戦史
城巡り
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松前城本丸御門、天守松前城日本100名城
北海道松前郡松前町字松城
JR木古内駅から函館バスで約1時間半
函館市内から車で約3時間
○歴史
 元々蝦夷地はアイヌ人が居住しており、代々の日本中央政権の支配外にあったが、室町時代の頃より甲斐源氏若狭武田氏の出とされる蠣崎氏が徐々に現在の渡島半島の南部での支配権を確立していった。
 蠣崎氏は本州の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配していた安東氏の影響下にあったが、5代当主慶廣の代に当たる1591年に豊臣秀吉への拝謁に伴う所領安堵及び官位受任より安東氏からの独立を果たし、徳川家康の征夷大将軍就任後も幕府から蝦夷地に対する支配権を認められた。
 蝦夷地に対する支配権を認められた松前氏(1599年に蠣崎氏から改姓)は、渡島半島南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を独占することにより藩政を運営していった。
 18世紀半ばから目立つようになったロシアの南下の活発化により蝦夷地の支配権を幕府に取り上げられた時期もあったが、1821年に松前藩は蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。松前氏の蝦夷地支配再開と同時に幕府は松前藩に北方警備の役割を担わさせることとし、1849年に北方警備を目的とした新城築城を第12代藩主であった崇廣に命じた。
 新城築城にあたり、松前藩内では現在の地ではなく、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(現在の函館山)に築城するべきという意見もあったが、松前港の地位低下に対する懸念や予算上の制約等により当時の松前氏の居館であった福山館を拡張する方法で落ち着き、1850年に新城築城に着手した。
 新城は高崎藩の長沼流兵学者・市川一学により縄張りが定められ江戸時代から発達した軍学の粋を集めた城として1854年に完成し、幕末の動乱期を迎えた。

○現在
 1868年秋、蝦夷地での独立政権樹立を目指す旧幕臣の榎本武揚を首領とする軍勢が渡島半島の各地に上陸、制圧行為を開始した。その過程で松前城は元新選組副長であった土方歳三が率いる軍勢により搦手側の防御が弱い点を衝かれて落城してしまった。
 しかし、新政府軍の反撃により榎本らの政権は翌1869年に降伏し、再び松前城は松前氏の手に戻ったが、1871年の廃藩置県により城は明治政府の管理することとなり、1875年には天守等の本丸内の建物を除くほとんどの建築物が取り壊された。
 昭和となった1941年に残存していた天守・本丸御門・本丸御門東塀が旧国宝に指定されたが、1949年には天守及び本丸御門東塀が失火により焼失した。
 以後、天守が1961年に松前城資料館として、2000年から2002年にかけて搦手二ノ門と天神坂門が再建され現在に至っている。

復興天守

松前城復興天守
 松前城は、城壁等に鉄板を仕込むことにより砲撃に備えると共に、建物の屋根には寒さで凍み割れやすい粘土瓦の代わりに銅板を葺いた。更に天守は通常柱の間の壁は竹で編んだ骨組みに壁土を塗りこむが、やはり砲撃に耐えられるように中に硬いケヤキ板を仕込んで備えとした。
 松前城の天守は近世城郭最後の天守であり、明治維新後も存続していたが、1949年に焼失。現在の天守は1961年に鉄筋コンクリート造にて再建されたものである。

本丸御門

松前城本丸御門(表側)松前城本丸御門(裏側)
 松前城で唯一現存する建物で重要文化財に指定されている。
 通常の櫓門と比較すると、2階の高さが低く、また屋根を切妻造とする点に特色がある。裏側は、全く2階がなく1階に直接葺き下っている。
 これは防備上で必要のない背面を省略することにより2階の総高を低くすることによりし、精密な切込ハギの石垣の採用(石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないようにする効果がある)と共に厳寒の機構に備えた造りとなっている。

(上写真から)搦手二ノ門、天神坂門

松前城搦手二ノ門松前城天神坂門
 これら2つの門はいずれも2000年から2002年にかけて搦手二ノ門と天神坂門が再建されたもの。

旧本丸御殿玄関

松前城旧本丸御殿玄関
 かつては小学校校舎の一部として利用されていたが、現在は本丸御門近くに移築保存されている。

松前藩主松前家墓所

松前家墓所
 松前城北側にある寺町内には松前藩代々の墓所がある史跡松前藩主松前家墓所がある。

旧波止場

旧波止場
 松前藩は禄高のない特別な藩でアイヌとの交易で得た蝦夷地の産物を上方等へ販売することで藩財政を賄っていた。
 現在残る旧波止場は明治時代に松前城取壊しの際に生じた石垣を流用して造成されたものである。


(城巡りとは関係ないけど)
松前駅跡

松前駅跡
 松前駅は江差線木古内駅を起点としていた松前線の終着駅であったが1988年に廃止となった。
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