(1)人生の目的・人生の意義。

人生は真実を知るためにある。

人生は何のためにあるかと問われたら、私は躊躇なく、「真実を知るためにある!」と答えます。なぜなら、人生ほど謎めいたものはないからです。"人生は不可解なり!"と遺書を残し、滝つぼに身を投げた学生がいたと聞きますが、その気持ちが分からないでもありません。

あなたは、人生をどう捕らえておりますか?。今日まで、何を求めて生きてきましたか?。現代人に、人は何のために生きているのかと問うと、「家族を養うため!、良い家庭を築くため!、」と答える人が大半です。殆どの人は「分からない?、死ぬわけにゆかないから生きている」と首を傾げながらいいます。中には「食べるために生きている、楽しむために生きている、」という人さえいるのですから、いかに人生が不可解なものか思い知らされます。

何も分からず、何も考えず、ただ肉の欲するままに生きる、そんな人生で良いのでしょうか?。生まれたからには、ぜひ人生の謎解きをして帰りましょう。

人生において一番大切なこと。

世の人々は、地位や、名誉や、財産を多く残した人を成功者と呼びます。でも彼らは、本当に成功者なのでしょうか?。もしそうなら、この世の地位や名誉や財産を、そっくりそのままあの世に持ち帰っているはずです。しかし、そのような人は一人もおりません。それは、地位や名誉や財産はこの世限りのもで、永遠では無いからです。私たちが求めるべきものは、永遠に無くならない真実です。


人生において大切なのは、

 ○幸せだったか?、不幸せだったか?、ではないのです。

 ○長命だったか?、短命だったか?、ではないのです。

 ○何を成し遂げたか?、成し遂げなかったか?、ではないのです。

 ○世に名声をとどろかせたか?、とどろかせなかったか?、ではないのです。

 

人生で一番大切なことは、どれほど真実と向き合うことができたか?、どれほど魂を揺さぶる人生を送れたか?、すなわち、どれほど本当の自分(真実)を知り得たかなのです。しかし多くの人は、物やお金や地位や名誉を得るために命を削っています。

私はこの世の物を否定しているわけではありません。地位や名誉や財産よりも、もっともっと大切なものがありますよ!、それは真実を知ることなのですよ!、といっているのです。

私達が求めるべきものは真実です。すなわち、「本当の自分を知ること」です。これ以外人生の目的はありません。

成功者とは、真実に少しでも近付けた人のことをいうのです。 

真実を知るために生まれてきた私達。 

では、本当の自分は何なのでしょうか?。ズバリ言いましょう。本当の自分は、「生命」です。この真実を知るために、私達は生まれてきたのです。

これまで多くの覚者が下生し、衆生に真実を知らしめんと奮闘してきましたが、未だに多くの人が自分のことを人間と思い、人間として生きています。したがって生・老・病・死から逃れられず、苦しみに喘いでいます。生命に目覚めたら、一切の苦しみから解放されるというのに、それが人間には分らないのです。といっても、この迷妄から目覚めるのは容易なことではありません。だから神様は刺激の強いドラマを用意し、目覚めるのを待っているのです。

悲しいドラマも、苦しいドラマも、生命の自分を発見するために必要なドラマです。もし、楽しいドラマや退屈なドラマばかりなら、何の疑問を持たず一生を終えてしまうでしょう。これでは、何のために生まれてきたのか分りません。

この世の厳しいドラマは、「早く目覚めて下さい!、早く目覚めて下さい!」と催促する目覚まし時計のようなものです。さあ、うるさい音に悩まされたくなかったら、一日も早く「生命の自分」に目覚めましょう。

人生の思索に死の題材は欠かせない。

人は、肉親の死を前にして嘆き悲しみます。特に若者の死は、残された家族に強烈なシヨックを与えます。それを人は、不幸と呼びます。でも、死は本当に不幸なのでしょうか?。

幸せな時にはあまり考えませんが、肉親の死を目の当たりにすると、人は死に対する疑問を持つようになるものです。


   ・死とは何か?、

  ・人は死んだらどうなるのか?、

  ・人生とは何なのか?、等々・・・。

 

なぜ神は、人に生きる悩み、老いの哀れさ、病む苦しみ、死の恐怖を与えたのでしょうか?。それは、人生に疑問を持ってもらうためではないでしょうか?。その意味において死は、貴重な思索の題材を提供してくれていることになります。死を有益なものにするか、無益なものにするかは、残された家族がどのように死と対峙するかにかかっているのです。

一人の死が、周りの人の人生を変えた例はいくらでもあります。それほど人の死は、周辺に大きなインパクトを残していくのです。だから人の死を、単なる不幸と考えてはならないのです。

人生において追い求めるべき宝物は何か?。

今人間は、どんな宝物を追い求めているのでしょうか?。失わない宝物でしょうか、それとも失う宝物でしょうか?。残念ながら殆どの人は、お金や財産や地位や名誉など、この世限りの宝物を追い求めています。それも何の疑問も持たないで・・・。

「私の持っている富に比べれば、あなた達の持っている富は、針の先にも当たらない小さな富なのですよ!」と聖者達がいうのは、人間が追い求めている富は消えて無くなる幻の富だからです。

永遠の私達が、消えて無くなる富を追い求めるなど愚かです。求めるなら、永遠に無くならない富を追い求めましょう。では永遠に無くならない富は、何処にあるのでしょうか?。

・遠い秘境にあるのでしょうか?。

・深い海の底にあるのでしょうか?。

いいえ、手よりも足よりも近い、自分の心の中にあるのです。それは生命として、本当の自分として・・・。

神様は人間に、難しいことを要求しているのではありません。素直に手を伸ばせば、すぐに掴める宝物(生命)を受け取りなさい!、といっているのです。

どうか難しく考えないで下さい。子供のように素直になって、食べたいお菓子にかぶりついて下さい。生命にかぶりついて下さい。

人生に続きがあるか?。

人生に続きが有るか無いか考えるのは、とても大切なことです。なぜなら、それによって生き方がまったく違ってくるからです。

あなたは一回限りのキップと、プレミアム付きのキップのどちらを大切にしますか?。続編のある物語と、続編の無い物語のどちらが心に残りますか?。人生も同じです。これっきりの人生は、どうしても刹那的な生き方になりがちです。「今楽しかったら良い!、今幸せだったら良い!、後は野となれ山となれ!」そんな生き方になるのです。

今人類が刹那的な生き方をしているのは、人間を一時の存在だと考えているからです。もし人間が永遠の存在で、今の生き様が未来の人生に重大な影響を及ぼすと知ったら、決して刹那的な生き方はしないでしょう。

今の子供達の目に輝きが見えますか?。何一つ夢も希望も与えず、ただガムシャラに現実を直視させ勉強せよと叱咤する教育が、本当に子供達のためになっているのでしょうか?。子供達は真実を知りたがっているのです。もし彼らに人生の真の意味を教えたら、おそらく目をギラギラと輝かせ希望を持って生きることでしょう。どうでしょう、やってみる価値があるのではないでしょうか?。

たとえ私が唯物論者だとしても、人生に続きがあるか無いか問われたら、私は五分五分だと答えます。現代科学に、これを否定する根拠は何も無いからです。無いということは、確率五割だということです。私は体験から百パーセントあると断言できますが、たとえ五十歩下がって五十パーセントだとしても、大いに現実味のある話だと思います。あなたは、五分五分の勝負はしないのですか?。ますます混乱する地球の現状を、五分五分の勝負だからといってしないつもりですか?。未だかって人類は、このような勝負はしたことが無いのです。やってみてダメなら、元に戻れば良いではありませんか?。ただ非科学的だからといって、笑って済ますつもりですか?。人生に続きがあるか無いか論ずるのに、なぜそのように逃げ腰になるのですか?。

同じ血を分けた兄弟姉妹なのに、なぜ気質や性格が違うのでしょうか?。同じ環境に生まれ、同じ環境で育った一卵性双生児でさえも、気質や性格が違うのですよ。それは過去において、違う人生を歩んでいたからではありませんか?。一回限りの人生なら、この謎は解けないはずです。

生まれながら幸運な人もいれば不運な人もいる?、頑健な体を持て生まれてくる人もいれば脆弱な体を持って生まれてくる人もいる?、これも人生に続きがあると考えなければ解けない謎です。

「人生に続きがあるといえば命を粗末にする者が出てくるから、軽々しく口にしてはならない!」、という人がおりますがとんでもない!、一回限りの人生だと思っているから、命を粗末にするのですよ!。もし、今の人生が未来の人生に重大な影響を及ぼすと知ったら、軽んじるどころか今以上に大切にするはずです。恐らく、自殺する人など一人もいなくなるでしょう。

本当の自分を知るために生まれてきた私達。

人間は意識するしないにかかわらず、常に真実を求めています。これは、人間が宇宙生命なるがゆえの本能的欲求ですが、顕在意識はその自覚が無いため、この世的な何かを求めては自分を慰めているのです。それが地位であったり、名誉であったり、お金であったりするわけですが、どんなに偽物を手に入れても心は満足しません。だから多彩な趣味を持ったり、夜の街を徘徊したり、酒で自分をごますような行動に出るのです。でも何をしても生きている実感が得られない、そこで過激な行動に走る人も出てくるわけです。

「私の人生は充実しています!、私は幸せです!」、といい切る人がおりますが、それはただの錯覚か負け惜しみです。彼らの笑顔の下には、満たされぬ心の苦みが隠されているのです。だから人生の終焉を迎えた時、人一倍強い悔悟の念を持ってこの世を去るのです。

人生の目的は、真実を知るためです。すなわち、

「本当の自分を知るためです。」

真に生きている証が立てられるのは、本当の自分を発見した時のみです。それ以外は、錯覚か、ごまかしか、騙しです。

充実した人生を送ろう!。

平凡な人生を歩んでいる者の成長は少ないものです。なぜなら、苦しみも悲しみも無いところに、疑問も気付きも起きようが無いからです。人は疑問を持ってこそ、真実の扉を開こうと努力するのです。だからイエス様はいわれたのです。

「苦しむ者は幸いなり、その者は神の国を見るであろうと・・・。」

あなたは今日までの人生において、平凡だった時と苦しかった時のどちらが心に残っておりますか?。多分、苦しかった時だと思います。その時あなたは、「なぜ、こんなに苦しいのだろう?。」と疑問を持ちませんでしたか?。

苦しみが人を成長させるのは、アスリートが肉体を鍛える心に通じています。その心の出どころは、強くなりたい!、成長したい!、と願う向上心です。向上心の旺盛な人は、現状に満足できないのです。疑問を持ち、まだまだできると、常に先を見つめています。だから、人生を価値あるものにできるのです。

無為な人生を送るほど、空しい一生はありません。ぜひ、充実した人生を送りたいものです。そのためには、大いに疑問を持つことです。持ったらその矛先を、人生最大の目的である「自分を知ること」に向けて下さい。

アルツハイマー病(痴呆症)になる人は、人生の疑問を解こうとしなかった人達です。人生の疑問を解こうと努める人に、アルツハイマー病はありません。

老いの哀れさの意味。

なぜ神は、人に老いの哀れさを与えたのでしょうか?。それは、人生の意味を知ってもらいたいためでは無いでしょうか?。

 ・なぜ人は老いるのか?。

 ・なぜ人は病気になるのか?。

 ・なぜ人はヨボヨボになってまで生きなければならないのか?。

 ・一体人生って何なのか?、等々・・・。

そうです。五官が衰えるのも、五体が衰えるのも、外側との縁を断ってほしい神の計らいなのです。いつまでも若者のように元気であれば、外側との縁は断ち切りずらいでしょう。でも弱ってくれば断ち切りやすくなります。神は、「もう外側に意識を向ける時期は終わったのですよ!。さあ、内側に意識を向けなさい!」というわけで、老いの哀れさを与えたのです。でも多くの老人は、外側との縁を断ち切ろうとしません。それどころか、グルメに興じ、旅行に興じ、多彩な趣味に興じ、外側に夢中になっています。これでは、一番大切な老いの時期を逸してしまいます。

どんなに楽しいことも一時です。この世の楽しみほど虚しいことは無いのです。そんな虚しいことに、大切な老いの時を使うことほど大損はありません。人生を価値あるものにするかどうかは、ひとえに老いの時をどう使うかにかかっているのです。その意味では、体の不自由な人も同じです。体が不自由だからといって嘆くのでは無く、成長できるチャンスだと捕え、できるだけ内側に意識を向けるようにすることです。そうすれば、必ず充実した人生を送ることができるでしょう。

人生で一番大切な時期は、"老いの時期である苦難の道を歩んでいる時である"、ということを知って下さい。

 人の死は醜ければ醜いほど良い。

死を美化する人がおりますが、人の死は醜ければ醜いほど良いのです。なぜなら、人生に対する疑問を深く持たせられるからです。だから私は、著名人にいいたいのです。「あなたはかっこ良く死んではなりませんよ!、できるだけかっこ悪く死んで下さいよ!、それが著名人の使命ですよ!」と・・・。事実著名人が死ぬと、「あの人があんな死に方をするなんて・・人生って儚いものですね!」と、多くの人の口から人生の虚しさや儚さが語られます。それほど著名人の死は、インパクトが強いのです。こんな小話があります。

ある所に、庶民に神様のように慕われている義賊がおりました。特に若者の間では、彼はまさにヒーローでした。それを憂いる一人の役人がおり、彼は必死になって義賊を追いかけていました。その甲斐あって、ついに義賊が捕まってしまいます。そして磔の刑がいい渡されます。

処刑の前の晩、捕まえた役人がこっそりと義賊に会いに行き、こういいました。

「お前のことだから、義賊の誇りを持って明日堂々と死んでいくのだろうが、どうか考えてほしい。お前にあこがれ、義賊になりたがっている若者が沢山いる。それでお前は満足か?。もし世のため人のためになりたいなら、明日若者の夢を打ち砕くような死に方をして欲しい!」義賊は黙って聴いていました。

処刑の日がやってきました。刑場に引き出された義賊は威風堂々として、一点の臆病風も見せません。しかし、今まさに槍で突き刺されようとしたその時、今まで堂々としていた義賊が突然、「助けてくれ!、おれは死にたくない!、もう盗みはしないから許してくれ!」と喚き出したのです。それはそれは醜い最期でした。さあ、それを見ていた一般の見物人からはどよめきが起こり、若者の間からは落胆と溜息の声が漏れました。その中にあって、一人心の中で「ありがとう!」と手を会わせていたのはあの役人でした。小者の義賊なら見栄を張ってまで堂々と死んで行ったのでしょうが、その義賊は違っていたのです。

後日談になりますが、役人が調べたところ、その義賊は昼間はまじめに働き、盗んだ金には一文も手を付けないという、義賊として徹底ぶりだったそうです。この話は、今の宗教家には耳の痛い話だと思います。信者からお金を取って飯のタネにするのは、人助けと相反するものだからです。 

そのことはさておいて、肉体人間の儚さ、哀れさ、虚しさを考えさせることほど、世のため人のためになることはありません。人の死は醜ければ醜いほど良いというのは、人生に深い疑問を持ってもらえるからです。私は皮肉っていっているのではありません。死は本当は美しい方が良いに決まっています。でも、真理を知らぬ者の多い今の地球においては、醜い方が人の成長のためには良いのです。その意味では、世に真理が浸透するにつれ、死は美しいものとなって行くでしょう。

人類の夜明
真実はひとつ
補足資料
人類の夜明-理想世界への誘い
病で苦しんでいる人の為の小冊子
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