Let's No.28(2000.9)掲載

特攻の町・知覧にて

                   吉田 裕(一橋大学・当センター編集長)


 1999年の11月、鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館を訪れた。知覧には戦前、陸軍の航空基地があり、沖縄戦の際には、ここから436名の特攻隊員が沖縄海域へ飛び立っていった。特攻隊には以前より関心があったため、ぜひ一度は訪れてみたい地であったし、最近少しずつ知られるようになってきた朝鮮出身の特攻隊員のことも調べてみたかった。またゼミの学生の中に、特攻平和会館では「特攻まんじゅう」を売っているという者がいて、そのような死者を冒涜するような商業主義が本当に存在するのか、ということも自分の目で確かめてみたかった。
 かつての護国神社の参道を抜けて左に入ると特攻平和会館の大きな建物が正面に見える。その入口のすぐ左手の所に大きな真新しい石碑がたっていた。碑文には、「アリランの歌声とほく母の国に念い残して散りし花々」と刻まれていた。一見して、朝鮮人特攻隊員のことを歌ったものとわかったが、建立の由来などは一切書かれていない。すぐに特攻平和会館に入り、事務室で碑のことをたずねてみたが露骨に嫌な顔をされた。特攻隊の暗部をかぎまわるな、といわんばかりの応対である。
 しかたなく展示室に入り、村永薫る編『知覧特別攻撃隊』(ジャプラン、1989年)を買い求め、巻末の「特攻隊戦没者名簿」でチェックしてみると、出身地が「朝鮮」となっている者が11名いる。その11名の一人一人について写真や遺書などの個人展示をあたってみると、朝鮮名のみ記されている者、あるいは日本名と朝鮮名が併記されている者が7名いた。その後、館内を見て回るが、特攻隊員たちの純真さ、健気さだけを一方的に強調するだけの内容で、正直なところウンザリとさせられる。「語り部」の老人がいて、特攻隊員たちの神々しい姿について、バスガイドのような淀みない口調で語り続けているが、私には何かの新興宗教のようにしか思えない。ただ、それでも、茶髪の少女が食い入るように特攻隊員の遺書を読んでいる姿をみると、いささか複雑な気持ちにさせられる。

 先ほどの石碑のことが気になるので、特攻平和会館を出て、町の図書館に向かった。そこで、『南日本新聞』を調べてみると、1028日付けの同紙に関連記事を見つけた。「歌碑を建立したのは、千葉県在住の舞踊家江藤勇さん(83)。『朝鮮半島の遺族は肩身の狭い思いをしていると知り、日本人こそ真心込めて慰霊すべき』と知覧町の郷土史家村永馨さん(79)に協力要請し実現した。……知覧特攻平和会館によると、沖縄戦で戦死した陸軍特攻隊員は千三十六人。このうち朝鮮半島出身者は十一人いる」とある。
 さらに、町の広報紙『ちらん』を繰ってみると、毎年行われている知覧特攻基地戦没者慰霊祭には、韓国からも戦死した特攻隊員たちの遺族が招待されていることがわかった。この慰霊祭の評価はむずかしい。よく調べてみなければわからないが、日本の加害責任を棚上げにした上での一方的な善意の押しつけになっている可能性もある。しかし朝鮮人の特攻隊員たちの信条に思いをはせる人々がいたということだけでも私にとってはある種の救いだった。

 それにしても、特攻隊員たちの死にざまはあまりに痛ましい。搭乗機の大部分は固定脚の旧式機で、中には35機の99年式高等練習機が含まれている。最大速度349qの練習機で重い爆弾を積んで飛んだら、とても300qも出ないだろう。沖縄海域で待ち受けているはずの米海軍の主力戦闘機F6の最大速度は600q近いから、これでは戦闘にならない。こんなオンボロ飛行機に、飛行時間の短いヒヨコのようなパイロットをのせて出撃させた指揮官や作戦参謀たちの愚劣さは本当に許し難いと思う。
 もし、この国の政治家に良心といわないまでも、保守主義者としての英知のようなものがもう少しあり、歴史修正主義者たちのような狂信主義者の数がもう少し少なかったなら、南京事件の研究など早々にやめて、特攻隊のことをじっくり調べてみたいというのが私の本音である。そんな日はいつになったら来るのだろうか?かくして私のうつ病はますます重くなる。

 最後に一言。「特攻まんじゅう」は、さすがに特攻平和会館には売っていなかった。ただ、町の小さなお菓子屋さんで確かに「特攻まんじゅう」なるものを売っているのを確認した。幕末・維新期なら「打ちこわし」の対象だと思いつつ、買って食べてみた。なんの変哲もないただのありふれたまんじゅうだが、なぜか哀しく、わびしい味がした。
   

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