(2)求道の旅

神の公平さは、悟りについても同じである。

そびえ立つ山の裾野に、無数の道が走っています。果たしてどの道を選んだら、最も早く頂上にたどり着けるのか?。みな溜息を漏らしながら、手探り状態で歩み始めます。あの道を行っては迷い、この道を行っては迷い、時には袋小路に迷い込み、時には堂々巡りをし、よろけ、ふらつき、転び、もう止めようと何度思ったことか?・・・。それでも何とか今日まで歩んできた私達・・・。そして、ついに本物の道に巡り会えた私達・・・。さあ、道は一本につながりました。もう迷いはありません。あとは頂上を目指し、力強く登るだけです。故郷はもう目の前です。

どのような魂も、いつか必ず目覚めるようになっております。そこに特別早いとか、遅いとか、いったことはありません。同時期に出発した魂は、みな同時期に目的地に着くようになっているのが神の公平さだからです。

楽あれば苦あり苦あれば楽ありで、楽して悟る者もいなければ苦しんで悟る者もいません。私達は浮き沈みを繰り返しながら、いつか父の家にたどり着くようになっているのです。

環境の用意。

環境の用意は、神の公平さを如実に表しています。たとえば、真剣に求める者の行く手には小石一つ落ちていないけれど、遊び心で求める者の行く手には岩や石が置かれているように・・・。これは誰が置くのでもない、生半可だから、叱咤激励の意味を込めて自分が置くのです。

環境の用意は、いく前世も前から始まっています。それは一瞬一瞬の時の中において、一日一日の生活の中において、一つ一つの人生の中において、だから今与えられた環境の中で、精いっぱい生きなければならないのです。

環境は嗜め、叱咤激励し、後押ししてくれます。自分の意志で進めない厳しい道も、環境は後押ししてくれます。厭だ!、助けてくれ!、と泣き叫んでも容赦はしません。環境は峻厳な愛そのものなのです。

だから、今の環境に感謝しましょう。

 

○両親に、

○兄弟姉妹に、

○隣人、友人、同僚、上司、先生など、周りの人達に、

○あらゆる生き物に、

  ○ 社会に、国に、地球に、感謝しましょう!。

憎まれ口をいう人も、罵声を浴びせる人も、いやがらせをする人も、みな自分を成長させてくれる環境です。さあ、感謝しましょう!。あなたの周囲にあるものは、みなあなたを成長させてくれる頼もしい環境なのですから・・・。

介護は求道者の登竜門。

学びの中でも、介護ほど魂を成長させる学びはありません。これは介護する方も、介護される方もです。特に障害児を持つ親は、一生かかわりあって生きてゆかねばならないわけですから、大変な成長が期待できるのです。とはいっても介護は、心身ともに疲れる大変な作業です。経済的にいっても、家庭を破壊しかねない難事です。

たしかに介護する人から見ると、被介護者は厄介者です。わがままはいうし、憎まれ口はいうし、甘えるし、真夜中起こされるし、だから声を荒げたり、邪険な態度で接したくなるのも無理はないのです。でもそんな気持になった時、このように考えて下さい。

「被介護者は、自分の為に厭な役を引き受けてくれている犠牲者なのだと・・・。」

そうなのです。被介護者は、いやな役を引き受けてくれている勇気ある魂なのです。誰も、下の世話をしてもらう厄介者などなりたくないのです。でも被介護者は、あなたの為にいやな役を買って出てくれたのです。だから介護しているのではなく、介護させてもらっているのです。なのにいやいや介護しては、被介護者に対して失礼です。

これは私の体験からいえることですが、介護をいやいやしている時は、被介護者は憎まれ口をいったり、我がままをいったりして介護人を困らせるのです。私もはじめいやいやしていましたので、母は私に良く憎まれ口をいったものです。でも、私の為にいやな役を引き受けてくれていると知り、感謝の気持ちで接するようになってからは、母の態度が変わったのです。

魂同士は、介護の意味を良く知っているのです。もし長期間介護で悩まされている人は、まだ学び足りない何かがあるから介護を卒業させてもらえないのだと思って下さい。そして、何が学び足りないのかじっくり考えてみて下さい。特に障害児を持つ親は、夫婦にどんな過ちがあってこのような子が生まれたのか、良く良く反省しなければなりません。もし過ちに気付き生き方を正したら、子の願いを適えたことになりますので、子供に変化が起きるでしょう。

一方被介護者の立場から見ると、介護人は大切な手助け人です。介護人がいなくては何もできません。なのに憎まれ口をいって介護人を悩ませては、自分が困るだけです。たしかに、病気になると我がままもいいたくなるし、愚痴の一つもいいたくなるのも分からないではありません。でも、そこに学びの材料があるのです。被介護者は身の不自由さを、次のように考えて下さい。

○私は不自由な身体を通して、今健康の尊さや自由の有り難さを学んでいるのだと・・・。

○忍耐力や我慢強さを学んでいるのだと・・・。

○介護人の大変さや、人の絆の大切さや、愛の素晴しさを学んでいるのだと・・・。

もしそのように考えることができたら、苦しみは半減するでしょう。さらに、このような身体になったのは、なる原因を自分が作たからで、決して偶然になったのではないと考え、なった原因がどこにあるのか反省すれば、さらに状況は好転するでしょう。

この宇宙に一方通行は無いのです。介護する方もされる方も、意味あってそのような立場になったのです。それが理解できれば、介護の仕方もされ方も違ってきます。嫌なことが嫌でなくなるし、嫌であっても嫌さが半減するのです。また、いつ逆の立場になるか分からないのですから、嫌とはいっていられないでしょう。

私達は転生において立場を変えながら、体験し、学び、成長してゆくのです。この事を知ってから私は、介護することが楽しくなりました。でも私の学びが終わったのか、母の学びが終わったのか、しばらくして母はこの世を去りました。

このように互いに学び終わり、もう学ぶ必要が無くなったら、自然と状況が変わるのです。だから介護する方もされる方も、一日も早く課題を克服するよう努力することです。介護の意味が理解できれば、介護する方もされる方も、感謝の気持をもって接することができるでしょう。

  介護人は被介護者に、

○私の為に嫌な役を引き受けてくれてありがとう!

○介護させてもらってありがとう!

と感謝しましょう。

  被介護者は介護人に、

○介護されることを通して学ばさせてもらってありがとう!

○介護してくれてありがとう!

と感謝しましょう。

介護は厳しいがゆえに、魂を大きく成長させるのです。だから介護は、「求道者の登竜門」といわれるのです。

本者の指導者と偽者の指導者の見分け方。

この世には本者の指導者より、偽者の指導者の方が圧倒的に多いのです。だから、偽者の指導者に食い物にされてしまう人達が後を絶たないわけです。

本者の指導者に巡り会える人が、どの位いると思いますか?。恐らく、0、00001%いるかいないかでしょう。神の公平性からいって、本者の指導者に巡り会えるチャンスはみな平等に与えられているはずですが、見分ける目を持たないがゆえに、自らチャンスの芽をつぶしているのです。

ではどうすれば、本者か偽者か見分けられるのでしょうか?。

 

○本者は、飾りません。

○本者は、現象(神秘)を見せびらかしません。

○本者は、団体(会社や会や宗教など)を作りません。

○本者は、自力を説きます。

○本者は、いかなる偶像崇拝もさせません。

○本者は、お金を求めません。

○本者は、学びの友を平等に扱います。

○本者は、エネルギーを込めて語ることができます。

○本者は、「来る者拒まず、去る者追わず」の姿勢を貫いています。

(本者は数にこだわらず質を重んじる。だから信者の数を重視する宗教は、みな偽物と思って良い。)

  ○本者は、権威を振りかざすようなことはしません。

  ○本者は、人を集める宣伝をしません。

良く、真理を金儲けの道具にしている人や団体がありますが、本当にそんな良い方法があるなら、私なら惜しみなくただで公開します。良いことは世に広め、多くの人に幸せになってもらうことが神の願いだからです。真理を金儲けの道具にするなど、もっての外です。

これは特許制度についてもいえることで、本当に世のため人のためになる発見や発明ならば、広く世に公開し全人類の幸せのために使うべきです。利益を一企業や個人に独占させるなど、天に対する反逆です。なぜなら、素晴らしい発見や発明は人の脳から生まれるものではなく、天啓として天から授かるものだからです。

世の中には、子羊の皮をかぶったオオカミが沢山おりますから、よくよく注意しなければなりません。その点、知花先生の教えに出会った皆さんは幸せ者です。これは千載一遇のチャンスです。ぜひ、そのチャンスを逃さないようにして下さい。私達は今、それほど有り難い道を歩んでいるのです。この幸せに感謝しましょう。

悟りは亀の如し。

どうしたことか?。昨日あれほど自覚が強かったのに、今日の自覚の何と乏しいことか?。自分の意識の中のどこを探しても、昨日のような強い自覚は見当たらないのです。自覚とは、このように移ろいやすいものなのだろうか・・・?。でも落胆してはなりません。一年前の自分と比べれば、間違いなく成長しているのですから・・・。良いではありませんか。一歩進んで半歩下がり一歩進んで半歩下がり進んでも・・・、真理はどこにも逃げて行かないのですから・・・。

さあ!、「千里の道も一歩から」の心意気を忘れず、亀のように着実に歩みましょう。怠けず怠らず歩めば、必ず目的地に到着できるのですから・・・。

求道は競い合うゲームではありません。ですから、いたずらに競い合ってはならないのです。

根気よく叩こう!。

あなたは生命なのに、今日まで人間だと思い違いしてきましたね。その誤った思い癖が分厚い壁となって、内なるあなたを長いこと閉じ込めてきたのです。誤った思い癖を打ち砕くのは、容易なことではありません。だから根気よく、叩いて、叩いて、叩き続けるしかないのです。さあ、今日も叩こう!。

 

○一つ叩けば一歩前進!

○二つ叩けば二歩前進!

○三つ叩けば三歩前進!

○百回叩けば百歩前進!

 

多く叩けば叩くほど、多く前進できるのです。

「吾生命なり!」の思いの繰り返し、それがあなたを高みに引き上げてくれるのです。

すべて悟りの糧である。

どんなや不幸も、どんな幸せも、どんな失敗も、どんな成功も、どんな苦しみも、どんな楽しみも、どんな悲しみも、どんな喜びも、みな悟りの糧となっております。日々の体験一つ一つが、自分の背丈を大きくしてくれているのです。今は分からないかも知れませんが、いつか必ず"そうだったのか!"、と合点のゆく日がやってくるでしょう。だから無駄な人生など無い!、といわれるのです。


 ○一歳で閉じる人生も、百歳で閉じる人生も、みな悟りに必要だったのです。

 ○病で散る人生も、戦場で散る人生も、みな悟りに必要だったのです。

 ○事故で死ぬ人生も、災害で死ぬ人生も、みな悟りに必要だったのです。

 ○痛い!、苦しい!、悲しい!、と泣き叫ぶ体験も、みな悟りに必要だったのです。


去る人に、逝く人に、"良く頑張りましたね!"と、労いの言葉をかけてあげましょう。

悟ることは当たり前のこと。

私達は「悟り」を余所ごとのように考えています。身近でそんな話が出ても、そんなことがあるのか?、そんなことができるのか?、とまるでお伽噺か何かのような感覚で聞いています。ましてや、自分が悟るなどとんでもない!、と考えています。しかし、悟りは余所ごとではありません。あなたの人生の最重要課題なのです。何を放っておいてもやらねばならない、人生の一大事業なのです。どうでしょう?、

 ・あなたはあなたを知っておりますか?・・・。

 ・本当の自分を知っておりますか?・・・。

知らないのではありませんか?。

ではなぜ知ろうとしないのでしょうか?。

自分を知ることはそんなに特別なことですか?。

当たり前のことではありませんか?。

その当たり前のことを、なぜしようとしないのでしょうか?。

今からでも遅くないのですから、始めようではありませんか。本当の自分を知るのに、早い遅いはないのですから・・・。

一人で静かに昇るしかない。

悟りの難しさを考えれば、人を誘うことも、人を引っ張って行くこともできません。自分一人で静かに昇って行くしかないのです。でも、それで良いのです。なぜなら、自分の理解した世界を人に与えることなどできないからです。

悟りの山登りは、一人ひとりの自由意志を待つしかありません。一人ひとりが納得し、その気になって自分の足で登るしかないのです。たとえ代理で登ってくれても、山頂からの絶景は登った人にしか分からないからです。「真理の受け売りはできない!」とは、そういうことなのです。

救いようのない人とは?。

●最も救いようのない人は、

自分のことを人間だと思い、人間だと信じ、人間として生きている物質人間のことで、唯物論者全員がこの部類に入ります。彼らは、地位や、名誉や、財産や、お金を信仰していますので、手の施しようがないのです。だから彼らは、一歩間違えば大罪を犯すのです。

●次に救いようのない人は、

自分のことを人間だと思い、人間だと信じ、人間として生きているのですが、何か不幸に出会うと、"罰が当たったのではないか?"と疑念を持つ人です。こういう人達は神を信じなくても、何か目に見えない力に恐れを抱いていますので、罪は犯しても大罪を犯すことはないでしょう。彼らは不幸と幸せの波間を行き来しながら、少しずつ成長してゆくでしょう。

●次に救いようのない人は、  

自分のことを人間だと思い、人間だと信じ、人間として生きているのですが、何か不幸に出会うと、"神罰が当たったのではないか?"と神に畏怖の念を抱く人です。こういう人達は、神棚や仏壇に手を合わせます。一般的にいわれている善人とはこの部類の人達で、ここまできた人はもう悪の深みにはまることはありません。彼らの目に神殿が見えてくるのも、そう遠くは無いでしょう。

●次に救いようのない人は、

自分ことを知的に神だと知り、神だと信じようとしているのですが、まだ神としての生き方のできない人です。つまり頭で知っていても、心の底から神だと思えない人です。ここまで信仰の深まった人は、人の手本となれます。このような人は周りの人に良い影響を与えても、悪い影響を与えることはありません。ただ、時々ネガティブな生き方をしますので、病や災難から逃れず苦しんでおります。でもここまできた人は、神殿の門前まできていますので、神の光に包まれる日も近いでしょう。

人には自由意志がありますので、力づくで神の世界に連れて行くわけにはゆきません。たとえ力づくで連れて行っても、心まで連れて行くわけにはゆかないからです。ですから、その気になるまで辛抱強く待つしかないのです。

私達は、同時に二つの信仰を持つことはできないのです。つまり闇も信仰し、同時に光も信仰することはできないのです。だから闇に目を向けている人は、どうすることもできないのです。救いようがないとは、そういった意味なのです。しかし彼らも、いつか必ず光に目を向ける時がやってきます。その時がチャンスです。それまで、温かく見守ってやりましょう。

昔と今と、どちらが悟りやすいか?。

本来、悟るのに良い時代、悪い時代などないのです。いつの時代も、どんな時代も、良い時代なのです。悟れるか悟れないかは、本人のやる気次第だからです。真剣に求めれば、いつでも、誰でも、悟れるようになっているのが、宇宙の法則であり、神の愛の深さだからです。悟りの条件を考えてみましょう。

 

○環境を整えることです。

○知ることです。

○理解することです。

○気付くことです。

集中力です。

○根気と、やる気と、努力です。


 この六点は、どんな時代にあっても欠かせない悟りの条件です。

昔は静かでした。人の行き来もあまりなく、目や耳から入ってくる情報も少なく、外から入ってくる雑音は、今と比べると問題ではありませんでした。ゆえに、物静かに考える時間が多く取れました。これだけ考えると、悟りに良い時代だったといえるかも知れませんが、反対に本者の指導者に出会えるチャンスが少なかったと思われます。

今は、テレビ・ラジオ・携帯電話・インタ−ネットなど情報の媒体が発達しているため、真剣に探せば本者の指導者に出会えるチャンスは多くあります。また交通機関が発達しているため、会いに行くのも容易にできます。さらに、CDやDVDなどの文明の利器が、後押ししてくれる利点もあります。その一方、情報の媒体が雑音を送り込み、心静かに考える時間を与えてくれない欠点もあります。

このように、今も昔も一長一短あるわけですが、何よりも大切なのは本人のやる気です。やる気さえあれば、どんな障害も問題ではありません。

悟りを時代のせいにしないで下さい。それを口にする人は、戦いから逃げている臆病者といわれても仕方がありません。悟りの環境作りは自分がするのです。それは一生一生の人生において、日々の人生において、一瞬一瞬の人生において・・・。だから、今の生き様が大切になってくるのです。

一歩一歩が大切である。

人生の唯一の目的は、

 ○自分を知ることです。

 ○悟ることです。

悟りは難しいといわれますが、短期間で悟ろうと焦るから難しく感じるのです。私達は永遠の生命ですから、永遠の時をかけるつもりでやったら良いのです。何百万年かかろうが、何千万年かかろうが、あなたを叱る人は誰もいないのですから・・・。 といっても、歩かなかったら着くことはありません。悟りに必要なのは、歩き続けることです。一歩一歩、歩を進めることが大切なのです。歩を進めるとは、

 ○神を意識することです。

 ○生命を意識することです。

 ○本当の自分を意識することです。

怠らず歩んでいれば、必ずゴールテープを切ることができます。

一歩一歩の積み重ねが、あなたを悟りに近付けることを私は保証します。

人にも生き、神にも生きることはできない。

真の幸せを得たいなら、人か、神(生命)か、どちらかを選ばねばなりません。肉の快楽も貪り、心の喜びも得たいなど、虫が良すぎるというものです。「二兎追う者は一兎も得ず」の諺のように、人にも生き、神にも生きることなどできないのです。

真の信仰に生きられないのは、人間を捨て切れないからです。涙して訴えてくる人の多くは、人間を捨て切れず苦しんでいる人達です。

「すべてを捨てて着いてきなさい!」と釈迦がいわれたように、真の幸せを得たいなら、一時の快楽を追い求めないことです。人に生きるのでは無く、神に生きることです。それには、

   

  ○強い決意が必要です。

○勇気が要ります。

○自分を律する強い意志が要ります。

○続ける根気と努力が要ります。

 

偉大なことを成し遂げるには、何かを捨てねばなりません。両手に物を持っていては、梯子は上れないからです。

一時の快楽を選ぶか、永遠の幸せを選ぶかは、あなたの決意次第だということです。

人生の差。

真の求道者は幸せです。なぜなら、人生の駒を目に見える形で進めているからです。それは求道という形で・・・、瞑想という形で・・・、しかし多くの人は、目に見えない駒の進め方をしています。ただ肉体を維持するために・・・、家族を養うために・・・、この世的な幸せを手に入れるために・・・。たしかに、それも伏線的な駒の進め方ではありますが、真の目的で無いために、目に見える駒の進め方になっていないのです。

目に見える駒の進めている人と、目に見えない駒を進めている人の人生の差は、実に大きいのです。できるなら、目に見える駒の進め方をしたいものです。真剣に求めている人は、優先順位を間違えませんから、常に目に見える形で駒を進めています。生半可に求めている人は、この世のことを優先してしまうので、どうしても目に見えない駒の進め方をしてしまいます。

どうか、優先順位を間違えないようにして下さい。

なぜ悟りに苦しみが伴うのか?。

なぜ悟りに苦しみが伴うのでしょうか?。いいえ、本当は喜びのうちに悟れるようになっているのです。ただ私達は怠けて歩こうとしないから、いっぺんに走らなければならなくなり苦しむのです。

家の大掃除も、一年間まとめてやるから大変なのです。夏休みの宿題も、いっぺんにまとめてやるから大変なのです。日々少しずつやっていたら、そんなに苦労する事はないのです。悟りだって同じです。一瞬一瞬を、一日一日を、一生一生を、大切に歩んでいれば、そう苦労せずゴールテープを切ることができるのです。いや返って励みになるでしょう。なぜなら、目に見える形でゴールテープに近づいて行けるからです。

宇宙の仕組みは、決して苦しむようには作られていません。怠けるから苦しむのです。

 求道にとってどちらが得か?。

知花先生の教えを請け最初に思った事は、"これだけ強烈なエネルギーを頂いているのだから、学びの友の中に相当進んでいる人がいるはずだ。ぜひ、その人からも教えを請けたいものだ!、"と思った事でした。例えその人が子供であろうと、女性であろうと、老人であろうと、学び浅い人であろうと、少しでも自分を成長させてくれるなら、謙虚に耳を傾ける方が得だと思ったからです。だから当時、そのような人がいないか真剣に探したものです。でも世の多くの求道者は、自尊心を守ろうとするあまり、人の話に耳を貸そうとしません。これでは、真偽を見分ける目が育たないばかりか、せっかくの学びのチャンスを逸してしまいます。外見では、どれだけ進んでいる人か見分けることはできませんが、波動でなら感じられるものです。その波動を感じる敏感さを養うのも学びの一つですし、見分ける目を養うのも学びの一つです。

今指導者の立場にあろうと、学びの先輩であろうと、自分を成長させてくれる人を見つけたら、謙虚に教えを請うのが真の求道者だと思います。そのチャンスを自尊心で潰しては、悔やんでも悔やみきれません。自尊心を守ることが大切か?、悟りに近づくことが大切か?、真剣に真理を求めている人なら間違わないはずです。

〜 つづく 〜

人類の夜明
真実はひとつ
補足資料
人類の夜明-理想世界への誘い
病で苦しんでいる人の為の小冊子
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