レオナルド・ダ・ヴィンチを廻って

  『知性はもはや至上のものではなく、人間はもはや自然の中心ではなくなる。 したがって人間は彼の想像の世界から徐々に姿を消してゆく。またたとえ聖ア ンナや聖ヨハネの姿をとって現われても、彼らはもはや人間ではなく、力と神 秘の象徴であり、未知の世界からの使者である。レオナルドはその手記に、 「自然は経験の中にいまだかって存在したことのない無限の理法にみちている。 」と書いているから、彼にはそういう世界が存在するという資格はあるのだが、 しかしそれは経験の徒レオナルド・ダ・ヴインチが探求しなかった世界なので ある。』(レオナルド・ダ・ヴィンチp262ケネス・クラーク著)

 経験の弟子レオナルドは万能ではなかった。科学と絵画の能力をもっていた がブレイクの持っていた霊能力がなかった。其れ故に聖者に理想を見いだしたが自ら霊化をはかり聖者になろうとはしない人であった。殆どの人が其れであるが、霊的な体験を積み重ね進化してゆく体験を知らない凡夫であった。万能の天才と騒がれているがそのような才能はキリストにはなかった。ソクラテスにもなかった。レオナルドの発明の創造力は数百年進んでいたとしてもイエスの知恵はまだ解明されていない。どうしてイエスは色々な奇跡を行えたのかがわかればその方法があるのだから解れば誰でも出来るのである。発明家の知恵はすべて乗り越えられてゆくが、釈迦の知恵はそうはゆかない故に今も生きている。レオナルドが残した美の世界は芸術家として偉大であるがその美は歓喜の迫力に欠ける。自画像も明るさが全くない。明るい人であったようであるが、その明るさに突き抜けたものがないようだ。多才のレオナルドはエリヤの生まれ変わりの洗礼者ヨハネの絵を最後に残したがこのヨハネが一番歓喜に近い気がする。  発明家の才能も詩人作家・学者の才能も才能には色々あり、自分にない才能は 何故か偉大のような気にさせられるが、其れは錯覚である。相対の研究は相対で しかなく、絶対には決して至らない。絶対のみが絶対を知っている。相対は絶対 にいたることはない。ダヴィンチがしたあらゆる努力も絶対には至らなかった。 技術を教えることは出来る。しかし信仰心は教えられない。そして其の信仰 心・求道心こそ絶対に迫る精神なのだ。世の発明家や学者を遥かに超えた存在 が永遠なる聖者達である。レオナルドは凡夫であるのに神仙に祭り上げようと した馬鹿が多すぎる。レオナルド自身が一番それを知っていたからこそ、聖者 たちの絵を描いたのだ。

 才能信仰をやめよ。ガンディは書いている。

 「耶蘇は厳粛であり熱烈である。彼は永劫を説き環境を知る。彼は当時の最 大なる経済学者で、時間と空間とを経済にすることに成功した。即ち彼は之に 超越した。」(ガンヂー全集Tp29)
 「暴力の真最中に非暴力の法則を発見した賢者等は、ニュウトン以上の大才 である。彼等はウェリントン以上の大勇者でもある。」(p44)

 小林秀雄のレオナルドの感想は以下である。

 「ルネッサンスの代表者を一人あげろと言われたら、やっぱりミケランジェ ロかなあ。ダ・ヴィンチといいう人は、絵より絵を書くにいたる楽屋の方が広 大な人物なのではないかな。絵は、無論見事なのだが、あんまり感動しなかっ たな。冷たい感じのものだ。」(小林秀雄対話集p157美の行脚・河上徹太郎)

 日本のレオナルドの見方は偏っていて、レオナルドの真実を隠している評論家が 多くイタリアでの常識が知られていない。次の見方が普通なのである。

 「かれにも、限界や弱点はあった。野心に駆られて次々にパトロンを取り換え たし、虚栄心も強く、金銭と贅沢をも愛した。美少年好みを覆い隠そうともし なかったが、それに良心の痛みを感じていた。しかしそれでもレオナルドは、完 成度と多面性において、十六世紀の他の巨人たちを凌いでいる。かれと太刀う ちできるのはたた一人、ミケランジェロだけだ。
 ルネッサンスの偉大な巨匠の群れの中で、ミケランジェロは疑いもなく最大 の存在であり、また、美の追求だけに満足できなかった唯一の人でもあった。 常に絵画より彫刻を好んだが、かれの表現は、どんなすばらしい解剖図をも超 えており。かれの描く筋肉の下、肉体の中にはいつも、ミケランジェロその人 の疑問と苦悩と不安が横たわっている。その力強さ,豊饒さ、演劇性はバロッ クの先駆をなし、バロック美術の模範となったと、美術史家は言う。だがバロ ックには、ミケランジェロの最良の部分が脱け落ちている。すなわちそれは、 魂を抜いたミケランジェロ主義なのてある。」   (ルネッサンスの歴史・下 p380モンタネッリ/ジェルヴァーゾ著、中央公論)

 レオナルドは武器を考案しては売り込み、考案した兵器で人殺しをする時 に「アヴェマリアを唱えればよい」と言っていた。このような発想は西洋の科 学至上主義となり戦争に明け暮れるその後の悲惨を導きだしている。私はレオ ナルドの精神が科学者に影響を与え、科学者が細菌兵器だろうが原爆だろうが 作ってよろこんでいるのをみると、レオナルドの流した罪悪を思うのである。
 『臨終の床でレオナルドは、「果たすべき仕事も果たさず、神とこの世の人々を 侮辱した」と語って泣いたといわれる。華麗なまでの合理性を貫いた生涯の報 酬が、この程度のものであったとは──』(芸術のなかのヨーロッパ像p14本 田錦一郎著)

 レオナルドの「最後の晩餐」のモデルの話に、キリストのモデルを探すのに 苦労して見つけた青年キリストとして描かれた後、最後に残ったユダのモデル を探し見つけて、よく見ると以前描いたキリストのモデルを勤めた青年であっ た。道楽のなれの果ての乞食の姿とその邪悪さが選ばれたユダがキリストのモ デルであった。此話を神秘的なものとしているが、果たしてそうであろうか。 是はそんな話ではない。レオナルドが人を見る眼力が無かっただけの恥辱の話 である。キリスト信仰を侮辱する話である。レオナルドに魂を見抜く力が無か っただけの話である。霊性のない青年をモデルにしただけのことだ。キリスト の姿がなんの深みもない軽薄さが露出しているような青年に見えてしまうのは 私の錯覚であろうか。人間に進化があるとすれば始めがユダのモデルで後がキ リストだったらこの話は確かにレオナルドの神秘となったであろう。

また、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはこう云っている。

 「私は幾百枚もの「イエス・キリストの最後の晩さん」の絵を見て来ましたが、かれはテーブルの前にすわらされています。キリストはテーブルについたことはありませんでした。かれは他の者たちと共にすわり、彼らは鉢を持って、その中にパンを浸したのです。皆さんがいま食べてやおいでのパンではありません。どの民族にとっても、他の人々の習慣を知るのは難しいことです。」(わが師p111)  プレイクの「最後の晩餐」こそは正にヴィヴェーカーナンダが云う真実の姿を現し ているが殆ど知られていない。


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