これまでの経緯
私たちの活動は、メンバーのひとりである佐藤健太(ツイッター上の“パンダP@024442”)の発言に端を発しています。
「飯舘村に住んでおります。放射能数値が高いにもかかわらず屋内待避の範囲にすら入らず、外で仕事を続けざるを得ない状況です。生殺しです」「救いたい命、救いたい未来がある!その未来は、原発の未来じゃない!人の未来だ!」「こうしてる間にも、放射性物質は少しずつ体内に蓄積している」。
【2011年3月26~27日のツイートから】
彼を中心とした若手有志は、福島第一原発の爆発事故以来、飯舘村で放射線量の数値が出始めた頃から「危機感を持ち子どもたちをできるだけ早く安全なところに避難させなければならない」と行動を起こしました。
実はその頃、役場は様々な対応に追われ、ほぼ助けを求められる状態ではありませんでした。彼らは「これは一般の村民が何とかして助けを求めなければならない」という思いから一刻も早く、しかもできるだけ多くの人にこのメッセージを送りたいと考えたのです。
村内には同じような思いを持つ人が少なくありませんでしたが、同時に大きな不安や抑えきれない怒りや憤り…等々、村民一人ひとりが様々な思いを抱えていました。
こうした中、これまで村づくりに尽力してきたメンバーを中心に「村民一人ひとりの思いをひとつの大きな力にするよう行動を起こそう」という気運が高まり、これまで活動を続けてきた若手メンバーたちにも声がかかりました。短い期間の中で老若お互いが相当な議論を交わし、それが2011年4月26日の村民決起集会という形で実を結びました。
具体的な活動経緯 -2011年サイト開設まで
- 3月中旬~現在
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佐藤健太(パンダP@024442)がツイッターで飯舘村の窮状を訴える
6000人を超えるフォロアーが飯舘村に注目してくださる
国内外の賛同者から子どもの避難受入や各種支援協力の申し出が相次ぐ
こうした情報を村民への口コミとツイッターを中心に情報発信 - 4月10日
- (国より飯舘村に対し計画的避難地域の打診)
- 4月21日
- 村長と懇談。役場との間で補完・協力体制を確認
- 4月21~22日
- 若手有志が振津かつみ先生を招き村内2地区で被ばくに関する相談会を開催
- 4月22日
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(国より飯舘村を計画的避難地域に指定)
村民決起集会のための事前打ち合わせ - 4月26日
- 村民決起集会の開催
- 4月下順~5月上旬
- 随時、今後の活動について若手や年配の有志がそれぞれ会合を持つ
- 5月11日
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今後の活動についての全体打合せ
子どもと村民の健康、補償・賠償、帰村に向けた取組等の方針と分担を確認
全村避難前の5月25日に村民の集いを開催することを決定 - 5月12日
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25日の村民の集い開催準備や今後の補償問題等への対応について村長と懇談
計画的避難が進められる中、改めて役場との協力関係を確認 - 5月15日
- (乳幼児を持つ家庭などを対象とした計画的避難が始まる)
- 5月16日
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ドイツから視察団の受け入れ
(この間、数回にわたり村外の協力者等に対して村内を案内)
5月25日開催予定の村民の集いならびに今後の活動計画についての全体打合せ - 5月17日
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5月17日付で、内閣総理大臣、福島県知事、福島県立医科大学、それぞれの代表宛てに、
「ホールボディカウンターによる体内放射能測定に関する要望書」を提出。
1週間以に回答を求めるも、いずれの提出先からも回答無し
要望書PDF
(6月15日時点で無回答) - 5月19日
- プロジェクトサイト開設
サイト開設にあたり、Twitter支援チームを始め、多くの皆様にご支援頂きましたことに感謝申し上げます。
5月19日以降の主な動き
- 5月31日
- メンバー2名が放医研にて内部被ばく検査を受診。検査データの開示を拒否される
- 6月~
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その後、放医研の方針転換に伴い、「こちらから請求さえすれば検査結果の説明は可能」との回答
村民の将来的な健康被害対策を念頭に早期の内部被ばく検査を目指したものの、放射性物質が大量に降り注いだ「3.15」から3ヶ月後の「6.15」を迎え、放射能に起因する健康被害を証明することの困難さを実感(「6.15によせて」) - 6月~
- 健康手帳の発行に向けた取組を役場協力のもと着手
- 6月~
- 避難後の社会的弱者対策の取組をNGOと社協の協力のもと計画
6月15日によせて
飯舘村に放射性物質が降り積もったのは3月15日でした。今日で三ヶ月が経過します。私たちはどの程度被曝したのか。深刻な影響はないのか。そもそも低線量被曝の範疇なのか。せめて子どもたちのデータだけでもきちんと記録して今後の医療ケアに役立てて欲しい。そんな思いからホールボディカウンターでの検査を求めていましたが回答はありませんでした。新聞等に福島県による健康調査の報道もありますが、三ヶ月を経過した段階での調査で3月15日になにがあったのかを推測できるのかどうかはわかりません。
もちろん、三ヶ月以内なら推測可能で、それを1日でも過ぎると推測不可能なんてことはないでしょう。ホールボディカウンターによる検査も万能ではありません。検出できる放射性物質は限られていますし、ヨウ素については半減期の関係があり、セシウムについても生物学的半減期があり既に検出は難しいことは予想していました。また、仮に5月中に検査をしたとしても私たちのケースでは放射性物質がどのタイミングで体内に入ったのかを推測することは不可能に近いことも理解していました。汚染された場所で一ヶ月以上も普通に生活していたのですから。ただ、「検査をしていないから“わからない”。」「“わからないこと”は“なかったこと”」にされてしまうのではないかと危惧したのです。原子炉作業員が三ヶ月に一度の基準で検査をしているという「基準」をたよりに要望をしてきましたが取り合ってもらえませんでした。残念です。もっと早くホールボディカウンターの存在を知っていれば。もっと早く国や県へ要望していれば。もっと早くホールボディカウンターがあるにもかかわらず稼働していない事実をつかんでいれば・・。
私たち飯舘村の住民はお人よしなのかもしれません。東京電力による謝罪集会の時も、計画避難区域に設定されたときも動揺しつつも激しい抗議の声は上がりませんでした。みなさんにとっては山村のイメージが強いと思いますが、車で一時間も走れば津波の被害を受けた沿岸部です。家族や友人を失い、家や財産を失った人たちのことを考えずにはいられません。抗議の声が上がらないために「飯舘村がおとなしいのは東京電力から金をたっぷりもらっているからだ。」「計画避難区域になって金が入るのだから、うらやましいものだ。」と一部の心ない人から揶揄されているのも耳に入っています。それでも激しい怒りを表現することができない。怒りを継続させることができないのが飯舘村の村民性なのかもしれません。なにかもう少しできることがあったのではないかと思うと残念です。一つの事実、事実を探すためのチャンスが失われてしまいました。
誤解を恐れずに言えば、これが天罰かという思いもあります。勘違いはしないでください。地震も津波も天罰ではありません。天災です。3月末に沿岸部の状況を見に行きました。津波の被害の大きさに恐怖を感じましたが海も空も以前と同じ穏やかで美しい表情をしていました。多くのものを根こそぎ奪っていった黒い波の姿は一片もありませんでした。平凡な表現ですが自然の前では人間なんてちっぽけなものです。でも生きていれば立ち上がることもできます。新潟県も数年前に地震の被害を受けました。その経験があるからなのか沿岸部から新潟県に避難した友人達はとても親身で手厚い支援を受けたそうです。生きていこう、復興していこうという気持ちをもらったそうです。日本人のメンタリティーはこうやって培われたのではないか。このような大災害をくぐりぬけて日本人というのは形作られたのではないか。そう思っています。
では天罰とはなにか。それは原子力発電所の事故そのものではなく「言葉が通じない」この状況です。原子力にかかわる人々は皆、自説を語ります。とても科学的とは思えない発言をする科学者。心ない発言をする医師。低線量は体に良いとまで言う研究者さえいます。さらに事故以降、多くの安全基準が変更されました。緊急時のためのマニュアルだったはずなのに有効に使われていないものもたくさんあると聞きます。私たちの疑問に答えてくれる人はいません。私たちのSOSの叫びはどこかに消えてしまいました。私たち自身もお互いの言葉を理解できなくなっているかのようです。言葉はどこかに届いているのでしょうか。
まるで旧約聖書のバベルの塔です。神が人間の奢り高ぶりを見て、それまで一つだった言葉を乱し、互いに意思の疎通ができないようにさせた物語です。3月11日までの世界はこんな世界だったのでしょうか。気づかないだけでお互いの言葉は通じていなかったのでしょうか。仮にそうだとすれば神が「おかしいな、天罰を下していたはずなのに人間は気づいていないぞ。面倒だがもう一度、バベルの塔に天罰を下すか。」と考えたのは無理からぬ話でしょう。二つ目のバベルの塔として福島原発が選ばれ、恩恵を受けていない、皮肉にも持続可能な村づくりを目指していた飯舘村がひどく汚染されてしまったのです。この二つ目のバベル以後の世界をどのように生きていけばいいのか。私たちは途方に暮れています。
愛する飯舘村を還せプロジェクト
『負げねど飯舘!!』
常任理事 愛澤卓見



