第8回 ACKid 2013

2013年4月21日〜28日 会場:キッド・アイラック・アート・ホール

ACKidは異なるアーティストが協動して舞台を造り上げていく表現の試みです。
   
■期間中 5階ギャラリーで作品展も開催しています。
   出品作家:植松美早・室井公美子・関直美・ヒグマ春夫・李容旭・吉本義人・佐々木愛美・K.a.n.a
   ◎会場:キッド・アイラック・アートホール 5階ギャラリー
   ◎2013年4月21日~28日

 

第8回 ACKid 2013 アングルを変えて観てみると・・・

8日間をまとめてみました。撮影:早川誠司

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラボレーション

4月21日(日)植松美早(美術)+K.a.n.a(身体)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
扉を入って右側が舞台となる中央には、植松美早が作成した巻貝かバベルの塔のようなフォルムの作品が床から天井へ伸び、先端はライトを包んでいる。布は綿で、支柱はポリ塩化ビニルであろうか。床には作品の底辺になる円を収めるように、四角い同素材の布が敷かれている。天井から9つの電球がぶら下がっている。1つのみ、手の届く位置にある。

暗転が溶けると中央の電球が灯り、無音の中、k.a.n.aは背を床の布につけ、両手は胸に収めたまま、首、両足を掲げていく。時間をかけて上体を起こしたk.a.n.aは上を見詰め、交差した両手は肩を包む。電球が3つ追加して灯る。k.a.n.aは軽く握った両手を構え、立ち上がっていく。

指を揃えた右掌が作品に触れる。離れ、左肘から作品に触れ、指先を残す。作品に背を向け、差し伸べた右手と左手を入れ替える。上層に気流していくように右手を伸ばす。k.a.n.aはうつらまなこで空を見詰めている。k.a.n.aはゆっくりと両手を広げていくと、突然倒れる。k.a.n.aが足を掲げると、一番低い位置の電球のみとなる。

落ちるようなピアノ曲が鳴る。光が弱まると、薄らと全ての電球が灯る。上体を起こした
k.a.n.aは、作品を見詰める。曲が終わる。k.a.n.aは左手で作品を揺らし、両掌を胸の前で交差すると膝立ちとなる。立ち上がり、作品を見詰めながら背後に回る。気が付くと、k.a.n.aは作品の中に居る。

作品の内部からの逆光がk.a.n.aの影を生み出すのだが、影と実体の判別がつかず、実体と影が一体と化しているというよりも実体が消滅している印象を与える。k.a.n.aは緩やかに揺らめき、刷毛を持って作品の内側から濃い顔料で流線を描く。その上に赤いラインを重ねながらも逸らしていく。また別な所からラインを引こうとも、起点を通過させ関連を付けていく。

k.a.n.aが自らに顔料を拭っていることは、影を見ることによって見る者に伝達されている。顔を赤く染めたk.a.n.aが、作品の外側を巡る。そして、右手に持った刷毛よって、作品の外側に流線を描いていく。全ての電球が消え、スポットが正面のk.a.n.aを照らす。k.a.n.aは床の布にもラインを綴っていく。

k.a.n.aは立ち上がり、再び作品の内部へ入り、ラインを描き続ける。その様子を、内部からの逆光と正面からのライトが照らす。顔料が乾くことによって複雑な色彩を放つ。それは、照明の効果でもあるだろう。生まれゆく微妙なニュアンスは、作品と動作のライブ感を強調する。k.a.n.aは当初の濃い顔料で描線を続ける。

k.a.n.aは右手に持つスポンジから顔料を含んだ水を滴り落としながら、作品の外へ出てくる。正面で水を作品に添える。掲げた自らの手にも水は伝う。k.a.n.aはスポンジを絞り、作品に垂らす。先程と同じようで異なるピアノ曲が鳴る。手を強く握り、床に水を解放する。立ち上がったk.a.n.aは手首と肘の角度を鋭角にして、体全体を揺るがす。

天井からの赤い光が作品とk.a.n.aに降り注ぐ。k.a.n.aはスポンジを手放し、上体を折り、後退する。全ての電球がなだらかに点滅する。k.a.n.aは作品の背後へ消え、三度作品の内部に入る。逆光もまた、赤い色彩を放つ。k.a.n.aは床に背を付け、両手足を浮かせる。膝立ちになったk.a.n.aは、刷毛によるペイントを続ける。

k.a.n.aが揺らすことによって、作品が有機的に動き出す。k.a.n.aが三度作品から出てきて、頭上を見上げながら進んでいく。止まり、目を閉じ、両手を上に伸ばす。その姿勢のまま、爪先立ちで進んでいく。肘を張り、足を止め、左右に揺らぐ。k.a.n.aの掌が作品に触れる。

k.a.n.aは薄いライトの中、交差した両掌を前に差し出し、作品の周りをゆっくりと巡る。照明が落ちていく。叫び声を立てたk.a.n.aが扉を出て行くと、一時間の公演は終了する。

アフタートークでk.a.n.aと植松はメール交換を繰り返しながら、胎児のイメージに決定したと話した。最後の絶叫は誕生を意味したのだった。植松の作品は中と外が裏返るような印象を見る者に与え、k.a.n.aは彼岸と此岸を行き来しながらも自らの痕跡を瞬時に結晶化し、それにより植松の作品に生命力と躍動感を与えたのであった。

当然、k.a.n.aの自在なペインティングと踊りを可能にしたのは植松の作品が生み出す安定感であった。その安定感を最大限に引き出したのは、早川誠司による照明である。吊り下げられた電球は、まるでインスタレーションのように作品と一体となっていた。内部からの光が虚実を裏返していく。

三者によるコラボレーションがなぜこれほどに違和感なく行われたのかを考えると、総てが自然物から構成されている点にあるのだろう。光、布、顔料は、日光/月光、木、岩という古代から綿々と連なるエレメンツの思想と共通する。それはまた、三者が巡り合った大島の空気を記憶し、内在しているのかも知れない。時間と空間は、個々の想いさえあれば簡単に乗り越えることが可能なのだ。

不動の作品は人体による熱を受け取りながらも、沈黙を繰り返す。この日以後、5階の展示室でこの作品は支柱が抜かれ布を垂れ下ろす態で《UEMATSU mika k.a.n.a 4月21日》と題されて展示された。その作品の姿は、柔らかく、優しく見る者を包み込んで次のステップに導いていくのだ。


撮影:坂田洋一

 

 

 

 

 

 

 

4月22日(月)室井公美子(美術)+向雲太郎(身体))

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
舞台左奥には吊るされた布が展開している。右奥には壊れそうな椅子が置かれ、椅子の前に150cm程の焼かれた/着色された木片、若しくはプラスティックが宙に浮き、括り付けられた紙テープは床まで長く伸びている。紙テープが届く床付近には直径40cm程の円形の鏡が三枚置かれ、一番奥の鏡は割れている。左前には1m程の円形の鏡が床から20cm程に吊るされている。

室井公美子はこのインスタレーションを《泉下の客》と名付けた。当日配布されたパンフレットによると泉下の客とは一般にはあの世を訪ねる人の意であり、室井は「生命の源の下とはどこか。何か。エネルギーに満ちあふれた所なのでしょうか」と問いを発している。

室井は自らのインスタレーションのエレメンツに意味を持たせているので、引用する。「鏡:影見(カゲミ)、カガメ(カガ=蛇の古語・蛇の目)。3:調和・安定・知性、創造・維持・破壊、過去・現在、未来、声・喉・肺、男性性。海:母性・感情の揺れ。滝:湧き出る浄化されたエネルギー。滝壺:女性器。椅子:社会的立場。1:全ての始まり、神、自我。柱:神仏、高貴な人、遺骨などを数えるのに用いる。泉:生命の源」。

室井はインスタレーションにコンセプチュアルな意味合いを持たせたのではなく、自らの想いを潜ませたのではないかと読み取れる。室井は五階の展示室においても《泉下の客(舞台の習作)》1、2の二点を展示し、明と暗、生と死を主題とした二元論的見解を示し、どちらも実際の舞台を思い起こすことができる。

それに対して向雲太郎は同パンフレットにおいて「死者だろうと生者だろうと客が何をするかは客次第です。客は何をするのか。客は何をしたいのか。それはその瞬間に決まるのだと思います」と記している。

室井にとってあの世を尋ねる客は向なのか立ち会った我々なのか。この問いに応えるように、向は普段着でフライヤを抱え、観客のようにインスタレーションを見詰めて進み、椅子に腰掛けると暗転し、公演は始まった。

後方壁面に、波の映像が投影される。暫くすると天井がライトで照らされ、上半身裸体の向が猫道を四足で進んでいることを確認することができる。映像はそのまま波の音は消え、代わりに硬い物質が互いにぶつかるような音が響き渡る。

向は舞台左奥にロープを垂らし、猫道から舞台の布の後方へ降りていく。青と緑の照明が舞台を明るく照らす。向は床へ仰向けに倒れ、這って進む。膝と肘を曲げ、四足になっていく。割れた鏡を覗き込み、通り過ぎる。

向は鏡が並ぶラインに行路を取る。何時しか雑踏の音となる。向は口に含み続けていた水を鏡に吐き出し、体を縮める。腰を引き、足首を交差させて体の向きを換える。爪先立ち両手を前に構えて立ち上がり、左の大きな鏡に向かって、時間をかけて歩行する。

正面から撮影されていた波の映像は俯瞰的となり、宙を捉える視点となる。照明が落ち、大きな鏡に斜めから光が入ると粒子は壁面に向かって反射する。向は鏡の周りを巡り、鏡の中を覗き込み、笑みを零す。

映像は再び正面からの波の実写となる。向は立ち上がり、椅子に腰掛けようとするが、幾度となく躊躇った末に座る。意味のない言葉を囁き、立ち上がると自らの指で自らの胸元を擽り続ける。低い声でスイッチを入れる、高い声でパソコンを操作するマイムを見せる。

向は立ち上がりながら「私の…」と呟くが、椅子に戻って沈黙する。波の映像に、風の音が交差する。向は目を閉じて首を僅かに傾ける。踵と腰が、少しずつ上がっていく。両腕を垂らし、視線を宙に漂わせて中央へ歩を進める。

両手を掲げたかと思うと崩れ落ち、胡坐の姿勢となる。上体を起こしても崩れていく。滝の実写映像が投影される。テンポの良いビートが流れると、向は音に合わせて体をしゃくり上げる。

明るい照明が舞台を隈なく照らす。向は腕を交互に横へ伸ばし、ゆっくりと体を床に流し込み、正座の体勢となって再び大きな鏡を覗き込み、意味のない言葉を呟く。床に腰を掛けたかと思うと、四足で緩急をつけて方向を変化させながら舞台をさ迷い宙にいる何かを捕まえようとするマイムを繰り返す。

トンネル内を、移動する車内から写したような映像が投影される。それは逆回しされているようにも感じる。波打ち際から沖の波を捉えた視点の映像に変化する。向は光を操ろうとするように身を捩じらす。それを全裸になっても続ける。

向は白い布を持ち、叫び声を上げる。僅かな照明の点滅は、闇に光が通り過ぎる印象を与える。向は2mほどの白い布を広げる。波の音が聴こえる。向は左奥の布の後ろへ廻ると、65分の公演は終了する。

室井が形成した此岸と彼岸の狭間に向は無間地獄を見出し、自らを投じた。しかし向が見出した地獄は自らから発生した地獄であり、そこには当然天国と比較される場とはならなかった。この二つの地獄に、我々は立ち会ったこととなる。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月23日(火)関直美(美術)+正朔(身体) +風人(音楽)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
関直美は五階の展示室において、同時期に開催していた個展に出品した《宙ぶらりん》の一部を展示した。重力に向かって辛うじて立ち尽くすこの作品は、彫刻の限界を放棄することなく対決している。関は公演において、この作品と同様でありながらも全く異なる様相を呈す作品群を用意した。

それは床一面にビニールが広大に拡がるだけのスクエアの作品、《生息の場》である。これはインスタレーションやコンセプチュアルな作品ではない。飽く迄も関が制作したのであるから「彫刻」なのである。

重力に対して、最小単位である素材が対決すること。しかし関はその薄さや素材を問題にしていない。立つこと、歩くことという同じ視点を持つ、正朔の舞踏に対峙することが重要なのである。

オレンジの照明が《生息の場》を照らす。右奥に風人が居てマイク、エフェクター、アンプが置かれている。公演が始まる。客電そのまま、風人はハウリングを発生させる。扉から右手に150cm程の枝を持った正朔が入ってくる。

正朔は髪を逆立て、首には関の作品《1/356個》をぶら下げている。即ち、正朔は予め関の作品と一体化しているのだ。風人は一端ハウリングを止め、再び床にマイクを叩いて発生させたハウリングを自在にコントロールしていく。

正朔は前方中央で上空を見上げる。体を捻りながら自己を作品に着地させようとしているのだが、上手くいかない。重心の置き方が常人と全く異なり、従来の正朔とも位相するのは、作品との葛藤がそうさせるのであろう。ビニールを微動だにさせず歩めるのは正朔だけだ。

正朔は枝を水平に前へ翳す。風人は擦れた声とマイクを握る摩擦で音楽を形成する。正朔は床全てが《生息の場》であるにも関わらず、作品の外から内へ枝の矛先を変えていく。照明が明るくなり、正朔の姿が明らかとなる。

正朔の足は小刻みに震えている。その動きが枝の先に伝わっている。風人はマイクから通じた声をリズムに変化させる。正朔は枝を前に翳してから首の後ろに乗せ、両掌を前に収斂させて自己を異なる次元に誘う。

正朔は膝を深く曲げていく。右手で枝を掲げ、体全体を開いていく。会場隅に枝を置き、《1/356個》を両手で抱えると、逆光が強く客席に突き刺さる。正朔は右手に《1/356個》を掲げ、後方左から再び《生息の場》へ入り、後方中央で体を巡らせる。

風人はマイクに強く息を吹き込み、エフェクトせずに音を発信し続ける。正朔は腰を落として《1/356個》を《生息の場》の中央少し前へ置き、右脛を《生息の場》に付け、《1/356個》を引き上げて再び《生息の場》に置く。作品同士が息づく瞬間である。

正朔が立ち上がると、《生息の場》の四隅が宙に浮き始める。すると《生息の場》は、二重のビニールであることが判明する。風人は低い声で唸る。正朔は《1/356個》を振り上げ、風人に託し、中央に立ち右手で心臓を叩く。

風人が絶叫すると、正朔は呼応し自らも嗚咽を上げる。《生息の場》が痙攣する。三者が一体となる。《生息の場》が客席と舞台の間に立ち上り、まるでスクリーンのように両者を遮る。

スクリーン=《生息の場》に正朔の影が投じられる。これまで地であり重力に従属していた《生息の場》が壁面と化すのだ。即ち、天地が逆転する。それに対して、風人と正朔は雄叫びを上げる。

風人はエフェクトしたスクリーミングを連続する。正朔は2枚による《生息の場》を掻い潜り、自らを《生息の場》の下に置く。これによって完全に天地は反転した。舞踏は地を這う行為が動機となっていたとしても、正朔は空を舞うことになったのだ。

風人は強い吐息をマイクに吹き込み、大人が抱えられる限界の大きさである関直美の作品《棲息の家》を中央に投げ込む。正朔は《棲息の家》に頭を入れ、《生息の場》に前進する。風人は強烈なヴォイスに転じ、《生息の場》から抜け出した正朔は《生息の場》と対峙する。

風人はマイクを通じて唸り声を上げ、ハウリングをコントロールする。正朔は《棲息の家》を被ったまま《生息の場》を自らの体に巻き込んでいく。風人は機械音を反復させる。《生息の場》はカーテンのように地から離れ、宙を舞う。

正朔は《生息の家》を頭から外し自己の前方に揺るがして上に掲げ、《生息の場》を掻い潜り舞台前方に降り立つ。強いライトが舞台全体を隈なく照らす。風人は絶叫をエフェクトでコントロールする。正朔は全身を巡らせる。《生息の場》は巻き上がり墜落する。

それは横たわる正朔に《生息の場》が包み込む瞬間でもあった。風人による爆音のループは再び正朔を呼び覚まし、正朔は背を地に付けながら、もがき続けるのであった。風人によるハウリングは祝福をあげるオルガンの音に聴こえてくる。53分とは思えない凝縮した時間が過ぎた。

三者は三者に対して全力で闘争を繰り広げた。それによってそれぞれのジャンルを超克した。


撮影:坂田洋一

 

 

 

 

 

 

 

 

4月24日(水)ヒグマ春夫(美術・映像)+奥野美和(身体)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
ヒグマ春夫は五階の展示室に、3月6-29日に時期に開催していたA・Corns Galleryで開催した「連鎖する日常/あるいは非日常の17日間・展」の小さな記録写真を大量に配置した作品《めくるめく》を展示した。遠目に見ると、無限大のマーク「∞」が浮かび上がってくる。17日間のコラボレーションを自己のものとし、新たな作品を築き上げる宣言に見えてくる。

客入れの最中、奥野美和が徐に入場し、舞台中央に腰を下ろす。後方壁面と左壁面という隣り合う壁面が接する垂直の辺を中央として、客席が設営されている。奥野は客席に腰をかけ、立ち上がり、遠くを見詰める。右壁面から左壁面に移動し、腰を落す。暗転すると、公演が始まる。

一台のプロジェクターが天井に映像を投影する。天井には透明の膜が張られており、映像を受け止める。映像の内容は、裸体の奥野が体を広げていく録画である。実体の奥野は床に仰向けとなっている。藤代洋平による捻るような電子音とスクラッチノイズが鳴り響く。奥野は床をゆっくりと転がっていく。それは床という面を体に巻き込んでいるように見える。

振幅する電子音の速度が上がる。奥野の動きは天井の録画と同様に感じる。自らの振付が他者ではなく過去の自己であるという、不可思議な状態が続く。奥野は肘と脛を床につけ、背を反り、仰向けとなる。映像の奥野が立ち上がると、実体の奥野が遅れて立ち上がる。実体の奥野は映像よりも先んじて、仰向けになる。

奥野は床を跳ねるように舞う。それは波や砂漠の砂、草原に揺らめく草、燃え上がる炎のような自然物を想起させる。音に和音が重なっていくと、天井の映像が止まる。奥野は素早く床と立位置を往復し、その狭間を巡る。奥野が立ち止まると暗転し、音も止まる。

隣り合う二つの壁面に、裸身で歩む奥野の同じ録画映像が投影される。それは砂浜を歩む映像へ変化する。粘りのある電子音が鳴り響き、映像の奥野の膝下は波に晒されている。実体の奥野は、右壁面前に仰向けになっている。立ち上がり背を向け、肩を左右に揺らし、屈んでリズムを取る。

ヒグマの映像はストレートフォトのような客観性を保つ。奥野は右壁面に凭れ、立ち上がり、確実なダンスを繰り広げる。足を掲げ、膝を回し、首を振って腰を落とす。その一つ一つが見る者にとっては明確に伝わり、様々な解釈が可能である象徴的なダンスとなっている。奥野は二つの映像の中心に向かい、床にある扉の蓋を開けて下へ消えていく。

ヒグマは中心にも映像を投影し、計三台の連なる映像となる。原始生命体的CGと波の実写が重なる。それを見ると、縦横斜めといった水平感覚が失われる。マラカスを鳴らすような電子音は、壊滅的イメージを聴く者へ与える。地が裂けていく様だ。抽象性の密度が増す。映像が止まり、闇の中で打撃音が響き渡る。

客入口から、L・フォンタナの絵画のように切込みがある服を身に纏った奥野が入場し、打撃音に対して緩急をつけた連続する静止したフォルムを提示し、それを複雑に編み込んでいくダンスを見せる。天井からの青いライトが、薄らと奥野と床を照らす。反復する機械音は、喚声のようにも聴こえてくる。

奥野は素早い動きを滞りなく繰り返す。それはポージングを拒否し、流浪することのみを欲しているように見える。更にノイズが増していくと、無数の奥野の手が植物のように暗闇の中から生えてくる映像が投影される。それは足先に変化し、ヒグマは動く速度をライブでコントロールしている。

奥野は切れ込みが入った服を剥ぎ取っていく。背を反り、掌を床につけ、足を引き上げる動作を繰り返す。無数の服の破片が床に散らばり、皮膚と同色のボディスーツとなる。映像は足先から腕へと変化する。奥野は立位置で体を強くしゃくりあげる。

映像の手先、足先を地として見ると、背景の黒が図となって揺らめいている。それを応用して奥野の実体を地として、影を図として見ることが可能になるのだ。すると奥野の実体が消滅する。

電子音が持続し、映像が止まると、まるで時間が止まった中で、実体を失ったにも関わらず奥野の実体のみが舞っている錯覚に見舞われる。映像の手先、足先がゆっくりと動き出すと思うと、左右のプロジェクターが閉じられ、奥野が身を竦めて音が止まり、48分の公演は終了する。

天井から壁面へ移動した映像は、地に着くことはない。奥野が幾ら跳躍を繰り広げたとしても、地から逃れることは決してない。この二つが同時に行われることによって、ヒグマの映像と奥野のダンスは互いに未知の領域まで達することが可能となった。過去の映像の振付に対するライブでの振付の再現と、全く振付が施されていない即興というダンスの対比は、人体のフォルムを徹底的に客観視することによって生まれる抽象的映像と激しく火花を散らした。堰き立てる電子音がそれを助長した。この公演に次があるとするならば、時間を経ることによって全く異なる側面が浮かび上がるだろう。


撮影:坂田洋一

 

 

 

 

 

 

 

 

4月25日(木)李容旭(美術・美術)+田村のん(身体)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
後方壁面左右に、天井から幅150cm程の白い布が伸びている。一方は後方へ収斂され、他方は床を斜めに横切る。左壁面には同じ素材の布が丸めて立て掛けられ、一部が捲られて三角上に設置され、後方からの柔らかい光に照らされている。

床の布の上、二箇所に天井から白い紐が垂れている。手前には兎の毛皮のような質感のオブジェが括り付けられ、布から20cm程浮いている。奥の紐の先端は会場時から布の折目に腰をかけている田村のんの右太腿に括り付けられている。李容旭によるインスタレーションである。

赤い帽子を被り、白い手袋を着用し、黒いミュールを履いた田村は、左壁面を見詰めて微動だにしない。暗転し、プロジェクターが開かれると公演が始まる。後方壁面に、左壁面にかかるほどの横長の光が投じられる。

二台のプロジェクターによるその光は、左は光のみなのだが、右は網の目状の映像が投じられている。田村は立ち上がり、上を見ながら右手でロープを包むとスピーカーから爆発音が響き渡る。

爆発音は風が吹き荒ぶ音に変化し、浜辺に波が打ち寄せるカラー実写動画が投影される。田村は両手を足の付根に置き、膝を軽く曲げ、僅かに口を開ける。田村はミュールを脱ぎ、前へ進んでいく。オルゴール的音楽、鳥の囀り、持続する電子音が重なり、鳴り響く。

田村は限りなく微足で進んでいく。その歩みによって、布に撓みが生まれる。田村は掌を臍に添え、肘に角度を作る。体から離し、上を向けたその掌を膝の屈伸によって床の布につけようとしてもつけない。胸の前で掌をまとめ、膝をゆっくりと上下する。

海に浮かぶタンカー、森の中と、恐らく大島で撮影した実写を李は用いている様子だ。飛沫を上げる水と緑が二重に投影される。田村は右手を前に伸ばし、歩を進めていく。指を窄め、肘を折る。柔らかいアコースティックギターの音が流れる。

無音の中、李は映像の中にインスタレーション内で踊る田村を投影する。画面がコマ送りのため、録画かリアルタイムか確認することができない。田村は紐の先端に括り付けられているオブジェを胸に包み、後方壁面へ向かうと、紐が交差する。

田村は振り返り、オブジェを下に置き、オブジェを括っていた紐を手繰り寄せる。すると、田村の右足が上がっていく。紐は天井を通して一本だったのだ。宇宙を高速移動するイメージのCGとライブ、緑の光が三重となって投影される。

田村は布に転び、右足先を揺るがし、左足も掲げる。カメラを覗き込む田村の眼が不気味に壁面へ映り込む。無音が続く中、緑のライトが消えて映像はライブとCGの二重映しとなる。田村は紐を引き寄せ上体を起こして、客席を見詰める。

内股を窄めながら田村は立ち上がり、視線を上部へ移す。肘を腋につけたまま、身に纏うゴミ袋を引く。クイーンの《ボヘミアン・ラプソディ》が大音量で響き渡ると、映像が止む。田村は袋から苺を取り出し、口に入れ噛み潰すと垂れた汁が布を赤く染める。

田村は臍の前で両掌を強く握りながら移動する。田村は布の端に到達する。強く白い光が舞台を照らし、曲が終ると青い光が投じられる。田村は上体を屈め、掌を床につける。再びプロジェクターが稼動する。

木を叩くような音が緩やかな曲となる。映像は何も投じられていない。光のみである。田村は四足でさ迷う。ロープから足を解放し、続ける。中央で腰を着け、上体を床に伏すと暗転し、40分の公演は終了する。

アフタートークで音楽は田村が選曲したことを明かす。田村は人を殺して前途がないクイーンの曲に、ボストンテロを思い起こしたという。李は、兎の毛とは兎にとっては死を表すが、人間にとっては再生をイメージすると話した。

李は五階展示室に、《「さけぶ」をふざける》を出品した。この作品は兎の毛皮をピンクの額に敷き詰め、檻のような垂直な棒で固定し、右側に巻き付けたロープが床にまで垂れ下がる作品である。

兎の毛皮はJ・ボイスを、額はデュシャンを、ロープは中西夏之を連想させるが、李は映像作家であることを考慮にいれると、この作品には視覚化され得ない何者かのヴィジョンが埋没されていることを予測する。それが、この公演であった。

李は後日、ホールでインスタレーションした作品のタイトルを《「ボヘミアン・ラプソディ」に拘束された身体の持ち主田村のん氏あるいは潰れかかったイチゴ汁に犯された白の布たちへ敬意を表する一枚のウサギのために 2013》と名付けた。

映像とは何かを表すものではなく、何かを通じて映像となることが現代美術であることを、この公演は教えてくれた。微細な動きと、苺や曲という象徴を用いた田村の発想が、李の映像に対する思想と見事に符合したのであった。

五階の作品とホールの作品の距離は圧倒的に遠い。同じように、同じ舞台にありながらも全く異なる場所に位置する距離が、この作品の魅力である。光は記憶に直接感化する。人が感熱紙となるのだ。


撮影:坂田洋一  

 

 

 

 

 

 

 

 

4月26日(金)吉本義人(美術)+渡邊るみ(身体)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
吉本義人は鉄を用いた彫刻を制作する。五階の展示室に、30cm程度の五色に彩られた金属片を繋ぎ合わせた《壁態2012》1と2の二点を展示した。垂直に伸びる画廊の壁面にへばりつく様に展示された二つの作品は、重力を全く感じさせない。

渡邊るみとの公演に際して吉本は、《連続する形態》をホールに展示した。それは、5mはあるホールの天井に届くのではないかという程の大きさで、緑と赤で着色された1m程度の11個繋ぎ合わせたパーツに足4、腰2、動体4、腕4、肩2、頭2と穴が穿たれ、宛ら巨人のような形態を誇り、後方壁面に寄り掛かっている。

スピーカーからロックが流れると客電が落ち、《連続する形態》のみにライトが当たる。黒いマントを身に纏った渡邊がホールの二階を伝い、右奥の階段を通じて降りてくる。渡邊は《連続する形態》の前に立ち、見詰める。暗転すると、ロックもフェードアウトする。

ヘリコプター音が暗闇の中で響き渡る。床に倒れた渡邊を赤いライトが照らす。渡邊は右側面を下にしている。マントから爪先を出し、右肘を掲げ、両掌を顕わにする。腰を引き上げていく渡邊の目は、《連続する形態》を捕えている。

渡邊は床を転げ、腰で座る。客席へ視線を注ぎ、鋭い息を二度ほど吐く。無音の中、渡邊は再び作品を見詰める。張り詰めた緊張感が空間全体を支配する。渡邊は四足となり《連続する形態》へ向かって練り歩き、《連続する形態》の足の部分に頭を当てる。

渡邊は足を潜り抜け、手前で蹲る。右手で後頭部を掻き、その動作を切掛けに素早く掌を巡らせる。低い姿勢で上体を曲げ、掌を後ろに回す。「夢、数々の夢は…」、発音しながら言葉を全身に巡らせていく。

スピーカーから鼓動音が聴こえてくる。渡邊は立ち上がり、《連続する形態》の足の部分の穴に腕を通す。床から《連続する形態》下部にかけて、ライトが投じられている。渡邊と《連続する形態》の対話を見事に演出している。

鼓動音はリズミックな曲に変化する。その喧騒の中で渡邊は、静に、緩急をつけて、低い姿勢で体を巡らせる。立ち上がっても、腰を落してもこの作用を続ける。移動した渡邊は《連続する形態》の足の部分の穴から顔を覗かせる。

二本の足に当たる箇所に座り、左手を巡らせるとリズミックな曲が止まる。《連続する形態》全体に隈なく光が投じられる。「数々の夢は…」、渡邊は再び語り、微笑みを浮かべながら低い姿勢を保って前に出る。

スピーカーから時計の針の音が聴こえてくる。そこにジェット音とハミングがミックスされる。渡邊は膝を抱えて座り、首と視線を別々に動かしていく。床に直径20cm程のライトが、立て並びに四つ投じられる。《連続する形態》にもライトが当てられる。

渡邊は腰をつけたまま、首と視線の動きを続ける。脛を付けたまま移動し、背を向け、《連続する形態》の足の間を通り越して、後方壁面に体の正面を付ける。振り返り、《連続する形態》の足の間を抜け、床に腰をつけたまま両手を広げると、音が止まる。

渡邊は目を見開き、左掌を顔の横に翳す。雷鳴と豪雨の音が響き渡り、スコールのように直ぐに止む。渡邊はミドルテンポの電子音に身を委ね、座ったまま首、肩、肘、膝をうねらせ、恐れる表情を浮かべる。立ち上がり、舞台を巡っては竦む。

《連続する形態》に光が強く突き刺さる。渡邊が立ち尽くすと曲が止まる。「一秒先も分からない…」。渡邊は呟く。緩やかなギターの持続音が漂う。渡邊は床に体を捩り、広げた掌で顔を拭い、《連続する形態》の足に縋る。

渡邊はマントを頭に被せて揺らぐ。「飢えたる者は…」。静かに声を響き亘らせると、スローなピアノ曲が始まる。渡邊は目を瞑り、《連続する形態》から離れない。座り、掌をさ迷わせる。赤いライトが《連続する形態》を照らす。

鼓動音が轟くと、渡邊は膝立ちとなり身を纏めていく。立ち上がりマントを脱ぎ去ると円やかな電子音が鳴り響き、《連続する形態》の前に立った渡邊は両手を広げる。両手を掲げ、マントを抱え、《連続する形態》から遠ざかる。

「総てが…」。渡邊は《連続する形態》を見ながら語る。軽快なロックが流れる。渡邊は舞台前方で腰を落とし、掌で表情を語り、右側面を下にして蹲ると暗転する。闇の中でヘリコプター音がうねり、上からの光が渡邊を照らし、再び闇が訪れると一時間の公演が終了する。

アフタートークで吉本は、《連続する形態》は形が自在に替えられるが今回は人間的にしたと語り、渡邊は《連続する形態》を見て当初創った作品を破棄して、その場で直観的に、感覚的に動いたことを明かした。

吉本の作品は人間的であるからこそ、他の抽象的な組み方をしてもより人間的になるのだろうという点を発見することができた。渡邊は音を効果的に使い、語り得ない物語を創出した。渡邊が語る物語は、一貫して夢が主題となっている。《連続する形態》は男であろうか、女であろうか。憂い、情感。渡邊は喜怒哀楽を語り尽した。


撮影:坂田洋一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月27日(土)佐々木愛美(美術)+Picnic torio(鹿島公太/栗生健二/小日山拓也)+三宅博子

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
床にはミニギター、アンプ、エフェクター、パーカッションといった楽器だけではなく、ボール、ライトなどのインスタレーション的要素が雑然と置かれている。天井にはテグスが張り巡らされ、1mほどの細いプラスティック棒が30本ほどを複雑に繋いでいる。直径1mはあろうか楕円のトタンが二階近くと人が叩ける高さの二箇所に吊るされ、マイクが備え付けられている。

観客は、参加が可能な証である椅子に置かれた鈴やトライアングルを手にとって座る。鹿島公太、栗生健二、小日山拓也、三宅博子が入場すると暗転し、19時15分、公演が始まる。闇の中でハモニカの持続音、金属を擦る音、電子音が区別なく流れていく。ディレイが利くシンバル、木片の音が軽いハウリングを起こす。鋸や鉢を擦る持続音が続く。口琴も聴こえて来る。様々な音が密集しては拡散し、一つになっては解れていく。

それは管弦楽を想起させる。トタンに鈴を当てる打撃音が響くと、徐々に緑のライトが舞台を隈なく照らしていく。ボディがなく弦のみの楽器、ホースにマウスのみが付けられている楽器が見える。ギター、ハモニカ、エレクトロニクスとありとあらゆる音源がここにはある。佐々木がスイッチを入れると、ライトが点滅する。ギター音はエフェクトされループし、ハモニカはクラリネットによるハーモニクスに転じる。

ライトの点滅の速度が上がると、演奏もまた早まる気がする。録音された声がスピーカーから聴こえて来る。ビニール製の豚を叩くと豚の声に模した音が飛び出す。照明が止み点滅するライトのみとなる。自作楽器が奏でる持続音が心地よい。音列がないのに、不協和音は生じない。客電が着き第一部が終り、10分ほどの休憩に入る。これからどのように展開するのか、今起こっていたのは何だったのかと考える余裕が休憩にはあった。

20時、第二部が開始する。豚の声が鳴る。大きなドライアイスにカップ、シンバル等を乗せると、聴いた事のない持続音が発生する。ギターはエレキとなり、全体的に第一部に較べてノイジーな展開となる。早川誠司は上から薄い照明を当てて、この熱狂を助長する。それに合わせて佐々木はライトを点滅させ、鈴を叩きつけるなど、演奏にも参加する。スティックでトタンの底を叩き、クラリネットとギターが唸りを上げる。

佐々木は後方壁面、右前、中央と、計6基のライトを点滅させる。音が反復し、渦を巻き、一体となった20時20分、公演は終了する。計65分であった。佐々木は去年の個展の透明な作品《Orbital Flight》と今年二月の作品《DERTA》の2つを、更に音楽のコラボとして楽器を含むインスタレーション《Sync factor》として今回展示したという。佐々木はインスタレーションだけではなく、パフォーマンスとして自らを作品に投じたのだった。

パフォーマンスを含むことによって、インスタレーションが完結する。そのような発想で5階ギャラリーに展示されている佐々木の作品《sssyyynnnccc_fffaaaccctttooorrr》を見ると、また違った見解を示すことが可能となる。映像的である筈の作品のフォルムが溶解し、音のイメージである粒子や水蒸気が集合してくるような印象が生まれてくる。作品とは作者の意図を超えて存在することが、改めて理解される。

演奏者の紹介により、鹿島公太がエレクトロニクス、栗生健二がギター、小日山拓也が自作楽器、三宅博子がクラリネットであることが判明した。

Picnic Trioの演奏は、私は今回初めて耳にしたので、今回が特別なのか、従来の姿なのか判断がつかないが、タージマハール旅行団の演奏を思い起こした。何事にも囚われない、自然体の、自由を目指しながらも知的な創造力を表出する点には共通点がある。従来の楽器を大切にしながらも、エレクトロニクスも人間という人工物ではない存在が開発しているという発想を保っている。

しかしタージマハール旅行団と今回のPicnic Trioの演奏が圧倒的に異なる点は、閉じられた空間での音の在り方である。Picnic Trioは屋外でも演奏は可能と言うよりも得意であろう、しかし今回の演奏は、室内での特徴を用いて残響音やループ音を響かせたというよりも、光と闇を上手くとらえていたと感じた。即ち、佐々木のインスタレーションに対する理解が深かったということでもある。

公演中、作品が変貌したり、見え方が変わったりということはなかった。それはつまり、公演が作品であったことを如実に表していると解釈することが出来るのではないだろうか。インスタレーション、音楽、パフォーマンス、行為、在り方そのものが一体化して、作品として成立したのであった。

他分野とのコラボレーションというと、J・ケージ、M・カニングハム、R・ラウシェンバーグの公演が咄嗟に頭を突く。しかしここには3人の巨匠の合併という、何かしら近代の天才志向がどうしても含まれてしまうのだ。この公演には、そういった権威や天才主義が一切なく、それどころか観客も含めようと削ぎ落とした面白さがあったのではないだろうか。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月28日(日)建畠朔弥(美術)+栗林琢也(音楽)

報告:宮田徹也(日本近代美術思想史研究)
当日、A4三枚綴りのパンフレットが配布された。一枚は建畠朔弥による和英の詩である。「あなたはまだそこに居るの/巨大な給水塔の上/横書きの余韻に」。一枚は水平線に雲が漂い、下部に帽子を被った、左側は正面を向き、右側は下を向く性別の無い顔が二つ浮ぶ縦書きのドローイングである。

最後の一枚は栗林琢也による動機の解説である。かつて花巻を訪れ、宮沢賢治の『インドラの網』を想起し、この世界観を元に作曲したこと、『インドラの網』の引用、語彙の解説が記されている。ペルシャの打弦楽器サントゥールとピアノでオリエンタルな響きを描くとしている。賢治の文章を再録する。

「やがて天の世界の太陽が昇り、空一面にインドラのスペクトル製の網が、繊維が蜘蛛のより細く、組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く、幾億互いに交錯し、光ってふるえて燃えています。」

舞台には長さ2m、幅2cm、厚5mm程の平板が13枚積み上げられ、縦に置かれている。「SAI防具・防刃盾」と書かれた30cm四方の段ボール箱が13個、中央に添えられている。右奥にショッピングカー3台とビニール傘一つが配置され、後方壁面より僅か右にエレキピアノとシンセサイザーが佇んでいる。

建畠が音叉を鳴らすことによって、公演が始まる。建畠は助手一名を伴い、段ボールから次々と防具を取り出していく。段ボールを奥に片付け、平板を右側へ寄せ、防具の裏の手持ちの箇所に平板を通す。四分の一辺りの箇所で留め、左の壁面に並べていくことによって、防具はオブジェ=作品と化す。恐ろしいまでに整備された段取りが美しい。

その間、栗林は、マラカスや椅子を弓で擦り、音を発生させる。建畠は七つ組み立て壁に立て掛けた時点で、再び音叉を鳴らす。スピーカーから子供の声が流れ、ライトは組み立てる建畠の姿を照らす。ハウリングと電子音の曲が流れ、建畠は鳴らせた音叉をオブジェに当てていく。

オブジェは左壁面に8つ並び、2つは中央に置かれる。栗林がピアノを鳴らす。和音が響き渡る。栗林は譜面と共に、作品を見ながら、中音、高音、低音と音を落としていく。不可思議な和音とテンポを失ったリズムが淡々と流れていく。建畠と助手は客席に座り、オブジェを眺め、音を聴く。

栗林はピアノを弾く合間に、サントゥールを弓で擦り高音を発生させる。オブジェが顔に見えてくる。音が時間を無化し、不気味さが漂いながらも浄化されていく。栗林は純和音のトリルに木片を擦ることによってノイズを挿入させる。譜面を換え、二曲目となる。テンポがあり、なだらかに滞りのない曲である。

白いライトは、オブジェの無機質な金属的物質感の冷たい温度を強調する。栗林は譜面を閉じ、三曲目に移行する。シンセサイザーに移り、ホーンのような単発な電子音を、間隔を開けて奏でる。まるで生まれては直ぐに消える、音叉の響きのようだ。高音が吸い込まれていく。栗林はパーカッションのような音に切り替える。

オブジェに沈黙は存在しない。オブジェは微動だに「している」状態が浮かび上がる。それはイメージの問題ではない。実際に地球は動き、我々も留まることを知らない。作品が物質である限り酸化し、朽ち果てていく。時間と空間は胎動しているのだ。止まっているのは錯覚である。

栗林が沈黙すると、建畠と助手は二台連動させたショッピングカートを中央に持ち込み、オブジェを次々にショッピングカートに挿していく。栗林は譜面に描かれた断片的な和音を奏で、左手に持つマレットは木片を同じテンポで叩く。13のオブジェは互いに触れ合うことがなくショッピングカートに固定されることによって、新たな作品として生まれ代わる。

栗林はエレキピアノでレガートを形成する。新たな作品には人為的意図が一切存在しないように見える。物質、思想、レディ・メイド、重力、大気。総ての要素がここにある。栗林は左右の指でトリルを奏でる。タイミングというよりも、音の在り方を囁くようにずらしていく。

新たな作品の影がまたその美しさを強調する。先程の光景が嘘のようだ。栗林は音色をそのまま、テンポの良い曲を奏でる。しかし配布したパンフレットに栗林が書いているように「微分音ずれた2つの同じ音程のぶつかり合い」が生じ、時間の異化をオブジェに背負わせていく。建畠が音叉を鳴らすと、55分の公演は終了する。

アフタートークで建畠は「人と人とは分かり合えない」と話した。

この公演は「インドラ=帝釈天は天界の王で、世界の中心にそびえる須弥山の頂上に宮殿があり、屋根には結び目ごとに美しい玉がついた網がかかる。個人は世界と無限に関係しあっているという重々無尽思想(『華厳経』の重要思想)の比喩」(栗林パンフレット)を音と作品によって実現したということは出来る。

五階展示室の建畠作品《HORIZONATAL WRITING》と《VERTICAL WRITING》という小型の絵画は、『インドラの網』よりも更に根源的な世界を捉え、公演の情景の原風景となっていたということが出来る。