Let's No.49(2005.12)

時評
 
吉田茂と丹東     

                                       荒井信一

 この夏、丹東を訪れる機会があった。丹東は鴎緑江の河口に近い国境の町である。19世紀後半から急速に開発がすすみ1876年に安東県がおかれた。安東は丹東の旧名で、東を安んじるの意がある。中国と朝鮮、日本との関係を意識した命名である。日本の対華21か条要求(1915年)の当時、吉田茂が安東領事であった。満蒙の利権を拡大し、山東省に新たな権益を要求する日本の要求に中国国民ははげしく抗議し、各地で日貨排斥、救国貯金の運動がおきた。安東も例外ではなかった。吉田の本省宛あて報告によると、日曜日ごとに3〜400名を集めて演説会が開かれ、「小商人」も参加した。日本品を扱っている商会が仕入先を大阪から上海に変更していることも報告にある(6月23日付)。

 吉田が34歳で安東に赴任したのは1912年である。4年数ヶ月その職にあった。彼のようなキャリヤー外交官が、4年以上も同一のポストにとどまるのは異例である。吉田の在任が異例の長期にわたったのは、陸軍大将寺内正毅との関係からである。寺内は、1910年には陸相兼韓国統監(第3代)として韓国人の抵抗運動を武力で制圧し併合を強行した。初代朝鮮総督となり、陸相を辞任したあともそのまま在任し1916年に首相に就任するまでその職にあった。吉田の安東領事としての任期が長引いたのは、寺内が朝鮮統治のために吉田の存在を必要としたからである。
 吉田自身「若い頃、もっとも厚く知遇を得た人」(『回想十年』)として寺内の名を上げている。安東には朝鮮族が多く、吉田は領事として在留日本人と朝鮮族との民事事件にかかわることが多かった。吉田はその経験から、朝鮮人は争いを好み、すぐカネをほしがるという偏見をつよくもつようになった。おそらくこれが彼の朝鮮人観の原点になった。ジョン・ダワーは、吉田は安東時代の経験をもとに「朝鮮人は議論を好みとか、闘争心が旺盛だとか、和解したがらないとかいう単純化されたイメージ」をもつようになったとかいている。 (ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』中公文庫)。

 現在、韓国では日韓条約締結(1965年)関連の文書の公開がすすんでいるが、そのなかで日韓条約よりも、韓国を排除したサンフランシスコ講和のほうに問題があったという認識が広がっている。韓国を講和会議に呼ぶことに反対したのが、時の首相吉田茂であった。
 吉田はアメリカの講和特使ダレスに提出した文書(「平和条約署名について」1951年4月23日)で「韓国が条約調印国となれば、在日朝鮮人が連合国人として財産の回復、補償等について権利を取得する。朝鮮人がかような権利を主張してくるとすれば、日本政府としては、ほとんど耐えられない負担を負うことになるだろう」とのべ韓国の参加に反対した。この発言の根底に安東領事時代に固まったかれの朝鮮人観がある。吉田と安東の結びつきは戦後日本の対韓外交を考える重要な視点を示唆しているように思われる。

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