疑問の道標 長嶋神社横の堤防
  マップ 

2010.4 長嶋住吉神社の宮司さんに聞きに行きました、初回は留守、2度目にインターホンで対応してもらいました。「この地区の郷土史家を御存じないですか!、堤防の道標について知っている方を知りませんか?」  宮司さん「知らないとのこと」でした。
再度、出かけなければなりません。

2009.2 この道標、豊中の「とよなか 歴史・文化財ガイドブック」には                  
「高川からの移動」と記されています。  市教委に問い合わせると
「豊南小学校の 50周年記念誌に 鹿島先生が上記のように表記されているので」
という理由  その冊子を調べると 表記だけで 理由、出典等の説明はありませんでした。


2015/11/25 修正   高川から移築された物

永年 熊野田に抜ける道があったとその証拠を見つけることが出来ずにおります。
小曽根の江戸時代の地図などを見ても、高川の堤防の街道は書かれているが
小曽根などの道が天竺川に向かう道はあるが、堤防を赤色で描いた居ない。
街道として、道として使用していないことになる。
熊野田の子供が、服部天神の祭りに行くのに、藪を通って祭りに行っていた。
との 話も聞き 天竺川の堤防は松並木があり、街道の風情を残しているので
天竺川堤防は街道であったと思っています。ただし、気持ちは持ち続けますが、現在のところ資料は否が出て要るだけです。



私の説は 今まで下記に述べています。                                
「天竺川は熊野田・勝尾寺街道であった。」 
この事を裏付ける 道標がこれでないか? と思っています。

疑問 1. この道標は 鹿島先生が携わった、昭和50年に「道標編」には記載がありません。
ですが 「道標編」の地図には 天竺川沿いに街道がしるされていました。
疑問 2. 50年誌の出版は1983年です。 その間 8年間で新しいことが見つかったのか?.
疑問 3. 移動距離が他の例には無い 距離です。 道標の意味を成さない道標となります。
疑問 4. 高川にあったとすると、 疑問は道標の役割として建てる必要が無い。       
       建設者の功徳、信仰心などの表現 「道標」の意味が無いのでは と考えます。




5/5 このことで メールを頂きました。
「移築された物」 と賛同を得ました。

疑問の 33里に関しては 「里」でなく「回」と下記のような説明をなされました。 以下説明 
 「三十三」に関しては、上部に「大峯山上」とありその下に役行者と思われる像が彫ってあることから「大峯山上三十三度(回?)供養(峯入?)」の「三十三」ではないかと思います。(長嶋村の大峯講の先達が大峯山に33回入山達成を記念して嘉永六年(1853年)に建てたものでしょうか。他の場所でもたまにこのような供養塔を見かけることがあります。)     茨木のkさん ありがとうございました。 また、お願いします。

長嶋村の表示は寄進大峯講の住所名と考える。 ある時それを間違って 長嶋村の物として取り扱ったのではないでしょうか


4/24
    お答えします。
この道標は対岸から移築されたもの
天竺川は良く氾濫していたらしいので、移動したことは考えられる。ですが
根拠になったのは、明治時代の地図です。

明治19年の地図です。 当時の陸軍が調べた地図です。
1.天竺川堤防を街道として利用していた。
2.この地区では東西の道は見られない。
3.三叉路の道標と考える。         
対岸には大きな道があり、
左 みのをせ川  
右 勝尾寺


天竺川を北上し、熊野田で原田神社からの勝尾寺街道に出会う。

下の地図で確認して下さい。


明治19年作成
東ルートは消滅したわけではありません。 街道が存在したと思われます。
天竺川を北上し熊野田で勝尾寺街道と出会うルートになる。
川沿いですので道標はありません。
交差する街道は 吹田街道があります。 
両側の松並木は街道の風情を未だ残しています。
天竺川堤防は街道として利用されていたのでしょう。

疑問は 距離です。  33里です。これは距離でなく33回というのが正しい。5/8
80メートル下流の対岸風景

左 服部天神  右 熊野田、勝尾寺 天竺川をさかのぼる。 

  見つけました !  能勢街道の東ルート!
                  
 2010/1/13
上の写真を昔の地図に合わせると
 摂津国豊嶋郡小曽根郷絵図
文化8年(1811)

 この道が書かれています。
天竺川堤防には道は書いてありません。
写真 A 能勢街道の分岐2 ??

  これは、道しるべです。
 ですが、三国街道と思われる左右の道は
昔「どぶ川」だった。
土手が「三国街道」  写真 A−1
左に「道田橋」、右に「小曽根の渡し」です。

 手前の方は土手になっていた。そこにT字に道があり、その道が「三国街道」だと、この道の東側を
通る現在の神刀根線も「どぶ川」だった。

 直進すると天竺川でそのまま北上すると

 長島住吉神社で 写真 Dに出会う。

 橋を渡り能勢街道に合流する。

 長島住吉神社までは 川沿いに2つのルートが

あり、写真Dで池田と勝尾寺にわかれる、

 こう考えると写真Dの表示とつじつまが合う。 


 道しるべが語っている!!!  
   
 点と点  を結ぶと 街道になる、

     面白いですね!!!!
 
追加  写真 A−1  直進 天竺川と出会う

土手の上から  「三国街道」は 写真を撮っている

 所で 左右になる、

 写真 A は左の角 

   
 「三国の渡し」から天竺川の東側の道を北上する



 写真 A−3
 東ルート 豊南町西5丁目

 天竺川を北上すると  写真 Dに出会う。
写真 A−2  変形 四叉路 

  奥の道は 写真 Aの道を左に来るとここに

 左は「道田小橋」  右は「小曽根の渡し」

 手前は 「三国の渡し」 

 こうなると 古い地図が必要です。





 写真 A−4  
  東ルート  「みなみしまはし」 たもと

 右 三国街道    ?
 左 能勢街道 東ルート ?
 
 写真@ 能勢街道の分岐1

  サイト 鎌倉街道(豊中)を歩く

で見つけました。

 
  これは、能勢街道と三国街道の分岐1
      
 何回か行っていますが、分かりませんでした。

 豊中の道しるべには取り上げていません。

 右手に道田小橋(どうでんこばし)で三国街道へ

 文字は分かりません。 
 
 置石としてつかわれていました。

2つ並んだ道標で 一つは倒れていたやつかな!

  それでも 「説明版」が必要です。  

 
写真 @−1
  写真 @の全景   

 下 写真 @−2
   写真 @−1 を右側から 

 右 天竺川  道田小橋


      写真B 

  もじは   だけ読める。 年代不詳

 これは 小曽根にあったものです。

  これも、豊中市の道しるべには取り上げていません。

  西福寺前の通りにありました。

  残っているものですね !!!
  
  

  写真 C

 ここに道標があってもいいはずですね!

 能勢街道

 「三国の渡し」から天竺川の堤防を歩いてきて、

 ここで、左に降りて服部天神さんに向けて歩く。
 写真 Dは
 ある資料によりますと、(向きは反対?) 

となっていました。   この疑問は

 東ルートが存在したら解決します。


証人1

「三国の渡し」から天竺川の東側の堤防を北上

すると  三国街道で写真A 道標に出会う。

そのまま 堤防東側を北上すると

証言2  写真Dの道標に出会う。

 かつをじは右に行き三国街道を使う

 みのをせ川は 能勢街道を使う、

 その後、 この道標で橋を渡り、 

能勢街道に合流し、服部に向かったのだろう。


 「三国の渡し」から東ルートがあった。

模様でこの2つの道標がそのことをものがっている


 この点と点   道標を結ぶと

   能勢街道 東ルートが存在する。
  

 写真 D

天竺川東側にある(住吉神社横) 

 道標には 

   右  かつをじ 三十三
   左  みのをせ川   

   写真 C−1
 写真 C を下ると 右手に 電柱の横にあります。

 道標らしきものです。 文字不明

 これを 写真 D なのか 何回も見に行きました。