Let's No.33(2001.12) 掲載

家永さん ノーベル平和賞始末記    

               荒井信一



 2001年10月12日、ノルウエー・ノーベル賞委員会は、国際連合とコフィ・アナン国連事務総長にノーベル平和賞を授賞すると発表した。国際テロなどの世界平和にたいする挑戦を重く見た結果であろう。実はアナン氏以外に有力候補として家永三郎東京教育大名誉教授を推す動きがあった。香港とカナダのNGOが運動を呼びかけ、各国の閣僚、国会議員(含むヨーロッパ議会)など14名、大学教授144名が推薦に参加した。国籍は中国、韓国、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、スイス、オーストラリアなどにわたり、蘇智良、朱成山、鄭在貞、ハーバート.ビックス、ノーム・チョムスキー、ブルース・カミングス、ジョン・ダワー、ピーター・ドゥース、ジョシュア.フォーゲル、リチャード・ミネア、テッサ・モーリス.スズキ、ジョン・プライス、イマニュエル・ワーラースタインなどわが国でも良く知られている人々が家永さんを推した。運動の期間は、1ヶ月にみたなかったが、国内からは国会議員3人を含む80名が推薦にくわわった。家永さんの多年にわたる自由と民主主義、平和のための学問的な戦いが世界の良心的な知識人、平和活動家、人権活動家に良く知られ、高く評価されていることの証しであった。

 推薦は1月末締め切りでおこなわれたが、この時期はいうまでもなく戦争の美化、歴史の歪曲を特色とし、自国中心のナショナ>リズムを鼓舞しようとする歴史教科書が検定のために提出され、わが国の世論はもちろん近隣諸国からもきびしく批判されつつある時であった。日本政府は公正な検定を約束したにもかかわらず、表面的な修正だけでこの教科書を合格させたが、来年この教科書を学校で使用するのは、わずか0.039%の生徒にすぎない。この結果は家永さんの多年にわたる戦争の真実の究明と普及、教科書訴訟―不当な検定にたいする裁判闘争が日本の市民の間にも深い影響をおよぼしていることをあらためて感じさせるものであった。

 ノーベル平和賞が始まったのは今から100年前、1901年である。この6年後、人道の観点から戦争中の軍隊の行為を規制する「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)」が成立した。15年戦争中に日本軍は、これらの国際法に違反する非人道な行為―無差別爆撃、南京虐殺、731部隊、「従軍慰安婦」等―を繰り返した。家永さんはその行為の違法性を事実に基づいて明らかにするとともに、教科書に正しく記述され、子どもたちが過去の過ちに学びながら国際法と人権・人道に基づく平和な未来に生きてゆけるようにしたいと願った。

 10月5日、国際テロと報復の動きのなかで8人のノーベル平和賞受賞者が共同声明をだし、報復にさいし軍事行動を控えるよう合衆国政府に訴えた。8人は、野蛮な行為に責任あるものを裁判にかけるために国際法の現存の基準が用いられるべきだと強調した。平和賞受賞者の1人、北アイルランドで暴力に反対する公的な行動をたたえられ授賞したメアリー・コリガン・マグァイヤーは、暴力は目的とするに値しない、報復はさらに多くの人々の死を引き起こすのみという信念をのべつつ「われわれは喪失と苦しみの深さを知っている。しかし心の中では、一人一人に癒しを与えられるのは愛だけだということを知っている」と語った。また1995年に核軍縮のための活動をで平和賞を受賞したサー・ジョセフ・ロートブラットは「軍事行動がとられるのであるならば、国連中心で安全保障理事会によってでなければならない」と国連が果たすべき積極的役割を強調した。事件直後にブッシュ大統領にあてた書簡で、1989年の受賞者ダライ・ラマは暴力による報復が賢明であるか疑わしいとし、自身の信条「暴力は暴力の循環を生み出すのみ」を引用した(IFORニュースリリースによる)。

 ノーベル賞委員会は、アナン氏の業績のひとつに「加盟国が主権をたてに違反行為をすることは認められないことを明確にした」ことをあげ、さらに国連についても「世界の平和と協力を実現するための交渉の道は、国連を通じてしかあり得ない」と
断言した(平和賞授賞発表文)。アメリカのその後の行動は果たしてこの方向に沿うものであるのだろうか。
 家永さんが授賞を逸したことをめぐり、平和賞の授与が欧米本位ではないかという議論が高まっている。この機会にあらためて現代の世界における戦争と、平和のあり方について議論を深めてゆくことが必要であろう。

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