請によって生まれてきた教えであり、密教になるとさらに500年、つまり仏滅後1000年を越えて現れた新興宗教と言えます。

 

☆ 原初の仏教とは?

 

日本の仏教は、大乗仏教といわれています。そして、最近まで大乗でない仏教を小乗教と呼んでいました。そして小乗教という言葉は、大乗による原初仏教に対する蔑称として使用されるので、まともな人々の間では使用しないようになってきました。小乗教ではなく「上座仏教」と呼んでいます。 そして、上座部と大衆部に分かれるまえの仏教が、「原始仏教」です。原始仏教が、釈尊の直説にもっとも近いという訳です。 釈迦の入滅後、その教えは、説法を聴いた弟子達のそれぞれの記憶に留められていただけであった。その教えがバラバラになってしまい勝手に解釈される事を恐れたマカカショウ(釈迦十大弟子の一人)は釈迦の弟子の中から悟りを開いた者だけを集めて、釈迦の教えをまとめる会議 第一結集(だいいちけつじゅう)を行った(ラージャギルハの結集)。この時まとめられた教典がバイタラヨウという葉っぱを綴ったものに残され、経典のもとになっている。経典が、如是我聞(私はかように聞いた)で始まるのはこの為である。

 

☆ 第二次結集−根本分裂

 

お釈迦様の入滅から100年ほどしたとき、ヴェーサーリーにて700人の僧侶が集まって仏典編纂会議(第二次結集)が行われた。その理由は、跋闍子比丘(Vajjiputtaka)が、十項目にわたる従来の戒律に例外を作り、戒律の緩和を唱えたためである。それがこの結集で律(教団規則)に違反すると判断された。この決定に不満をもつ僧侶たちは新たな教団を形成して「大衆部」という部派ができ、仏教教団は「上座部」(保守派)と「大衆部」(革新派)に「根本分裂」する。その後もさらに分裂してゆき20の部派に分かれる。それら原始仏教教団は、 部派仏教=アビダルマ(abhidharma)仏教 と呼ばれ、中でも最も有力な部派は、説一切有部(上座部系)であった。

 

☆ 三蔵の成立

 

乞食をしながら各地を巡っていた仏教集団は、雨季だけは移動せずに定住地に居住した。やがて、教団は寺院を建てそこを根城として活動するようになった。彼らはその定住する場を得て、お釈迦様の教えを分類整理し、個々の概念の意味内容を吟味したり、自然界や心のあり方を観察し、細かく分析し体系化していった。その間に培われた哲学理論や実践法の集大成はそれまでの仏教を後世に残すための大切な作業でもあり、こうしてまとめられたものを「論蔵」といい、経蔵・律蔵と併せ三蔵と呼ばれている(律蔵・・戒律や修行法。経蔵・・釈迦の教え。論蔵・・経典解釈/しかし実際には、部派ごとに論蔵があった)。西遊記でもお馴染みの三蔵法師はこれら三蔵すべてに精通している人の称号のことである。そして、この三蔵は、正に後の仏教者によって「小乗」と非難されるこの時代にまとめられ、それによって仏教の礎が出来上がることとなる。そしてまたこれら仏教の哲学的集大成のお蔭で、その後の大乗仏教の思想的探求が可能になったと言われている。 上座部仏教は、教学の体系化という業績にとどまらず、その教学は良い意味では深化し、大乗仏教もそれを継承してゆく。しかし、悪い意味では煩瑣なものとなってゆく。仏教は当初から、出家による出家のための仏教という様相があったが、それが単なる出家仏教というより、碩学の碩学のための碩学の仏教となってしまった感がある。

 

☆ 大乗の出現

 

それに対して異を唱えた仏教徒の運動が、大乗仏教となる。出家は当時のインドであっても全ての人にできることではなかった。しかし、仏教の最終目標である苦しみからの解脱、あるいは成仏は出家に限って成就されると考えられていた。かといって、すべての人が出家できるわけではない。自分が出家しても、家族が食べてゆける者しか出家できないことになっていた。そして、出家には相応の覚悟を必要とする。また、国民全てが出家して乞食の生活をしてしまえばその国の経済は成り立たない。 出家の叶わぬ凡夫が、在家の凡夫のまま仏教の究極の理想を極められるような・・・いわば「あつかましい」運動、それが大乗仏教興起の端緒だった。 初期大乗仏教の興起は「仏塔信仰」に求められる。お釈迦様の入滅後、火葬されたお釈迦様の遺骨は分骨され丁重に埋葬された(葬儀は仏教の範疇外なので 土着の作法でそれは執り行われた)。そこには、ストゥーパ(卒塔婆)という仏舎利塔が建立され、仏教徒に限らず民衆の篤い信仰を集めた。やがて、そのストゥーパを管理しあるいはストゥーパ参詣者をガイドをする「法師」という人たちが出現してくる。正規の僧侶は墓守やガイド役などをしなかったので、彼らは在家であった。そんな彼らの中から興ってきたのが、初期の大乗仏教ではないかといわれている。 大乗仏教徒達は、それまでの既成仏教教団を「小乗」と称して、自己だけの完成を求めている二乗「声聞・縁覚(独覚)」と定義し、自分達で「オリジナルの経典」を作成してゆく。(日本では神々のように振る舞う数々の仏や菩薩が説かれるが、これは大乗派の経典に基づいており、粉飾された架空のものといえる)最も初期に作成された大乗経典が「般若経」である。般若經というのは単一の経典ではなく同一の系統に属する多数の経典の総称である。このうち最も早い時期に成立したのは「八千頌般若経」といわれる。 大乗経典が、大衆と隔絶されてしまった仏教を再び地に足つけたものに引き戻そうとして編まれたものである、という前提が在るが、実はこの部分にも疑問が提示されている。釈尊は、バラモン中心の社会的慣習や儀礼などを否定し、常に人間平等の立場から、言葉も一般民衆語を用いて説法したといわれている(俗語であるマガダ語を用いたとの説)。つまり一般民衆の一種の俗語をもって人々に語りかけた、といわれる。貴族や僧侶階級の使うサンスクリット語を使わなかったのである。ところが、先に述べた分裂派の学僧達はその説法をサンスクリット語で書き表したり、また自分達の研究論文をサンスクリット語で書き遺した。このことは彼ら学僧(=声聞)たちの考え方・生き方が一般大衆から少しずつ疎遠になりつつあった、乃至ははっきりと隔絶してしまった事を暗示している。大乗仏教徒達がこれら学僧に憤り、彼らから分離して民衆の為の大乗復興運動を起こした、といわれているにも関わらず、その創作した経典の言語がサンスクリット語であったことは、その運動が本当に民衆の中に浸透したかどうか?もし下層の人にまで教化を勧めたのであれば、「なぜ経典を貴族語であるサンスクリット語で書いたのか」疑問が残る。

 

☆ 中国伝来

 

仏教が中国に伝来したのは西暦紀元前後である。伝播した経路は、ガンダーラ(現在のパキスタンやアフガニスタン)からカラコルム山脈を越え、シルクロードを伝って中国にもたらされたのであろう。すでに中国には道教や儒教が成立しており、中華思想の中国が他国の精神文化を受け入れるのには時間がかかったことは容易に想像できる。 当初は道教や儒教の類縁であることを表明して辛うじて存在を保持し(格義仏教)、やがて仏教の勢力拡大とともにそれが「修正」されたが、その影響は現代までつづく。中国で撰述された偽経(中国撰述経典)が400もあることは、中国が仏教を純粋に受け入れようとしなかった、あるいは受け入れることが不可能だったことを表している。 インド仏教学的(学術的)考察によれば、インドですら「仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史」と捉えることができる。まして、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、チベット高原、タクマラカン砂漠などで地理的に区切られ、距離的にも文化的にも遠い中国に仏教はもたらされた。「仏教教義の変遷」があるのは否めないだろう。 やはり、お釈迦様の入滅後500〜1000年以上も後に、距離的にも文化的にも遠い中国で翻訳された漢文経典だけをもとにお釈迦様の説かれた真相を考察することには無理があるだろう。ただでさえ、漢訳は「直訳ではなく意訳」で、もとのサンスクリットを同定することは困難である(そもそも、翻訳の底本にしたサンスクリット原典を残さなかったらしい)。 しかしながら、中国仏教そして東アジアの仏教は独自の姿に変形しつつも 何とか生き延びている。インドのようにイスラム教による仏教への攻撃もなく、密教化(ヒンズー化)した仏教がヒンズー教に吸収されることもなかった。なお、インドの伝統的仏教は上座部仏教としてスリランカ、タイなど南伝仏教として現在に伝わる。また、インドでは原始仏教、部派仏教、初期大乗仏教(阿弥陀、初期般若、法華経など)、中期大乗仏教(中観、唯識、如来蔵)、密教 と時代を経て仏教が展開したのに対して、中国では原始仏教から初期大乗仏教までが一度に伝わった。そして、後に中期大乗や密教が伝わり、どの教えを採用してよいのか混乱をきたした。その中から、「教相判釈」という中国独自の経典の体系付けが行われ、その所依の経典の違いから中国独自の宗派や信仰が生まれていった。仏教が定着する4世紀には、既に中国では儒教に加えて老荘の思想が流行していた。それが故に、中国の人々は初期においてはそれらの思想特に老荘思想を通して仏教を解釈しようとした時代があった。たとえば大乗仏教の中心思想である「空」を老荘思想で説く「無の思想」をもって類推しようとしたというのだ。しかし4世紀後半になって本格的仏教研究が進むと、こうした仏教解釈は批判され、インドの仏教そのものを正しく理解しようとする思想運動が進むことになった。しかし、それからも後々まで中国仏教を形成していく中で老荘思想と仏教との結合」は否定することのできないものとなり、「無」という言葉が後々までも中国仏教の中で重要な概念として残されていった。さらに、儒教の国に相応しく、「孝」という徳目を説くことがない仏教は中国において受け入れられるものではなかった。そこで父母恩重経などのお経を「創作」して孝の道が説かれ、そしてまた、位牌を造ったり、先祖供養を営むという儒教の習慣が入れられたと言われている(格義仏教)。位牌は後漢(25-221)の時代に既に儒教において用いられていたという。 また、中国では一度翻訳されるとインドの原典が省みられることはなく、その漢訳した訳語を巡って議論され解釈が加えられ、仏教の原初的な姿とはかなり異なるものとなっていった。それは既に西域に仏教が伝えられた時点でも同様なことがあったと思われるが、いずれにしてもこの様に仏教は中国化して受け入れられ、その中国化したものが我が国にも伝えられることになったのである。

 

☆ 密教の出現−仏教の最終モデル

 

宗教というと神秘的で不思議なもの、論理では語られないものという認識が一般にないだろうか。インド土着の宗教であるバラモン教もその範疇である。 ところが、その中にあって、釈迦は「神秘主義を克服し正しい論理を身につけること」を説いた。 ところが、仏教はヒンズー教の一派のタントリズム(Tantrism タントラ教)の秘密の教義体系を受け入れてしまう。それが密教となる。初期大乗時代に成立した『般若経』『法華経』などにも一部に呪文が登場する。2〜3世紀頃になると呪文を中心とする単独の除災経典も成立する。6世紀までのこれら密教への発展過程ととらえるむきもある。

密教は呪文(真言・陀羅尼)、手の印相、曼荼羅を用いて修行の目的を達成しようとした。7世紀に至って『大日経』『金剛頂経』といった体系的な密教経典が成立する。そして、宗教体験の絶対世界を象徴的に表現する曼荼羅が生み出される。

しかし、何故「インド仏教は密教化しなくてはならなかった」のか。クシャーナ王朝(1世紀半ば〜3世紀前半)までのインドでは仏教は盛んだった。その時代は東西貿易でローマ帝国より莫大な金が流入して経済は栄えていた。しかし、中央集権的にインド全体を統一したグプタ王朝(320‐550年頃)はヒンズー教を国教にしたので、仏教はそれなりの勢力を保持しつつも苦難の時代を迎える。さらに、西ローマ帝国の衰退と滅亡(476)により東西貿易が衰退し経済は衰退した。それにともない、仏教を支えた商業資本とそのギルドは衰退した。相対的に王権が強くなり、宗教上もその統制力が強くなる。都市のギルドの弱体化によって、相対的に農村に基盤をおくヒンズー教が優勢となり、やがて圧倒的となる。国王も彼らバラモンの意見を聞かざるを得ない状況となり、あるいは積極的にバラモンを利した。ヒンズー教が圧倒的になり仏教はその影響を受けた。また、ヒンズー教が圧倒的な社会となったため、仏教には適応策が必要となった。そして、ヒンズー教に妥協し、その民間信仰を受け入れざるをえなくなった。

 

☆ インド仏教滅亡へ

 

それ以後のインド仏教は密教が盛り上がるのであるが、12世紀末頃を最後にインド仏教は消滅してしまう。社会状況としては、西域からのイスラム教徒による侵攻によって衰退していったといえる。盛んに用いられたという災難を防ぎ敵を倒す呪文が効することもなくイスラム教に滅ぼされ、インドでの仏教は終焉した。しかし、それならばなぜ、そのときのインドの民俗宗教であるヒンズー教が滅びなかったのか。なぜ仏教だけが滅んでしまったのかという疑問が残る。そんな疑問を持ちながらインドから仏教が姿を消していった経過をたどってみると、仏教がインド民俗の俗信、民俗宗教の中に埋没していったのであって、滅亡したのではないということがわかる。イスラム教徒によって仏教寺院がどれほど破壊されても、また、仏教の僧侶がどれほど殺されても、民族の中には仏教信者たちはたくさんいたわけで、つまり密教化という仏教自体の変化の中で、仏教はヒンズー教の中に埋没していく。それがインド仏教滅亡の実態である。神秘主義を好むインドにあって、「当初の仏教は神秘主義を排除した」といえる。「仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史だ」と公言する仏教学者もあるが、その理由の一つは、お釈迦様が否定したはずの過度な神秘主義や、積極的に言及されなかった形而上のことなど「非仏教的なことが教義に編入された」ことだといえる。 密教はそれまでの顕教、すなわち明瞭な言葉で説く通常の仏教に対し、非公開な秘密の教義と儀礼を、師匠から弟子へと秘密裏に伝え持とうとする仏教であり、門外漢には伝えない特徴をもつ。これは「ヒンズー教化した仏教」である。 そもそも、歴史上のお釈迦様は秘密の一子相承などしただろうか。それは長男か信頼できる弟子にしか相伝しなかったウパニシャッドの哲人の相承形態ではないか。 歴史上のお釈迦様は秘密の儀式や修法などしただろうか。お釈迦様は伝統的なインドの古代宗教にとらわれず、自由な思索によって、生きるうえで避けて通れない苦しみという問題に対して教えを説かれたのである。「原因があって結果がある」という簡素で揺るぎない真理。しかもそれは「信仰」には依らず誰にでも知覚できる。「信仰」から生まれる「妄想」ではない。 その仏教の原点に立ち戻って、密教を検証しなくてはならない。 密教が成立し体系化されたのは、お釈迦様の入滅後1000年以上も経た7世紀のことである。仏教が発展した最終モデルであると同時に、お釈迦様から最も遠い教えであることは事実であろう。 さて、インドは仏教の発祥地として約千年間、その中心地であり続けた。しかしその間にも、「ヴァルナ」という身分階級制度が復活の兆しを見せ始める。そして次第にヒンドゥー教が仏教を取り込む形でその教えを「骨抜き」にしてしまう。その顕著な例はパーラ王朝(8〜12世紀)の頃に表れ、当時密教として変貌を遂げていた仏教は、いよいよヒンドゥー教シャークタ派の「タントラの思想」に同化してしまう。 ヒンドゥー教の中には何と仏陀も登場するが、それはヴィシュヌ神の化身として扱われるのです。そこでも仏陀はバラモン文化を批判し人類の平等を説くのですが、その立場は逆説的で、魔族を混乱させ力を失わせるため、「わざと偽の教えを説いている」とされてしまう。

 

☆ 仏教への集団改宗

 

仏教を生んだ国でありながらインドはいまだにカースト制度によって成り立ち、そして悩み続ける国である。不可触民、カーストにも入らない階級の人々は今日でも屈辱的な差別の中で生活してる。 そんな中、1956年10月14日ナグプール市においてアウト・カーストのマハール約20万人が、ヒンドゥー教から仏教への集団改宗を行った。指導者のアンベドカルは不可触民のマハールとして育ち、様々な差別を乗り越えての改宗宣言だった。 「ヒンドゥー教を受け入れる事は私の自尊心が許さない。 アウトカーストを人間扱いせず、水を飲ませず寺院に入る事を許さない宗教は、宗教の名に値しない」 …こうした激しい憤りとともに。   釈迦の苦悩とたどり着いた教えは、こうして現代に受け継がれている。

 

彼の不可触民制廃絶運動は、こうしたヒンドゥー教批判に始まるが、アンベドカルが仏教を受け入れた理由として、虐げられた人々の力となり差別と闘ってきた宗教である、という理解が強くある。また在家信者の組織化を図り、国内外に連帯を呼びかけるなど、今日の私たちにも共通する課題に取り組んだ。 このような努力もあって、1951年には18万人程度だった仏教徒も1981年には470万人を越える信者がインドに存在することとなった。 さて、インド独立運動で有名なガンジーが、彼は敬虔なヒンドゥー教徒でもあった。 だから、インド独立に対する彼の貢献を疑う者はいなくとも、ことアウトカーストに対する身分差別撤廃に関しては、ガンジーに対する評価は高くない。 これは、日本であまり知られていない事実である。

 


 

☆ 日本の仏教

 

・飛鳥時代(6世紀後半-8世紀初頭)

 

552年に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏(もののべうじ)・中臣氏(なかとみうじ)などは、新たに伝来した仏教の受容には否定的であった。一方大豪族の蘇我氏(そがのうじ)は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であった。蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りを買う恐れがあります」と反対したという崇仏・廃仏論争。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認した。 仏教公伝の背景には、百済および日本国の政治的理由がある。百済は仏教を、外交を有利にするためのツールとして利用した。そして、当時国内には平安が無く、そこで「国家鎮護」のために新しい神が需要されていた。そこで仏教は輸入されたが、仏教には「国家鎮護」のような要素は無い。仏教とは、そもそも個人の魂の救済や自覚を促す教えである。 崇仏・廃仏論争の本質には、百済と国内の状況、そして朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いが主体にあった。

 

結局、蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、「武力」をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。 飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、「仏教的道徳観」に基づいた政治を行ったとされる。しかし、この時期において仏教を信奉したのは、朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎなかった。

 

・奈良時代(A.D.710-794)

 

奈良時代には鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、東大寺大仏の建立、鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、いまだ本格的な大衆への普及には遠かった。 それらは、後に南都六宗と呼ばれるが、民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。

 

・平安時代(A.D.794-1192)

 

南都六宗は政治に口を出すようになった。 桓武天皇は、「彼らの影響力を弱めるために」平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。 最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせたが、結局全国にわたって庶民段階にまで仏教が普及するのは、中世※以降まで待たなければならなかった。 ※中世 一般的には、平氏政権の成立(1160年代)から安土桃山時代(A.D.1568-1603)までが「中世」と目される。 そしてこの時代の仏教もまた、国家鎮護の役割から発し、それを担う存在だった。

 

こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説※があらわれて神仏習合が進んでいった。 ※本地垂迹説 仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態(垂迹)を取ってこの世に出現してくるという本地垂迹説は、このような仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる。日本では、仏教公伝により、奈良時代の物部氏と蘇我氏の対立を見るまでもなく、相互には隔たりがあった。しかし次第にその隔たりがなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じであるとし、神を仏の境涯に引き上げようとして納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。

 

・鎌倉時代(A.D.1185-1333) 室町時代(A.D.1336-1573) 

 

それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に「民衆の救済のためのもの」となっていった。主として叡山で学んだ僧侶によって「仏教の民衆化」が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。「比叡山-延暦寺」は、最澄が拓いた寺だが、最澄は、すべての仏教の統合化を試み、鑑真が艱難辛苦の末、失明しながらももたらした戒律を全廃し、仏教を独自に組み直した。 その結果として、釈迦仏教とは隔たる、念仏、または浄土思想主体である「大乗仏教」が、仏教として現代に伝わってしまった。 鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。貴族に取って代わり、力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。鎌倉仏教の各宗旨が全国規模の大教団になったのは室町時代になってからである。 1549年にはヨーロッパからキリスト教がフランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。

 

・戦国時代(A.D.1493-1573) 安土桃山時代(A.D.1568-1603)

 

・江戸時代(A.D.1603年-1868)

 

仏教は、幕府の宗教政策の一貫として民衆支配の方策として用いられたために檀家制度一概に不振だった。 仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。

 

・明治時代(A.D.1868-1912)

 

明治時代で特徴的な点が、西洋式文物の大量輸入による産業革命である。明治維新が起こった時には神仏分離令により、廃仏毀釈運動が起こった。 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃するなどを指す。 各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、「檀家制度のもとで寺院に搾取されていた」と感じる民衆がこれに加わった。明治政府は「神道を国家統合の基幹にしようと意図」したが、明治5年3月14日(1872)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。しかし、廃仏毀釈運動は明治以降、第二次世界大戦の敗戦まで一部の過激な神道家とこれに追随した一部民衆が行ったものの、一部地域を除き、民衆には普及しなかった。

 


 

☆ 仏教の本質とは

 

釈迦は 生老病死という一切皆苦を目の当たりにして苦を除きたいと考え、当時のバラモン教の修法をも多く学んだ。 それは輪廻思想に基づくアートマン(個我)の教義であり それに対し釈迦は反骨を見せ アナートマン(非我)を説いた。 その概念は「空」とも呼ばれるが 万物は「色」(要素)から成っており 要素の集合体が 各物を形成しており、つまり、あなたという人も、様々な要素が成立させているのですよ、生まれ変わる実体などは無い、とし、生まれながらの、バラモン(貴族)やスードラ(奴隷)の区別無く 善き事を行えば善き地に生まれ変わる、不平等無く。という「単純な論理」を 当時のそのような「迷信」によって支配された衆生に説き その「迷い」を抜くことで「救い」を見せた。 現在の新興宗教に見られる「形而上学的、不可思議なご利益」による奇跡 など微塵も無い、論理の教えである。 「原因」があるから「結果」がある。「苦」は何故生まれるのか。→「欲」が「苦」の根源である。→○○すれば救われる??? そんな「迷信」自己中心や思い込み信仰も捨て去り、欲を鎮め奪い合いをやめ自らをこそ整えれば、相互慈愛で分け合い助け合うことができるだろう。 崇拝も盲信も信仰も「迷い」である。 過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれよく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ。


釈迦はそんなあたりまえの理屈「法」を 衆生が受容出来得ないと思われたので一旦は説法を躊躇した。 彼の「危惧」は当たり、数百年後にはご利益的な呪いやシャーマンを取り込み、とうとう仏教は大乗化密教化 信仰宗教ヒンズーに「同化」してしまった。 それも言わば当然で 衆生はご利益を求める「浅ましさ」があることから「迷信」を求め、それに応ずる形で 仏は大衆的に汚されてしまった。 現在釈迦仏教の残滓が残るとはいえ 中にはもはやキリスト教的信仰ドグマをも包括してしまうという「自称仏教」まで在る。 「末法思想」はその端的な例で「ハルマゲドン」と同義の観念的迷信であり 言わずもがな「妄想ではない明らかな知覚」を求める仏教とは隔たる。 これは上記、仏教の堕落であり大衆のオカルト志向を逆手に取る、宗教信仰要素である。 このように「妄想に囚われること」それをこそ釈迦は棄却したが、後の大乗者たちは ミイラ取りがミイラとなり、仏教を「骨抜き」にしてしまった。 キリスト教とは「信じれば救われる」という大衆も飛び付かずには居れない魅力的な教えとなっているが 以降、大衆にとっての仏陀とは、イエスキリストのような超越的な実存として 可能性の象徴であり、生きる希望であり、都合のよい拠り所 とされてしまったわけである。 その真髄であった 無我=空=縁起 はご利益や崇拝や盲信へと換えられてしまう。 それは「慈悲に満ちた恵みの世界観」と言う形に都合良く美化され そのように装飾を施された「仏教」は巷の多くの「宗教」のように世俗化して広まってしまった。 このようにして本来仏教は滅亡した。 現在在るのは偽仏教団なのでご用心。 むしろ世俗の図書館の書棚とそれを手にする名もなき比丘・比丘尼の心象に仏が息づいている。 そこにはご加護も献金も勧誘も無い。 仏法とはそもそも、その名のとおり、妄想でも信仰でも崇拝でもなく、単なる生き方の法則なのである。

 


END


 

□大乗仏教の嘘

 

□心にしみる原始仏典

 

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